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おくたがわさんへ 最後は空性の話題へ〜
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□投稿者/ pipit -(2021/06/03(Thu) 06:28:38)
| 2021/06/03(Thu) 17:26:31 編集(投稿者)
おくたがわさん、おはようございます(^○^) ■No13449
> そうだと思います。 > 以下とも整合性がありますね。 > >>カントは『プロレゴーメナ』第十八節で >>「すべての経験判断(Erfahrungsurteil)は経験的(empirisch)である。すなわち感官の直接的知覚に基づいている。 >>しかし逆にすべての経験的判断(empirisches Urteil)は経験判断(Erfahrungsurteil)ではない。 >>経験判断には経験的なもの(das Empirische)、一般に感性的直観に与えられるもの以上に、なおその根源をまったく先天的に純粋理性において有するところの特殊な概念を必要とするのである。」といっている。 >
補足情報として、 経験についてのカントの文章の一つとして、 B218、219あたり? 中山先生の独自番号では、251(第3巻p99) に、説明文章があります。
『純粋理性批判3』中山元先生訳、カント、光文社古典新訳文庫、p99より引用(カントの文章) 『経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。(略)』 (引用終了) とあります。 カントは別の箇所ではまた違う意味づけをしてる可能性はありますけどね(^_^)
> それで、高峯さんの解説が素晴らしくて(と自分は思う) > >>ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、厳密にはカントの「経験的」は「感覚」や「知覚」或いは「印象」と同じ意味であり、これに対して「経験」は、「印象」(経験的なもの)と「認識能力の付け加えるもの」との二つから構成されているのである。 > > さらっと書いてあるけど > >『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』< > > もし冒頭の『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。』 > が『認識はすべて「経験的」(empirisch)なものをもって始まる。』 > だったら、全体がスッキリすると思うのです。 > 経験的=「感覚」や「知覚」或いは「印象」/対象に触発されての直感、感性的なもの。これが、認識へ至るきっかけになる。 > 続く『対象によってでないなら、何によって呼びさまされるのか』 > という反語も、「対象に触発される=経験的(empirisch)」のことを言っているから、「これ以外に可能性はないのだから認識は経験(的)から始まるのだ」という意味になる。<
補足情報としまして2 中山元先生の第一巻での、中山先生による解説では、該当箇所の解説として
『純粋理性批判1』カント 中山元先生訳 光文社古典新訳文庫 p276より抜粋引用 (中山先生の解説) 『(略)。カントの語る経験とはそのようなものではなく、ぼくたちが意識しているかぎり、あるいは無意識においても、たえず行っている行為である。 それは、対象に触発されることで人間の認識能力が働き始めるということである。ここで触発という言葉は耳新しいかもしれない。それはあるものから刺激をうけて、その刺激をうけとめることと考えてほしい。 (略)』 引用終了
とされてて、略したところでも中山先生の考えを詳しく述べられています。
> ここを、カントが書いている通りに > 『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)をもってはじまる』 > と読むと、何を言いたいのか分からなくなる。 > 『感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなす』 > の部分も、対象の認識=経験なら 認識と経験が同時なのは当たり前だろう? となって。 > > カントの書き方がテキットーなせいで難解になっている。 > と私が言っても信じてもらえないでしょうが、、 > > 考えてみれば高峯さんも、そう解釈してるわけですね。 > わざわざ、 > 『経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる』 > に註をつけて > 『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』以下、「経験的」(empirisch)を説明しているわけだから、 > この冒頭部分は、本来は「経験的」(empirisch)と書くべき部分だと、高峯さんは解釈している。 > その解釈にもとづく解説を読んだから、自分も、そう気づいたわけか。<
わたしもけっこうおくたがわさんと同じように思ってたところがあるのですが、うましかさんにコメントいただいたことで、 『カントのナゾナゾ』として読む、という読み方もあるんだな、と気付かされました。
それとか、禅の公案、とか。 (コトバンクさん『公案』より抜粋引用 (略)A禅宗で、参禅者に出す課題。仏祖の言行のうち、修行者にとって意義深いものや、暗示に富むものを選んで課題としたもので、難問が多い。転じて、自然現象の一切を仏法を示す課題と見る見方。また、一般に難問、研究課題をもいう。引用終了)
禅の場合は、知識で答え出すかんじではないかもですけどね。
意図してではないと思うのですが、カントという人は、いろんな解釈の起こる文章を書く、ということが起こりがちな方だったのかなぁ、と、昨日思ってました。 そして最後の言葉が、
wikiより引用 『最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと伝えられている。』 引用終了
Es ist Gut ↓ Google翻訳さんによる英訳 It is good
この最期の言葉の意味も、様々に解釈されているようですね。
個人的好みで、『空性』という言葉が頭に浮かびます。
おくたがわさん、いつもありがとうございます!
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