□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/01(Tue) 18:00:23)
| ■No13442に返信(pipitさんの記事) こんにちは。
> >『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p56から引用。 > > 『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験から生じるのではない。というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうからである。』< > > この文章だと、 > > 経験認識は、 > > 経験をもって始まる→私たちが印象によって受け取るもの > > ↓ > ↓ > (感性的印象をたんなるきっかけとして) > ↓ > ↓ > > 経験以外から生じる→私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するもの > > ↓↓↓ > > から合成されたもの > > って意味合いに、読めるんじゃないかなあ?と、引用を入力しながら思いました。
そうだと思います。 以下とも整合性がありますね。
> カントは『プロレゴーメナ』第十八節で > 「すべての経験判断(Erfahrungsurteil)は経験的(empirisch)である。すなわち感官の直接的知覚に基づいている。 > しかし逆にすべての経験的判断(empirisches Urteil)は経験判断(Erfahrungsurteil)ではない。 > 経験判断には経験的なもの(das Empirische)、一般に感性的直観に与えられるもの以上に、なおその根源をまったく先天的に純粋理性において有するところの特殊な概念を必要とするのである。」といっている。
それで、高峯さんの解説が素晴らしくて(と自分は思う)
> ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、厳密にはカントの「経験的」は「感覚」や「知覚」或いは「印象」と同じ意味であり、これに対して「経験」は、「印象」(経験的なもの)と「認識能力の付け加えるもの」との二つから構成されているのである。
さらっと書いてあるけど >『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』<
もし冒頭の『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。』 が『認識はすべて「経験的」(empirisch)なものをもって始まる。』 だったら、全体がスッキリすると思うのです。 経験的=「感覚」や「知覚」或いは「印象」/対象に触発されての直感、感性的なもの。これが、認識へ至るきっかけになる。 続く『対象によってでないなら、何によって呼びさまされるのか』 という反語も、「対象に触発される=経験的(empirisch)」のことを言っているから、「これ以外に可能性はないのだから認識は経験(的)から始まるのだ」という意味になる。
ここを、カントが書いている通りに 『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)をもってはじまる』 と読むと、何を言いたいのか分からなくなる。 『感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなす』 の部分も、対象の認識=経験なら 認識と経験が同時なのは当たり前だろう? となって。
カントの書き方がテキットーなせいで難解になっている。 と私が言っても信じてもらえないでしょうが、、
考えてみれば高峯さんも、そう解釈してるわけですね。 わざわざ、 『経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる』 に註をつけて 『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』以下、「経験的」(empirisch)を説明しているわけだから、 この冒頭部分は、本来は「経験的」(empirisch)と書くべき部分だと、高峯さんは解釈している。 その解釈にもとづく解説を読んだから、自分も、そう気づいたわけか。
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