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判断表からのぉ〜〜カテゴリー表
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□投稿者/ pipit -(2021/03/22(Mon) 17:56:04)
| 2021/03/22(Mon) 18:00:19 編集(投稿者)
No.11509 的をはずしてるか不安で、山下和也先生の『カントとオートポイエーシス』のカテゴリーについての箇所を読んでみました。
『カントの言う形而上学的演繹は、システムの実際の作動としての連環した認識表象産出である判断から、それを可能にする概念コードの項を読み出す試みと言える。』 (『カントとオートポイエーシス』山下和也先生著、晃洋書房、p105より引用)
という箇所などを読んで、 けっこう、大丈夫やったかも?と少し安心しました。(勘違いかもやけど~_~;) やっぱり、解説書に依存してしまいます(汗)
山下先生の文章を引用させていただき、頭に入れた上で、また、カントの文章を再度読もうと思います。
『カントとオートポイエーシス』山下和也先生著、晃洋書房、p102〜106から抜粋引用 山下先生の解説文章です。 『(略) 思惟するとは直観の多様の下に何らかの一つのまとまりを作ることなのであり、作られたこのまとまりがその客観となる。 カテゴリーとは、表象の多様を連環させて一つのまとまりを作り出す際の普遍的な規則に他ならない。 まず量のカテゴリーの場合、単一性とはそれを一つのまとまりとする規則、数多性とはまとまりを複数作り出す規則、総体性とは複数のまとまりを一つのまとまりとする規則である。 したがって、直観の多様の下で、単一性のカテゴリーによって一つの客観が、数多性のカテゴリーによって複数の客観が、総体性のカテゴリーによって複雑の客観から成る一つの客観が思惟されることになる。 (略) 次に質のカテゴリーのうち、実在性はあるまとまりを存在するものとして、否定性はまとまりを存在しないものとして、制限性はそのまとまりを何らかの非存在すなわち欠損をもつものとして思惟させる規則である。 関係のカテゴリーで言えば、内属性と自存性はまとまりとそれがもつ性質の間の連環、原因性と依存性は一つのまとまりが他方のまとまりの産出を引き起こすという連環を、相互性はまとまり同士の双方向の連環を作り出すという規則になる。 (略) すなわち、人間の悟性はカテゴリーを規則としてすべての概念を、経験的概念を含めて、システム化しているのである。 (略) そして、カテゴリーがアプリオリなのは、概念コードが認識表象とその内の現れの産出に対してもつ、原理的な先行の結果であろう。 おそらく概念コードの項の中には閉じたネットワークのハブとして思惟という認識表象の産出そのものを可能にする最低限のものがあり、それがすなわちカテゴリーである。 そしてカントの言う概念のシステムとは概念コードのネットワークに相当する。 カテゴリーである概念コードの項は、そのネットワークの要としてネットワークの概形を定めるのであろう。 (略) カントの言う形而上学的演繹は、システムの実際の作動としての連環した認識表象産出である判断から、それを可能にする概念コードの項を読み出す試みと言える。 カントの挙げるカテゴリーの名称は、規則である概念コードの項に与えられたコード表象である記号に他ならない。 (略) ちなみに、概念コードの項であるカテゴリーそれぞれに対応させている記号、すなわちその名称は任意であり、実際ドイツ語と日本語では表記が異なるのであるが、一つのカテゴリーが規則づける判断のタイプはどの言語であろうと同じになる。 例えば原因性と依存性のカテゴリーなら、それが規則づける判断のタイプは、いかなる言語であろうと、日本語に訳せば「AによってBが存在する」、「AはBの原因である」と訳しうるものとなる。 (略) アプリオリに対象に関係しうる概念には、空間、時間とカテゴリーがあるが、「それらの産出の機会原因は経験に求めることができる」、つまり「認識能力の全体をそれに関して開始し、経験を生じさせる第一の契機は感官の印象が与える」(B118)。 要するに実際に概念としての規則が作動するのは、それが働きかける印象が与えられたときである。 カントの言い方では、経験は「感官からの認識への質量と、純粋な直観作用と思惟作用からの、それを秩序づけるある形式」(ibid)とを含むのであり、前者が与えられることを契機として、それに対して後者が作動し、経験が成立する。 オートポイエーシスの言葉で言えば、概念コードに従って認識表象における現れが、感覚すなわち環境からの攪乱を契機として産出されるとき、経験となる。 (略)』
以上で引用終了します。ちなみにカント哲学の文脈において〈経験〉は、客観的な体験、みたいな意味合いかもです。
山下先生の解説も参考にさせていただき、また、カントの文章を再読していこうと思います。
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