(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■13462 / inTopicNo.85)  おくたがわさんへ いろいろにすてきな訳文
  
□投稿者/ pipit -(2021/06/02(Wed) 09:22:40)
    おくたがわさん、こんにちは〜(^o^)/♪
    No13428
    > 先日書き忘れましたが、借りてきた天野訳は栗田出版会の『天野貞祐全集 第8巻』です。たぶん学術文庫版と同じ内容と思いますが一致してますか?<

    私が持ってるのは、電子版の講談社学術文庫の『純粋理性批判(一)』です。
    見比べてみましたが、漢字をふりがなにかえたり、などはあるようですが、文章そのものは一致しているようです。



    > 訳によって、[対象の認識である経験を作り上げる]の主語がなんであるかが異なって読めます。
    > ・「対象」がそのまま主語として続いているもの
    > ・対象が主語だが、「させる」という使役として、経験を作り上げるのは悟性活動であることを示唆するもの。
    > ・知性活動(悟性活動)を主語とするセンテンスを新たに置いているもの。<

    ちゃんと読むと、本当そうですね。
    訳される方々は、それぞれの思う「誠実」であろうと努力されてるように思えました。
    (カント先生のせいや〜、と思うわたしでありました…)

    御子柴善之先生は、以下のように訳されていました。
    『私たちのすべての認識は経験をもって始まる。このことに、なんら疑いの余地はない。というのは、私たちの感官を刺激し、一方でおのずから諸表象を生み出し、他方で私たちの悟性活動を作動させるのは、〔経験の〕対象であるが、この対象が、諸表象を比較し、結合あるいは分離し、そのようにして感性的印象の生の素材を、対象の認識ーーこの認識が経験と呼ばれるーーへと加工するということをひき起こすのでないとすれば、いったいなにによって認識能力が活動へと呼び覚まされるというのであろうか。したがって、時間の上では、私たちにおけるいかなる認識も経験に先行しないのであり、すべての認識が経験をもって始まるのである。』
    (『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p54より引用 ※〔経験の〕は、御子柴先生ご自身による補足。)

    ↓↓↓この引用を略して抜粋引用しますね

    【この対象が、(略)感性的印象の生の素材を、対象の認識ーーこの認識が経験と呼ばれるーーへと加工するということをひき起こすのでないとすれば、いったいなにによって認識能力が活動へと呼び覚まされるというのであろうか。したがって、時間の上では、私たちにおけるいかなる認識も経験に先行しないのであり、すべての認識が経験をもって始まるのである。】


    認識能力が活動して《認識》が現れる、とするなら、
    認識能力が活動してないときは、すべての《認識》は現れませんよね。
    認識能力のスイッチを引き起こすのが、対象である、、、

    カントはB117あたりで、
    『人間の認識というこのきわめて雑多な〈織物〉は、多数の概念によって織りあげられているが、こうした概念のうちには、一切の経験から独立して、アプリオリで純粋に利用される概念がある。』
    (『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p93より引用)

    としていますが、

    認識能力が活動してしか認識は得られないけど、その認識の中にはアプリオリな概念も含まれてる。という感じに今のところ思いました。

    天野貞祐先生の訳の
    『 然し、我々のあらゆる認識は経験と共に起始する(anheben)、といっても、必ずしもあらゆる認識がすべて経験から発現する(entspringen)わけではない。』
    なんか、好きだなーー


    > あと、
    > 自分は天野訳がなんか好きで、ミスも無いと先日書きましたが、
    > 引用部分の「経験認識ですら」の部分、天野訳だけが「経験的認識」としてある。
    > pipitさんの引用された高峯訳および解説からするとそこは「経験認識」じゃないとあかんようですね。<

    悟性と訳されるのが一般的になっていた単語を、中山元先生が知性と訳されたり、と、どういう訳語を選択するのか、翻訳者の自由な領域があるかもですが、
    Erfahrungserkenntnis、ということなら、経験認識という訳語の方が、カントに興味ある方のうちにおいては納得しやすい訳語かもしれませんね。

    でも、私も天野貞祐先生の訳も、好きな印象です(^_^)

引用返信/返信 削除キー/
■13458 / inTopicNo.86)  pipitさんへ 高峯訳
□投稿者/ うましか -(2021/06/01(Tue) 22:07:52)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    『純粋理性批判』第二版序言冒頭の高峯一愚訳と高峯による注釈の引用、ありがとうございました!
    No.13390

    *******

    >一、純粋認識(一)と経験的(empirisch)認識との区別について

    >われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。このことについてはまったく疑いの余地はない。なぜなら、認識能力がもし対象によって(三)生じないとすれば、それ以外に何によって働き出すよう呼びさまされるはずがあろうか。そしてこの対象こそわれわれの感官を動かして、一方ではおのずから表象を生ぜしめ、他方ではわれわれの悟性活動を働かしめてこれらの表象を比較し、それらを結合したり分離したりして、感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなすものなのである。したがって時間的に見れば、経験に先立っていかなる認識もわれわれのうちに生ずるということはなく、認識はすべて経験をもってはじまるのである。

    >しかしわれわれの認識がすべて経験をもってはじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験から生ずるのではない(四)。なぜなら、おそらくわれわれの経験認識(Erfahrungserkenntnis)ですら、われわれが印象〔直観〕によって受けとるものと、われわれ自身の認識能力〔悟性〕が(感性的印象によっては単に機縁を与えられるのみで)自分自身から与えるものとの結合であるというのが真実であろうからである。

    >ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していない

    *******



    pipitさんにお願いがあります!

    私は高峯訳をもっていないのですが、pipitさんが引用してくださった箇所の次の段落も引用をしていただければ幸いです。m(__)m

    次の段落ではタイトルにもある「認識」の区別をめぐり、ア・プリオリ(と名づけられた)認識と、empirischen(な)認識が、カントによって強調され対比してのべられていますが、高峯がそこをどう訳し、どう注釈をつけているのかちょっと興味があります。

    よろしくお願いいたします!

    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/
■13449 / inTopicNo.87)  Re[8]: 雑感
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/01(Tue) 18:00:23)
    No13442に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。

    > >『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p56から引用。
    >
    > 『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験から生じるのではない。というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうからである。』<
    >
    > この文章だと、
    >
    > 経験認識は、
    >
    > 経験をもって始まる→私たちが印象によって受け取るもの
    >
    > ↓
    > ↓
    > (感性的印象をたんなるきっかけとして)
    > ↓
    > ↓
    >
    > 経験以外から生じる→私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するもの
    >
    > ↓↓↓
    >
    > から合成されたもの
    >
    > って意味合いに、読めるんじゃないかなあ?と、引用を入力しながら思いました。

    そうだと思います。
    以下とも整合性がありますね。

    > カントは『プロレゴーメナ』第十八節で
    > 「すべての経験判断(Erfahrungsurteil)は経験的(empirisch)である。すなわち感官の直接的知覚に基づいている。
    > しかし逆にすべての経験的判断(empirisches Urteil)は経験判断(Erfahrungsurteil)ではない。
    > 経験判断には経験的なもの(das Empirische)、一般に感性的直観に与えられるもの以上に、なおその根源をまったく先天的に純粋理性において有するところの特殊な概念を必要とするのである。」といっている。


    それで、高峯さんの解説が素晴らしくて(と自分は思う)

    > ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、厳密にはカントの「経験的」は「感覚」や「知覚」或いは「印象」と同じ意味であり、これに対して「経験」は、「印象」(経験的なもの)と「認識能力の付け加えるもの」との二つから構成されているのである。

    さらっと書いてあるけど
    >『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』<

    もし冒頭の『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。』
    が『認識はすべて「経験的」(empirisch)なものをもって始まる。』
    だったら、全体がスッキリすると思うのです。
    経験的=「感覚」や「知覚」或いは「印象」/対象に触発されての直感、感性的なもの。これが、認識へ至るきっかけになる。
    続く『対象によってでないなら、何によって呼びさまされるのか』
    という反語も、「対象に触発される=経験的(empirisch)」のことを言っているから、「これ以外に可能性はないのだから認識は経験(的)から始まるのだ」という意味になる。

    ここを、カントが書いている通りに
    『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)をもってはじまる』
    と読むと、何を言いたいのか分からなくなる。
    『感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなす』
    の部分も、対象の認識=経験なら 認識と経験が同時なのは当たり前だろう? となって。

    カントの書き方がテキットーなせいで難解になっている。
    と私が言っても信じてもらえないでしょうが、、

    考えてみれば高峯さんも、そう解釈してるわけですね。
    わざわざ、
    『経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる』
    に註をつけて
    『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』以下、「経験的」(empirisch)を説明しているわけだから、
    この冒頭部分は、本来は「経験的」(empirisch)と書くべき部分だと、高峯さんは解釈している。
    その解釈にもとづく解説を読んだから、自分も、そう気づいたわけか。
引用返信/返信 削除キー/
■13442 / inTopicNo.88)  雑感
□投稿者/ pipit -(2021/06/01(Tue) 07:27:06)
    2021/06/01(Tue) 07:29:02 編集(投稿者)


    >『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p56から引用。

    『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験から生じるのではない。というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうからである。』<

    この文章だと、

    経験認識は、

    経験をもって始まる→私たちが印象によって受け取るもの



    (感性的印象をたんなるきっかけとして)



    経験以外から生じる→私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するもの

    ↓↓↓

    から合成されたもの

    って意味合いに、読めるんじゃないかなあ?と、引用を入力しながら思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■13439 / inTopicNo.89)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/01(Tue) 07:05:54)
    No.13427
    おくたがわさん、おはようございます!

    わ〜い、いろんな先生の訳の引用比べありがとうございます!
    見比べられて嬉しいです!

    まだきちんと目を通してないのですが、じっくり読みたいと思っています。

    お返しに(?)御子柴善之先生の訳文を引用します。
    後で、これらを総合して(?)思うことを書き込みしたいと思います。
    No.13428も、考えたいです♪

    まず、御子柴善之先生の訳を引用させていただきますねm(_ _)m

    『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p56から引用。

    『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験から生じるのではない。というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうからである。』
    引用終了

    書き込みありがとうございます(^o^)/

引用返信/返信 削除キー/
■13438 / inTopicNo.90)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/01(Tue) 06:52:18)
    うましかさん、おはようございます!
    引用すると言っていた箇所を引用しますね(^_^)

    『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著、日本実業出版社、p60〜の『Keyword 学問的に正しい知識』の箇所を引用します。ギリシア語部分は(G)と記して、省略します。

    引用開始
    『エピステーメーとは、「やり方を知る、理解する、事実を知る:to know how to do/ understand / know as a fact 」などという意味の動詞「エピスターマイ:(G)」の名詞形である。
    この動詞は、「エピ:〜の上に」+「ヒステーミ:(G)(立てる・立つ)」という構成になっている。
    「上に立ってよく見る」ということから、「知る・理解する」という意味になったらしい。

     英語の場合、「理解する:understand」という動詞は、一見して明らかなとおり、「under:〜の下に」+「stand:立つ」である。
    「下に立ってよく見る」ということから、「理解する」という意味になったらしい。
    おおむね同じような発想で作られた言葉だが、ギリシア語と英語で上下が逆になっているのが面白い。「だから何?」と言われればそれまでだが。

     ラテン語のscientaは、「知っている・理解している」という意味のscioが、形容詞sciens(知識がある)を経て名詞化したものである。

     「フィロソフィアー」という言葉の一部になっている「ソフィアー」と、「エピステーメー」とはどう違うのかというと、日本語での「知恵」と「知識」という言葉の語感におおむね対応すると考えてよいだろう。
    英語だとwisdomとknowledgeの違いである。

     日本語で、「知識のある人」とは「具体的な事柄をたくさん知っている人」であるのに対して、「知恵のある人」とは、知識がたくさんあるというよりは、「正しいものを見抜く賢明さがある人」というニュアンスがある。
    つまり、日本語でもギリシア語でも英語でも、知識(エピステーメー/knowledge)よりも知恵(ソフィアー/wisdom)の方がエラいのである。』
    引用終了

    ※※※※※※※※

    いろいろ書き込みありがとうございます!
    うましかさんの書き込みに触発されて考えたことを、また少しずつ投稿していきますね

    おつかれさまでーす(^o^)/


引用返信/返信 削除キー/
■13436 / inTopicNo.91)  カント沼番外地:第一版序論 2
□投稿者/ うましか -(2021/05/31(Mon) 22:12:16)
    No.13004 うましか
    No.13011 うましか
    No.13055 pipitさん
    No.13240 うましか

    *******

    ◇ 経験〔Erfahrung〕は、私たちの悟性〔Verstand〕が、感性的感覚〔sinnlicher Empfindungen〕*1の生まの素材を加工することによって産み出す最初の産物である。

    *1 第二版序論では、文章の違いはあるが、内容が類似する箇所に「感性的印象sinnlicher Eindruecke」とある。

    ◇ それにもかかわらず、経験は、私たちの悟性がそこに制限される唯一の分野ではとうていありえない。

    ◇ 経験は、現に存在するものの何であるかを私たちに告げるが、そのものが必然的に存在せざるをえず、そうであって別様であってはならないことを告げはしない。

    ◇まさにこのゆえに、経験は真の普遍性を私たちに与えない。

    ◇だから、この種の認識*2をはげしく求める理性〔Vernunft〕は、経験によって満足させられるよりも、むしろ刺激されるのだ。

    *2 「認識 Erkenntnissen」の英訳は"knowledge"、"cognitions"

    →原佑訳上巻、p.77〜78参照。文中の〔ドイツ語〕は私による挿入。文中の*数字は私による挿入、*以下は私による覚え書き。

    ※ 「知覚 Wahrnehmung」という術語は、どうも、序論(第一版、第二版)には出てこないようだ。
引用返信/返信 削除キー/
■13428 / inTopicNo.92)  Re[6]: 序論
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/31(Mon) 12:00:58)
    2021/05/31(Mon) 12:02:32 編集(投稿者)

    No13427に返信(おくたがわさんの記事)
    先日書き忘れましたが、借りてきた天野訳は栗田出版会の『天野貞祐全集 第8巻』です。たぶん学術文庫版と同じ内容と思いますが一致してますか?

    訳によって、[対象の認識である経験を作り上げる]の主語がなんであるかが異なって読めます。
    ・「対象」がそのまま主語として続いているもの
    ・対象が主語だが、「させる」という使役として、経験を作り上げるのは悟性活動であることを示唆するもの。
    ・知性活動(悟性活動)を主語とするセンテンスを新たに置いているもの。

    あと、
    自分は天野訳がなんか好きで、ミスも無いと先日書きましたが、
    引用部分の「経験認識ですら」の部分、天野訳だけが「経験的認識」としてある。
    pipitさんの引用された高峯訳および解説からするとそこは「経験認識」じゃないとあかんようですね。
引用返信/返信 削除キー/
■13427 / inTopicNo.93)  Re[5]: 序論
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/31(Mon) 11:14:24)
    2021/05/31(Mon) 11:16:09 編集(投稿者)

    No13390に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。

    > 『ワイド版世界の大思想5 カント 純粋理性批判 高峯一愚 訳 』河出書房新社 p44より引用
    >
    > (訳文)
    > 『一、純粋認識(一)と経験的(empirisch)認識との区別について
    >
    >  われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。
    > このことについてはまったく疑いの余地はない。
    > なぜなら、認識能力がもし対象によって(三)生じないとすれば、それ以外に何によって働き出すよう呼びさまされるはずがあろうか。
    > そしてこの対象こそわれわれの感官を動かして、一方ではおのずから表象を生ぜしめ、他方ではわれわれの悟性活動を働かしめてこれらの表象を比較し、それらを結合したり分離したりして、感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなすものなのである。
    > したがって時間的に見れば、経験に先立っていかなる認識もわれわれのうちに生ずるということはなく、認識はすべて経験をもってはじまるのである。
    >  しかしわれわれの認識がすべて経験をもってはじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験から生ずるのではない(四)。
    > なぜなら、おそらくわれわれの経験認識(Erfahrungserkenntnis)ですら、われわれが印象〔直観〕によって受けとるものと、われわれ自身の認識能力〔悟性〕が(感性的印象によっては単に機縁を与えられるのみで)自分自身から与えるものとの結合であるというのが真実であろうからである。

    同じ部分の他の訳の引用を並べてみます。

    石川 文康訳 純粋理性批判上 筑摩書房
    『われわれの認識はすべて経験とともに始まる。そのことには、みじんも疑う余地がない。というのは、認識能力が対象によって呼びさまされて働かないとすれば、ほかに何によって呼びさまされるというのであろうか。対象はわれわれの感覚を刺激し、一方では自ら観念をもたらし、またもう一方ではわれわれの知性活動を作動させる。その知性活動は、諸観念を比較し、結合し分離し、そのようにして感性的な印象の生の素材を対象の認識に仕上げるのである。そして、この対象の認識が経験とよばれるものである。それゆえ、時間的な順序で言えば、われわれにおけるどんな認識も経験に先立つものではなく、すべての認識が経験とともに始まるのである。
     しかしながら、われわれの認識がすべて経験とともに始まるとはいえ、だからといってすべての認識が経験から生じるということにはならない。というのは、次のようなこともありうるだろうからである。それは、われわれの経験認識でさえ、われわれが印象から受けとったものに、われわれ自身の認識能力が(感性的印象を単にきっかけとして)自分の中から引きだしたものをつけ加えた合成物だということである。』

    天野貞祐全集 第8巻 純粋理性批判 上 栗田出版会
    『我々のあらゆる認識は経験と共にはじまる(anfangen)、ということには何の疑も存しない、何となれば認識能力は対象によらずして何によってそのはたらきを始めるように呼び覚まされうるであろうか、対象は我々の感能を触発して一方に於いては自ら表象をつくり、他方に於いては我々の悟性活動をはたらかしめて、表象を比較し、連結し、或いは分離せしめ、そうして素材なる感性的印象を改造して対象の認識即ち経験たらしむるものである。すなわち時間的には我々の如何なる認識も経験に先立つものではない、そしてあらゆる認識は経験と共に始まる。
     然し、我々のあらゆる認識は経験と共に起始する(anheben)、といっても、必ずしもあらゆる認識がすべて経験から発現する(entspringen)わけではない。何となれば我々の経験的認識ですら、我々が印象によって受取るところのものと、我々自身の認識能力が(感性的印象によって単に機縁を与えられて)自ら与ふるものとの結合であるだろうから、』

    原佑訳 純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー) 文庫
    『あらゆる私たちの認識が経験でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。なぜなら、認識能力が働きだすようよびさまされるのが対象によってではないとしたら、それ以外何によってよびさまされるるのであろうか?そうした対象は、私たちの感官を動かし、あるいはおのずから表象を生ぜしめ、あるいは私たちの悟性活動を運動せしめて、それらの表象を比較し、それらの表象を結合したり分離したりし、かくして感性的印象の生の素材を、経験と呼ばれる対象の認識へと作りあげるのである。それゆえ、時間的には私たちの内なるいかなる認識も経験に先行することはなく、だからあらゆる認識は経験でもって始まる。
     しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験でもって始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験から発するのでは必ずしもない。なぜなら、私たちの経験認識ですら、私たちが諸印象をつうじて感受するものと、私たち自身の認識能力が(感性的な諸印象によってたんに誘発されて)おのれ自身のうちから供給するものとから合成されたものであるということは、十分ありうるかもしれないからである。』

    Kant, Immanuel. The Critique of Pure Reason . Kindle 版.
    『That all our knowledge begins with experience there can be no doubt. For how is it possible that the faculty of cognition should be awakened into exercise otherwise than by means of objects which affect our senses, and partly of themselves produce representations,partly rouse our powers of understanding into activity, to compare to connect, or to separate these, and so to convert the raw material of our sensuous impressions into a knowledge of objects, which is called experience? In respect of time, therefore, no knowledge of ours is antecedent to experience, but begins with it. But, though all our knowledge begins with experience, it by no means follows that all arises out of experience. For, on the contrary, it is quite possible that our empirical knowledge is a compound of that which we receive through impressions, and that which the faculty of cognition supplies from itself (sensuous impressions giving merely the occasion), an addition 〜』>
引用返信/返信 削除キー/
■13398 / inTopicNo.94)  Re[6]: うましかさんへ 認識
□投稿者/ うましか -(2021/05/30(Sun) 12:05:53)
    pipitさん、こんにちは!
    高峯一愚訳の引用、ありがとうございましたm(__)m
    じっくり読んでみようとおもいます。

    あと、

    >『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著.日本実業出版社

    なかなかいいなー私もこれ買おうかなー( ..)φ

    *******

    さて、

    >わたしの中では、純粋理性批判で認識とでてきたら、knowledgeが、透けてくっついて読んでることが多いです。

    アドバイス、ありがとうございます!!

    No.13004で書き留めておいたんですが、"Erkenntnis"(「認識」)は、『純粋理性批判』の英訳では、"knowledge"と訳されたり、"cognition"と訳されています。

    私の場合、"cognition"、(或いは"re-cognition")にもひっぱられてしまい、あげくコギト(cogito)まで拡がってしまい、まだ『純粋理性批判』第一版序論を読んでいる段階に過ぎないのに、正直収拾がつかない事態に陥り苦しんでいました。

    https://www.linguee.com/english-german/search?source=auto&query=Erkenntnis

    それが昨夜、pipitさんと同様?、"Erkenntnis"を「(正しい)知識」(※「正しい」には倫理的な意味は読み込んでいません。)と解釈することで私のなかの訳語のブレ(私の力不足が原因ですが ^^;)によるストレスが減少するのではないかとおもいいたり、気分がすこしラクになりました。

    ありがとうございました!

    >あ、すみません、引用の箇所の切り取り方が悪かったな。
    >山口先生は、日本語でもギリシア語でも、知識よりも知恵の方がエラいとされてるのだー的に表現されてる箇所があります。

    大丈夫ですよー\(^^)/
    pipitさんからいただいた引用から「知識よりも知恵の方がエラい」は理解できました。

    とくに下の引用はおもしろい説明だなとおもいました。

    >「知恵」が、およそ「学問」と呼ばれるものの全域にわたっている


    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/
■13394 / inTopicNo.95)   うましかさんへ 認識
□投稿者/ pipit -(2021/05/30(Sun) 09:22:27)
    うましかさん、おはようございます!

    No13383
    > >『認識』という言葉の指すもの、が、難しいですよね。
    >
    > そうなんですよね!(´;ω;`)ウゥゥ
    >
    > 「経験(する)」も「認識(する)」もつい日本語の文脈から考えてしまうのです。でも、考えてみれば、この手の日本語もそもそもは輸入された外国語の翻訳なのかなー知らないけど^^;<

    文脈で、作者がどのような意味でその言葉を使っているのかを見極めるのは、その時代ならではの暗黙の了解なども関係して、また、その方の個性も関係して、とても難しいものかもしれませんね。

    山口先生は、
    『哲学の文献で「認識」という言葉が出てきたら、「学問的に正しい知識」と頭の中で変換して読んでもらうようにすると、誤解が少ないだろう。』
    『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生、p58より引用
    とされてました。

    わたしの中では、純粋理性批判で認識とでてきたら、knowledgeが、透けてくっついて読んでることが多いです。


    > >手元に、『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著.日本実業出版社
    > という本があります。
    > >哲学の対象となる「知恵」が、およそ「学問」と呼ばれるものの全域にわたっていることを見た。つまり、哲学の対象となるのは、学問的に正しい知識なのである。この「正しい知識」のことを、英語ではknowledge、ギリシア語では「エピステーメー(略)」と呼ぶ。
    > >この言葉は、哲学用語としては「認識」と訳された。なので、哲学の文献で「認識」という言葉が出てくれば「学問的に正しい知識」という意味であり、「認識する」といえば「正しく知る」という意味である。
    >
    > おお!(;゚Д゚)
    >
    > 知恵 ⇔ 学問的に正しい知識 → エピステーメー、knowledge → 認識
    >
    > ということですかね。<

    あ、すみません、引用の箇所の切り取り方が悪かったな。
    わたしの切り取り方では伝わらないと思いますが、山口先生は、日本語でもギリシア語でも、知識よりも知恵の方がエラいとされてるのだー的に表現されてる箇所があります。
    ちょうど、後で引用する『学問的に正しい知識』の中に含まれてますので、よかったら読んでみてくださいね(^_^)v


    > >経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。
    >
    > うーん、、、噛めば噛むほど、、、わかりません(´;ω;`)ウゥゥ<




    > 経験=経験的な認識
    >   =知覚によって客体を規定する認識
    >   =知覚の総合
    >   ={知覚された多様なもの}の総合的な統一
    >
    > ???(・・?
    >
    > ああ、沼にしずむ〜<

    うふふ、わたしも後で一緒に考えてみますね!
    先に、山口先生の『学問的に正しい知識』の箇所を引用しますね。

    いったんここで失礼します m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■13390 / inTopicNo.96)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/29(Sat) 23:37:27)
    うましかさん、こんばんは!
    書き込みありがとうございます(^o^)/
    まず、高峯一愚先生の訳文と、注釈を引用しますね。

    『ワイド版世界の大思想5 カント 純粋理性批判 高峯一愚 訳 』河出書房新社 p44より引用

    (訳文)
    『一、純粋認識(一)と経験的(empirisch)認識との区別について

     われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。
    このことについてはまったく疑いの余地はない。
    なぜなら、認識能力がもし対象によって(三)生じないとすれば、それ以外に何によって働き出すよう呼びさまされるはずがあろうか。
    そしてこの対象こそわれわれの感官を動かして、一方ではおのずから表象を生ぜしめ、他方ではわれわれの悟性活動を働かしめてこれらの表象を比較し、それらを結合したり分離したりして、感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなすものなのである。
    したがって時間的に見れば、経験に先立っていかなる認識もわれわれのうちに生ずるということはなく、認識はすべて経験をもってはじまるのである。
     しかしわれわれの認識がすべて経験をもってはじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験から生ずるのではない(四)。
    なぜなら、おそらくわれわれの経験認識(Erfahrungserkenntnis)ですら、われわれが印象〔直観〕によって受けとるものと、われわれ自身の認識能力〔悟性〕が(感性的印象によっては単に機縁を与えられるのみで)自分自身から与えるものとの結合であるというのが真実であろうからである。
    (略)』

    高峯先生による注釈、p60より引用
    『一「経験的」に対する語は従来「理性的」(rational)であったが、カントは特に好んで「純粋」(rein)という語を用いている。

    ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、厳密にはカントの「経験的」は「感覚」や「知覚」或いは「印象」と同じ意味であり、これに対して「経験」は、「印象」(経験的なもの)と「認識能力の付け加えるもの」との二つから構成されているのである。
    カントは『プロレゴーメナ』第十八節で
    「すべての経験判断(Erfahrungsurteil)は経験的(empirisch)である。すなわち感官の直接的知覚に基づいている。
    しかし逆にすべての経験的判断(empirisches Urteil)は経験判断(Erfahrungsurteil)ではない。
    経験判断には経験的なもの(das Empirische)、一般に感性的直観に与えられるもの以上に、なおその根源をまったく先天的に純粋理性において有するところの特殊な概念を必要とするのである。」といっている。

    三 この対象とは究極においては、いわゆる「物自体」でなければならない、という問題が生じる。もし「単なる外界の事物」であるとすれば、それはまた単に「表象」にすぎないはずであろうから。

    四 この命題はカントの批判哲学の根本規定を簡明に示すものとして、重要かつ著名であり、「三批判の大労作はこの命題の基礎づけに捧げられている」(シュナイダー)とさえいわれる。
    ここでは「経験」(Erfahrung)は感性的「感覚」(Empfindung)或いは「知覚」(Wahrnehmung)の意味に、すなわち「経験的」と同じに用いられている。』
    引用終了

    また、いろいろ返信させていただきますね、
    取り急ぎ、引用を投稿させていただきます。

    ありがとうございます(^o^)/

    今日はここで失礼しますm(_ _)m おやすみなさーい ☆彡

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -