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No13427 の記事


■13427 / )  Re[5]: 序論
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/31(Mon) 11:14:24)
    2021/05/31(Mon) 11:16:09 編集(投稿者)

    No13390に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。

    > 『ワイド版世界の大思想5 カント 純粋理性批判 高峯一愚 訳 』河出書房新社 p44より引用
    >
    > (訳文)
    > 『一、純粋認識(一)と経験的(empirisch)認識との区別について
    >
    >  われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。
    > このことについてはまったく疑いの余地はない。
    > なぜなら、認識能力がもし対象によって(三)生じないとすれば、それ以外に何によって働き出すよう呼びさまされるはずがあろうか。
    > そしてこの対象こそわれわれの感官を動かして、一方ではおのずから表象を生ぜしめ、他方ではわれわれの悟性活動を働かしめてこれらの表象を比較し、それらを結合したり分離したりして、感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなすものなのである。
    > したがって時間的に見れば、経験に先立っていかなる認識もわれわれのうちに生ずるということはなく、認識はすべて経験をもってはじまるのである。
    >  しかしわれわれの認識がすべて経験をもってはじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験から生ずるのではない(四)。
    > なぜなら、おそらくわれわれの経験認識(Erfahrungserkenntnis)ですら、われわれが印象〔直観〕によって受けとるものと、われわれ自身の認識能力〔悟性〕が(感性的印象によっては単に機縁を与えられるのみで)自分自身から与えるものとの結合であるというのが真実であろうからである。

    同じ部分の他の訳の引用を並べてみます。

    石川 文康訳 純粋理性批判上 筑摩書房
    『われわれの認識はすべて経験とともに始まる。そのことには、みじんも疑う余地がない。というのは、認識能力が対象によって呼びさまされて働かないとすれば、ほかに何によって呼びさまされるというのであろうか。対象はわれわれの感覚を刺激し、一方では自ら観念をもたらし、またもう一方ではわれわれの知性活動を作動させる。その知性活動は、諸観念を比較し、結合し分離し、そのようにして感性的な印象の生の素材を対象の認識に仕上げるのである。そして、この対象の認識が経験とよばれるものである。それゆえ、時間的な順序で言えば、われわれにおけるどんな認識も経験に先立つものではなく、すべての認識が経験とともに始まるのである。
     しかしながら、われわれの認識がすべて経験とともに始まるとはいえ、だからといってすべての認識が経験から生じるということにはならない。というのは、次のようなこともありうるだろうからである。それは、われわれの経験認識でさえ、われわれが印象から受けとったものに、われわれ自身の認識能力が(感性的印象を単にきっかけとして)自分の中から引きだしたものをつけ加えた合成物だということである。』

    天野貞祐全集 第8巻 純粋理性批判 上 栗田出版会
    『我々のあらゆる認識は経験と共にはじまる(anfangen)、ということには何の疑も存しない、何となれば認識能力は対象によらずして何によってそのはたらきを始めるように呼び覚まされうるであろうか、対象は我々の感能を触発して一方に於いては自ら表象をつくり、他方に於いては我々の悟性活動をはたらかしめて、表象を比較し、連結し、或いは分離せしめ、そうして素材なる感性的印象を改造して対象の認識即ち経験たらしむるものである。すなわち時間的には我々の如何なる認識も経験に先立つものではない、そしてあらゆる認識は経験と共に始まる。
     然し、我々のあらゆる認識は経験と共に起始する(anheben)、といっても、必ずしもあらゆる認識がすべて経験から発現する(entspringen)わけではない。何となれば我々の経験的認識ですら、我々が印象によって受取るところのものと、我々自身の認識能力が(感性的印象によって単に機縁を与えられて)自ら与ふるものとの結合であるだろうから、』

    原佑訳 純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー) 文庫
    『あらゆる私たちの認識が経験でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。なぜなら、認識能力が働きだすようよびさまされるのが対象によってではないとしたら、それ以外何によってよびさまされるるのであろうか?そうした対象は、私たちの感官を動かし、あるいはおのずから表象を生ぜしめ、あるいは私たちの悟性活動を運動せしめて、それらの表象を比較し、それらの表象を結合したり分離したりし、かくして感性的印象の生の素材を、経験と呼ばれる対象の認識へと作りあげるのである。それゆえ、時間的には私たちの内なるいかなる認識も経験に先行することはなく、だからあらゆる認識は経験でもって始まる。
     しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験でもって始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験から発するのでは必ずしもない。なぜなら、私たちの経験認識ですら、私たちが諸印象をつうじて感受するものと、私たち自身の認識能力が(感性的な諸印象によってたんに誘発されて)おのれ自身のうちから供給するものとから合成されたものであるということは、十分ありうるかもしれないからである。』

    Kant, Immanuel. The Critique of Pure Reason . Kindle 版.
    『That all our knowledge begins with experience there can be no doubt. For how is it possible that the faculty of cognition should be awakened into exercise otherwise than by means of objects which affect our senses, and partly of themselves produce representations,partly rouse our powers of understanding into activity, to compare to connect, or to separate these, and so to convert the raw material of our sensuous impressions into a knowledge of objects, which is called experience? In respect of time, therefore, no knowledge of ours is antecedent to experience, but begins with it. But, though all our knowledge begins with experience, it by no means follows that all arises out of experience. For, on the contrary, it is quite possible that our empirical knowledge is a compound of that which we receive through impressions, and that which the faculty of cognition supplies from itself (sensuous impressions giving merely the occasion), an addition 〜』>
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