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No13390 の記事


■13390 / )  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/29(Sat) 23:37:27)
    うましかさん、こんばんは!
    書き込みありがとうございます(^o^)/
    まず、高峯一愚先生の訳文と、注釈を引用しますね。

    『ワイド版世界の大思想5 カント 純粋理性批判 高峯一愚 訳 』河出書房新社 p44より引用

    (訳文)
    『一、純粋認識(一)と経験的(empirisch)認識との区別について

     われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。
    このことについてはまったく疑いの余地はない。
    なぜなら、認識能力がもし対象によって(三)生じないとすれば、それ以外に何によって働き出すよう呼びさまされるはずがあろうか。
    そしてこの対象こそわれわれの感官を動かして、一方ではおのずから表象を生ぜしめ、他方ではわれわれの悟性活動を働かしめてこれらの表象を比較し、それらを結合したり分離したりして、感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなすものなのである。
    したがって時間的に見れば、経験に先立っていかなる認識もわれわれのうちに生ずるということはなく、認識はすべて経験をもってはじまるのである。
     しかしわれわれの認識がすべて経験をもってはじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験から生ずるのではない(四)。
    なぜなら、おそらくわれわれの経験認識(Erfahrungserkenntnis)ですら、われわれが印象〔直観〕によって受けとるものと、われわれ自身の認識能力〔悟性〕が(感性的印象によっては単に機縁を与えられるのみで)自分自身から与えるものとの結合であるというのが真実であろうからである。
    (略)』

    高峯先生による注釈、p60より引用
    『一「経験的」に対する語は従来「理性的」(rational)であったが、カントは特に好んで「純粋」(rein)という語を用いている。

    ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、厳密にはカントの「経験的」は「感覚」や「知覚」或いは「印象」と同じ意味であり、これに対して「経験」は、「印象」(経験的なもの)と「認識能力の付け加えるもの」との二つから構成されているのである。
    カントは『プロレゴーメナ』第十八節で
    「すべての経験判断(Erfahrungsurteil)は経験的(empirisch)である。すなわち感官の直接的知覚に基づいている。
    しかし逆にすべての経験的判断(empirisches Urteil)は経験判断(Erfahrungsurteil)ではない。
    経験判断には経験的なもの(das Empirische)、一般に感性的直観に与えられるもの以上に、なおその根源をまったく先天的に純粋理性において有するところの特殊な概念を必要とするのである。」といっている。

    三 この対象とは究極においては、いわゆる「物自体」でなければならない、という問題が生じる。もし「単なる外界の事物」であるとすれば、それはまた単に「表象」にすぎないはずであろうから。

    四 この命題はカントの批判哲学の根本規定を簡明に示すものとして、重要かつ著名であり、「三批判の大労作はこの命題の基礎づけに捧げられている」(シュナイダー)とさえいわれる。
    ここでは「経験」(Erfahrung)は感性的「感覚」(Empfindung)或いは「知覚」(Wahrnehmung)の意味に、すなわち「経験的」と同じに用いられている。』
    引用終了

    また、いろいろ返信させていただきますね、
    取り急ぎ、引用を投稿させていただきます。

    ありがとうございます(^o^)/

    今日はここで失礼しますm(_ _)m おやすみなさーい ☆彡

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