□投稿者/ うましか -(2021/06/01(Tue) 22:07:52)
| こんばんは。pipitさん。 おじゃまします。
『純粋理性批判』第二版序言冒頭の高峯一愚訳と高峯による注釈の引用、ありがとうございました! →No.13390
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>一、純粋認識(一)と経験的(empirisch)認識との区別について
>われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。このことについてはまったく疑いの余地はない。なぜなら、認識能力がもし対象によって(三)生じないとすれば、それ以外に何によって働き出すよう呼びさまされるはずがあろうか。そしてこの対象こそわれわれの感官を動かして、一方ではおのずから表象を生ぜしめ、他方ではわれわれの悟性活動を働かしめてこれらの表象を比較し、それらを結合したり分離したりして、感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなすものなのである。したがって時間的に見れば、経験に先立っていかなる認識もわれわれのうちに生ずるということはなく、認識はすべて経験をもってはじまるのである。
>しかしわれわれの認識がすべて経験をもってはじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験から生ずるのではない(四)。なぜなら、おそらくわれわれの経験認識(Erfahrungserkenntnis)ですら、われわれが印象〔直観〕によって受けとるものと、われわれ自身の認識能力〔悟性〕が(感性的印象によっては単に機縁を与えられるのみで)自分自身から与えるものとの結合であるというのが真実であろうからである。
>ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していない
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pipitさんにお願いがあります!
私は高峯訳をもっていないのですが、pipitさんが引用してくださった箇所の次の段落も引用をしていただければ幸いです。m(__)m
次の段落ではタイトルにもある「認識」の区別をめぐり、ア・プリオリ(と名づけられた)認識と、empirischen(な)認識が、カントによって強調され対比してのべられていますが、高峯がそこをどう訳し、どう注釈をつけているのかちょっと興味があります。
よろしくお願いいたします!
それでは〜
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