■36085 / inTopicNo.98) |
超越論的分析論[−2
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□投稿者/ うましか -(2024/01/07(Sun) 23:38:05)
| 2024/01/08(Mon) 07:52:22 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
久しぶりに『純理』目を通しましたが、かるく眩暈が…(´;ω;`)ウッ…
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて
□全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き 第三節 (第十二項)
◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。 それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、 しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。 このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。 ところで、たとえ、この原理を使用したところで得られる結論(これは純然たる同語反復の命題しか与えなかった)は極めて乏しいものに終わったので、近代においてはほとんど単に、体面上、形而上学のうちで挙げられるのが常であるほどであるにせよ、 このように長い期間保存されてきた思想は、どれほどそれが空虚なもの見えようとも、常にその起源を研究している価値はある、 だから、この思想は何らかの悟性規則のうちにその根拠を持ってはいるが、その根拠が、しばしばあることだが、誤って解釈されたに過ぎないのではなかろうか、と推測されてよい。
--- No.35606からの続き ---
◇ 超越論的な述語と思い誤られたところの、物≠フこれらの〔一、真、善である等の〕諸述語は、諸物一般の全ての認識≠フ論理的要求と標識〔基準〕以外の何ものでもなく、 これらの諸述語は、量のカテゴリー、即ち、単一性=A数多性=A全体性≠フカテゴリーをそうした認識の根底に置くのであるが、 ただ彼ら〔スコラ哲学者〕は、本来は実質的に諸物自身の可能性に属するものと解されなければならなかったこれらの諸カテゴリーを、実際は形式的な意味においてのみ、あらゆる認識に関する論理的欲求に属するものとして使用し、 しかも思考のこれらの諸標識〔基準〕を軽率にも諸物自体そのものの固有性足らしめたのである。
† 原佑訳上巻、p.232〜p.233参照。 † その他に、中山元訳2、p.87〜p.88、石川文康訳上巻、p.143を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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[−1 No.35606、[−2 No.36085 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,33658, No.33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919,35259, No.35606,36085
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