■15914 / inTopicNo.5) |
カント沼番外地:第一版序論 Y−2
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□投稿者/ うましか -(2021/08/30(Mon) 22:17:59)
| pipitさん、皆さん、こんばんはー おじゃまします。
連日暑いですねー(´;ω;`)ウッ…
お互い体調には気をつけましょう!
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◇ ところで以上すべてのことから、純粋理性の批判〔Kritik der reinen Vernunft〕に役立ちうる或る特殊な学の理念が生ずる。しかし、なんら異種のものを混じていないあらゆる認識は純粋〔rein〕と呼ばれる。だが、総じていかなる経験ないしは感覚もそこには混入しておらず、したがって完全にア・プリオリに可能である認識は、とくに、端的に〔schlechthin〕純粋であるとと名づけられる。
◇ところで理性〔Vernunft〕はア・プリオリな認識の諸原理をあたえる能力である。だから純粋理性〔reine Vernunft〕とは、或るものを端的にア・プリオリに認識する〔zu erkennen〕諸原理を含んでいるような理性である。
--- No.15783 からの続き ---
◇純粋理性の機関〔Ein Organon der reinen Vernunft〕は、すべてのア・プリオリな純粋認識がそれらにしたがって獲得され、また現実に成就されうるような、そうした諸原理の総括となるであろう。しかし、こうした要求はきわめて多大であり、だから、はたして総じて私たちの認識のそうした拡張が可能であるのか、またいかなる場合にそれが可能であるのかは、まだ未定であるのだから、私たちは純粋理性とその源泉と限界とを単に判定するに過ぎない学を純粋理性の体系のための予備学とみなすことができる。
◇そうした学は、純粋理性の理説と呼ばれてはならず、純粋理性の批判とのみ呼ばれなければならず、だからその効用は実際は消極的に過ぎないのであって、私たちの理性の拡張にではなく、その純化にのみ役立ち、私たちの理性を誤謬から遠ざけるに過ぎないであろうが、すでにこのことによって得るところは極めて多大である。
◇私が超越論的〔transzendental〕と名づけるのは、対象にではなく、むしろ対象一般についての私たちのア・プリオリな諸概念にたずさわる全ての認識である〔*1〕。そうした諸概念の体系は超越論的哲学〔Transzendental-Philosophie〕と呼ばれるにいたるであろう。
*1 ここのくだりは、私うましかにとってはちょっと唐突な感じがします(;´・ω・)
◇しかし超越論的哲学と呼ぶのは、これまた最初のうちは過大である。なぜならそうした学は分析的認識ならびにア・プリオリな綜合的認識を完璧に含んでいなければならないはずであるから、私たちの意図に関するかぎりにおいて、その範囲が広がりすぎるからであるが、それは私たちが分析をおこなってさしつかえないのは、それのみが私たちにとっての問題に他ならないア・プリオリな綜合の諸原理を、その全範囲にわたって洞察するために、分析が不可欠的に必要であるかぎりにおいてのみであるからである。
→原佑訳上巻、p.130〜p.133参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。*数字は私による覚書。
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