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■15649 / inTopicNo.49)  悪魔ちゃんへ 同時性
  
□投稿者/ pipit -(2021/08/16(Mon) 21:10:35)
    No15646に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 経験と認識が同時に生じているとは見ないのかしら?
    > 言いかえると経験と認識は対になって存在するものであって、
    > ん〜んそうね、たとえば、右と左が対になってること自体において初めて右であったり左であったるするような。<

    悪魔ちゃん、こんばんはー

    まだ、カントの認識論はようわからんけど、同時に生じてるってみてもいいんじゃないかなー、と、わたしは思ってるよー。

    カントの用語の使い方がクセあって、いろいろわかりづらいとこがあるなと思ってるよ。
    ごめん、わたしもまだあやふやできちんと説明できない状態かも(ノ_<)
    わかりにくいねん、って思うわー。
    超越的、と、超越論的、とか。
    経験、と、経験的、とか 。 
    (T . T)

    そういえば、『超越論的観念論』って自分で自分の理説を名付けてたけど、いろいろ誤解されてばっかりだったので、もういっそのこと『批判的観念論』って呼んで!って、『プロレゴーメナ』という著書でキレてた(?)みたいやけど、んー、それ、わかりやすいですか???ってわたしには思えるよ(^◇^;)

    プロレゴーメナでのカントの文章(御子柴善之先生訳)
    『(略)しかし、超越論的という言葉は、私の場合、認識の物への関係を意味するのではなく、たんに認識の認識能力への関係を意味するので、先に挙げたような誤解を防ぐはずのものだった。、しかし、このような呼び方がさらなる誤解をひき起こすくらいなら、私はむしろこの呼び方を撤回し、それを批判的観念論と呼んでもらいたいと思う。(Ak293、中公69-70、岩波89-90)』
    『カント哲学の核心』御子柴善之先生著、p108より引用。

    書き込みありがとねー (o^^o)
引用返信/返信 削除キー/
■15646 / inTopicNo.50)  Re[13]: 序論思い出したなー
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/08/16(Mon) 20:39:39)
    経験と認識が同時に生じているとは見ないのかしら?
    言いかえると経験と認識は対になって存在するものであって、
    ん〜んそうね、たとえば、右と左が対になってること自体において初めて右であったり左であったるするような。

引用返信/返信 削除キー/
■15643 / inTopicNo.51)  Re[12]: 序論思い出したなー
□投稿者/ おくたがわ -(2021/08/16(Mon) 17:48:28)
    No15642に返信(pipitさんの記事)
    みなさん、こんばんは。

    > ■No15625に返信(うましかさんの記事)
    >>うま: 経験によらない経験的な判断ってありうるとおもいます?
    >>
    >>しか: 経験を可能にする構造やプロセスを経験未満とかんがえるならね?!
    >>
    >>うましかー(;´・ω・)
    >
    > カントの文章(御子柴善之先生訳)
    > 『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験から生じるのではない。
    > というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうからである。
    > 私ちちは、長い修練によってこのような〔認識能力によって〕付け加えられたものに注意を払うようになり、それを分離することに習熟するまでは、付け加えられたものをかの〔印象によって受け取った〕原素材から区別することがない。(B1f)』
    > 引用終了。『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p56より。
    >
    > (´-`).。oO

    この部分については、高峯氏による優れた注釈がありましたね。

    「しかしわれわれの認識がすべて経験をもってはじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験から生ずるのではない」(高峯訳)について
    >『二 カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、厳密にはカントの「経験的」は「感覚」や「知覚」或いは「印象」と同じ意味であり、これに対して「経験」は、「印象」(経験的なもの)と「認識能力の付け加えるもの」との二つから構成されているのである。
    カントは『プロレゴーメナ』第十八節で
    「すべての経験判断(Erfahrungsurteil)は経験的(empirisch)である。すなわち感官の直接的知覚に基づいている。
    しかし逆にすべての経験的判断(empirisches Urteil)は経験判断(Erfahrungsurteil)ではない。経験判断には経験的なもの(das Empirische)、一般に感性的直観に与えられるもの以上に、なおその根源をまったく先天的に純粋理性において有するところの特殊な概念を必要とするのである。」といっている。
    四 この命題はカントの批判哲学の根本規定を簡明に示すものとして、重要かつ著名であり、「三批判の大労作はこの命題の基礎づけに捧げられている」(シュナイダー)とさえいわれる。
    ここでは「経験」(Erfahrung)は感性的「感覚」(Empfindung)或いは「知覚」(Wahrnehmung)の意味に、すなわち「経験的」と同じに用いられている。』
    **一、三は省略

    (各言葉に異なる意味を持たせていながら、ときどき混同した使用をするのがカントの悪い癖-私見)

引用返信/返信 削除キー/
■15642 / inTopicNo.52)  序論思い出したなー
□投稿者/ pipit -(2021/08/16(Mon) 16:31:19)
    2021/08/16(Mon) 17:51:38 編集(投稿者)

    No15625に返信(うましかさんの記事)
    > うま: 経験によらない経験的な判断ってありうるとおもいます?
    >
    > しか: 経験を可能にする構造やプロセスを経験未満とかんがえるならね?!
    >
    > うましかー(;´・ω・)

    カントの文章(御子柴善之先生訳)
    『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験から生じるのではない。
    というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうからである。
    私たちは、長い修練によってこのような〔認識能力によって〕付け加えられたものに注意を払うようになり、それを分離することに習熟するまでは、付け加えられたものをかの〔印象によって受け取った〕原素材から区別することがない。(B1f)』
    引用終了。『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p56より。

    (´-`).。oO
引用返信/返信 削除キー/
■15630 / inTopicNo.53)  問題点
□投稿者/ pipit -(2021/08/16(Mon) 00:20:01)
    No.15629

    >ポイントは、なぜ、主観はバラバラなはずなのに、わたしたちは共通の知識を持てるのか、でしょ?

    その知識は経験から、と、いっても、なぜ、私とあなたで、同じ経験を得るのか、でしょ?

    だったら、カントがアプリオリな総合判断だ、としてる命題を、
    いや違うよ、
    その命題は@アポステリオリな総合判断だよ、または、
    Aアプリオリな分析判断だよ、と言っても、

    @は、その経験が知性あるもののうちでは共通の知識と出来得るのはなぜか
    Aは、分析判断となることを可能にした最初の概念設定が知性あるもののうちで共通になされ得るのはなぜか<

    なんでなんかなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■15629 / inTopicNo.54)  一昨年のつぶやき日記
□投稿者/ pipit -(2021/08/16(Mon) 00:10:53)
    2021/08/16(Mon) 07:30:38 編集(投稿者)


    検索してでてきた一昨年のつぶやき日記です。
    わたしは、カントの思考回路を理解してみたいのですが、執着が過ぎるかも。。。
    でも知りたいなー 。・゜・(ノД`)・゜・。

    ※※※※※※※※

    No.1824

    読書籠り部屋「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」
    は、続けるつもりだけど、その前に、思いついたこと。
    勉強するうち修正可能性ありです。


    【三角形の内角の和は180度】
    この命題、
    三角形の内角の和、という概念の内に、
    180度という概念は含まれておらず、
    〈ホニャララ〉に依存して、180度が出てきた。

    っていうのが、カントの考え方の基本形だと思ってる。

    それで、〈ホニャララ〉が、何か、だけど、
    カントは、それを〈人間のアプリオリな純粋直観〉とした。

    でも〈ホニャララ〉が〈経験〉と考える人もいると私は思う。

    たとえば、
    最初の三角形という概念が、三角形という経験を把握した言葉で、その把握の内に、
    内角の和は180という現実的な性質が含まれてるので、
    この命題は分析判断って考えることもできるかも、って思おうと思ったら、思える気がする。
    この考え方は、5+7=12の命題が分析判断としたら、って、私が前に書いたときの考え方と同じですね。


    それでね、カントがなぜ、アプリオリな総合判断にこだわるか、って言ったら、
    数学が必然的と思ってたからでしょ?
    そして、経験は必然的ではないと思ってたからでしょ?
    ヒュームは、人間の判断は習慣としたのが、嫌だったんでしょ?

    それで今の段階で思ったことなんですけど、例えば、

    三角形の内角の和 は〈経験に依存して〉180度。
    経験に依存してることを、アポステリオリと言う言葉で示すとして、
    もし、冒頭命題が、【アポステリオリな】総合判断、と判断しても、
    カントの問いは有効なままなんじゃないかな、って。

    私の経験も中国人の経験もアフリカ人の経験も
    はたまた、300年近く前のプロイセンという王国に生まれたカントという人間の経験も、
    数学を理解できる能力が備わってその能力を開花させるなら、
    同じ経験が得られる、ということでしょう?
    【ユークリッド幾何学で言えば、三角形の内角の和は180度】、って。

    ユークリッド幾何学って限定入れるのズルい、とか、カントは言ってない、
    とか思うかもだけど、
    カントが言おうとしてるのは、結局そういうことでしょ?
    なぜ、三角形の内角の和が180度が必然となるのか、は、経験を成り立たせる条件として純粋直観を人間なら使ってるから、でしょ?

    ポイントは、なぜ、主観はバラバラなはずなのに、わたしたちは共通の知識を持てるのか、でしょ?

    その知識は経験から、と、いっても、なぜ、私とあなたで、同じ経験を得るのか、でしょ?

    だったら、カントがアプリオリな総合判断だ、としてる命題を、
    いや違うよ、
    その命題は@アポステリオリな総合判断だよ、または、
    Aアプリオリな分析判断だよ、と言っても、

    @は、その経験が知性あるもののうちでは共通の知識と出来得るのはなぜか
    Aは、分析判断となることを可能にした最初の概念設定が知性あるもののうちで共通になされ得るのはなぜか

    という問いは解決してないままだと思う。
    カントはその問いに、感性の形式としての空間と時間、
    知性の形式としての純粋知性概念、という考え方によって
    カント内では論的に解決したとしたんだと思ってる。

    それが現実として私にも有効なのか、あなたにも、あの人にも、有効なのか
    (わたしたちはアプリオリな純粋直観を現実に使用してるのか)
    は、、、私にはまだわからないなぁ。

    まあでも、おもしろいね。

    ※※※※※※※※

    おやすみなさい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■15628 / inTopicNo.55)  沼沼メモ 冨田先生
□投稿者/ pipit -(2021/08/16(Mon) 00:07:09)
    うましかさん、情報ありがとうございます!

    理解できたら、すごくおもしろそうだとおもうのですが、
    いろいろ難しすぎてわからないのですが、

    わかることは、、、

    冨田先生がお元気そうだなーということです☆彡

    まあ、やっぱり、いろんなことはカント先生のせいですね、と思う私でありましたー

    (・・?)

    そのうち、いろいろ理解できたらいいな♪
引用返信/返信 削除キー/
■15625 / inTopicNo.56)  うまvsしか沼日記
□投稿者/ うましか -(2021/08/15(Sun) 23:18:47)
    うま: 経験によらない経験的な判断ってありうるとおもいます?

    しか: 経験を可能にする構造やプロセスを経験未満とかんがえるならね?!

    うましかー(;´・ω・)
引用返信/返信 削除キー/
■15624 / inTopicNo.57)  VS(`_´)ゞ 沼メモ
□投稿者/ うましか -(2021/08/15(Sun) 23:00:15)
    pipitさん、こんばんはー
    おじゃまします。

    おもしろそうな情報、ありがとうございますー(・∀・)!

    *******

    頭にhttp:をつけて見てくださいませm(__)m


    ◆ 冨田恭彦『拙著『カント哲学の奇妙な歪み』補遺 ―〈胚芽生得説〉は所期の目的を達成したか―』

    //japanische-kant-gesellschaft.org/data/kant20/08_kyodo1_tomida.pdf



    冨田恭彦vs千葉清史(;゚Д゚)

    ◆【共同討議】カントをめぐって  

    //www.kantetsu.org/conference2017/2017co-discussion.pdf


引用返信/返信 削除キー/
■15602 / inTopicNo.58)  カント沼メモにより起こるある沼メモ
□投稿者/ pipit -(2021/08/15(Sun) 08:58:58)
    うましかさん、情報書き込みありがとうです

    うまくとべないので(pipit側の問題だと思います)文字で検索してたら、、、

    新たな発見が(OvO) !♪

    japanische-kant-gesellschaft.org/zasshi.html
    『日本カント研究』の第20、21、22巻が電子化公開していただいてて、項目ごとに読めるようです。太っ腹ー

    第20巻の共同討議Tは、『カントの超越論的観念論は歪んでいるか』で、
    japanische-kant-gesellschaft.org/japanische_kant_studien_20.html

    冨田先生も寄稿されているようです。

    でも、読書キャパ量超えすぎで、到達できないかも。
    ・゜・(ノД`)・゜・。

    っていうか、中山元先生の『純粋理性批判』も、御子柴善之先生の解説本も、通読できていないわたし。。。。

    沼ーーーー(カント先生のせいが75パーセント)

    (`_´)ゞ←カントせんせい


引用返信/返信 削除キー/
■15600 / inTopicNo.59)  日記☆演繹論
□投稿者/ pipit -(2021/08/15(Sun) 08:48:47)
    うましかさんがんばられてるなー
    わたしも演繹論がんばりたい!

    しかし、沼さ加減が。。。。。



    _| ̄|○
引用返信/返信 削除キー/
■15594 / inTopicNo.60)  カント沼メモ
□投稿者/ うましか -(2021/08/15(Sun) 00:54:56)
    ( ..)φ

    *******

    冨田恭彦『カント入門講義』p.115〜は、カントが『純粋理性批判』(第一版)で提示した「超越論的観念論」がバークリの観念論とどう違うのか、この問いのきっかけとなった「ゲッティンゲン批評」をとりあげている。

    「ゲッティンゲン批評」の翻訳(城戸淳による)

    https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/29480#.YRflHXxxfIU
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