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カント沼番外地:第一版序論 X−4
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□投稿者/ うましか -(2021/08/01(Sun) 14:06:59)
| 2021/08/01(Sun) 14:16:25 編集(投稿者)
pipitさん、こんにちはー。 おじゃまします。
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◇分析的判断によっては、私たちの認識は全然拡張されず、私たちがすでにもっている概念は分析されて、私自身に理解しやすいものになる。
◇綜合的判断のさいには、私は主語の概念のほかになお何か別の(X)をもっていなければならず、悟性は、主語の概念のうちには潜んでいない或る述語を、それでもこの主語の概念に属するものとして認識するためには、この何か別のものに、たよるということである。
◇経験的判断または経験判断〔empirischen oder Erfarungsurtailen〕のさいには、この点に関してはいかなる困難も全然ない。なぜなら、このXは、私が概念Aによって思考する対象についての完璧な経験〔die vollstaendige Erfahrung〕であって、その概念Aはこの経験の一部分をなすに過ぎないからである。
◇なぜなら、たとえ私が物体一般の概念のうちに重さ〔Schwere〕という述語を全然含ませていないにせよ、物体一般の概念は経験の一部分をつうじてその完璧な経験を表示しており、それゆえ私は経験のこの一部分に、まさに同一の経験のなお他の諸部分をも、その完璧な経験に属するものとして付加することができるからである。
◇私は物体という概念を、すべてこの概念において思考されるところの、拡がり〔Ausdehnung〕、不可入性〔Undurchdringlichkeit〕、形態〔Gestalt〕などという諸徴表〔Merkmale〕によって、あらかじめ分析的に〔analytisch〕認識することができる。ところが、私が私の認識を拡張してみると、私が物体というこの概念をそこから引きだした経験を振りかえって見ることによって、私には前記の諸徴表と重さもまたいつでも結びついていることがわかる。
◇それゆえ経験が、概念Aの外にあるあのXに他ならないのであって、このXに重さという述語Bと概念Aとの綜合〔Synthesis〕の可能性がもとづいているのである。
→原佑訳上巻、p.101〜p.103参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。
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