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■14344 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。24
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/22(Tue) 20:43:20)
    トピ主:pipitさん


    引き続きよろしくお願いします。

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■14346 / inTopicNo.2)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/22(Tue) 22:50:12)
    いつもありがとうございます(^人^)

    よろしくお願いします !  
引用返信/返信 削除キー/
■14445 / inTopicNo.3)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/06/26(Sat) 00:56:23)
    家を作るとき、いろいろ調べてから家を作るか
    なにも吟味せず、適当な材料で好きな家を作っていくか


    カントは、吟味するのが自然だよー
    でも、吟味されてこなかったのも自然だねー

    って言ったのかなぁ

    諸法実相って、大乗仏教の言葉が頭に浮かぶんだよね
    この概念の意味をちゃんと知らないんだけど(^^;)

    いい加減やなー、とよく言われる気がします( ̄▽ ̄;)


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■14448 / inTopicNo.4)  黒崎先生♪
□投稿者/ pipit -(2021/06/26(Sat) 07:27:28)
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■14455 / inTopicNo.5)  カント沼番外地:第一版序論 V−6
□投稿者/ うましか -(2021/06/26(Sat) 12:21:22)
    pipitさん、こんにちはー
    おじゃまします。

    No.14415 V−5
    No.14271 V−4
    No.14097 V−3
    No.14009 V−2
    No.13815 V−1
    No.13643 U−1
    No.13576 T−3
    No.13436 T−2
    No.13389 T−1

    *******

    ◇ 経験という地盤を捨て去るやいなや、その由来を知らずに所有している諸認識でもって、また、その起源〔Ursprung〕がわかっていない諸原則を信頼して、その基礎を慎重な研究によってあらかじめ確かにしておくことなしに、すぐさま一つの建物を建てるのではなく、それゆえ、いったいいかにして悟性はあらゆるこうしたア・プリオリな諸認識へと達しうるのか、またいかなる範囲〔Umfong〕、妥当性〔Gueltigkeit〕および価値〔Wert〕をそれらのア・プリオリな諸認識はもちうるのか、という問題〔*1〕がいち早く投げかけられているということ。

    ◇ 以上のことはたしかに自然的〔natuerlich〕であるとおもわれる。

    ◇ 事実また、(この自然的〔natuerlich〕という言葉を、)正当かつ当然行われるべきはずのものと理解するならば、これ以上自然的なことは何ひとつとしてない。

     ※ natuerlich −@:正当かつ当然行われるべきはずということ

    ◇ しかし、この言葉を通例おこなわれているものと理解するならば、これまた、こうした研究が長くなおざりにされざるをえなかったということ以上に自然的で明白なことは何ひとつとしてない。

     ※ natuerlich −A:通例おこなわれているということ

    ◇ なぜなら、こうしたア・プリオリな諸認識の一部、すなわち数学的認識は、昔から信頼をかちえており、だから、このことによって他の諸認識に対しても、たとえこれらの諸認識が、その本性〔Natur〕をまったく異にするものであるかもしれないにせよ、好都合な期待がかけられているからである。

    ◇ そのうえ、人が経験の圏域を越え出るなら、経験によって抗弁〔widersprochen〕されない〔*2〕ことは確実である。おのれの認識を拡大する魅力はきわめて大きいので、明らかな矛盾〔Widerspruch〕に突きあたりさえしなければ、人はその進行をつづけていくことができる。

    *2 第二版序論では、"widerlegt"(「論駁〔されない〕」)と変わっている。

    ◇ しかし、この矛盾も、人がおのれのいろいろの仮構〔Erdichtungen〕に用心深くあれば、そのためにそれらが少しでも仮構でなくなることはないが、避けられうるものである。

    →原佑訳上巻、p.92〜p.94参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。※〜は私の覚書。

    *******

    pipitさんのご指摘のように、カントは◇中の*1「問題」の提起を評する"natuerlich"という言葉を二様に使っています。

    一つは@「正当かつ当然行われるべきはず」というもので、もう一つはA「通例おこなわれている」というもの。しかしカントは(「問題」提起への現状の応えに対して?)いずれにも批判的であるようにおもいます(目標未達成、事実追認的で不満?)。

    ところで、ここにもう一つ、"natuerlich"へのカントの思考を読み込むことは可能でしょうか? 私はpipitさんのおっしゃった自然因果的な意味としての「自然」が背景にないだろうか思案しています(;´・ω・)
    →ペーター・プラース『カントの自然科学論』、p.28〜p.31参照


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■14468 / inTopicNo.6)  うましかさんへ 自然
□投稿者/ pipit -(2021/06/26(Sat) 23:20:35)
    No.14455
    うましかさん、こんばんはー

    >ところで、ここにもう一つ、"natuerlich"へのカントの思考を読み込むことは可能でしょうか? 私はpipitさんのおっしゃった自然因果的な意味としての「自然」が背景にないだろうか思案しています(;´・ω・)
    →ペーター・プラース『カントの自然科学論』、p.28〜p.31参照<


    私はペーター・プラースさんのお名前さえ存じ上げなかったのですがm(_ _)m、

    >こうした研究が長くなおざりにされざるをえなかったということ以上に自然的で明白なことは何ひとつとしてない。<
    が、自然因果的で、なるがまま、流れに流されたまま(自由がない)ということを、うましかさんは考えられてるのでしょうか?
    それとも別のことを考えられてるのでしょうか?

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■14474 / inTopicNo.7)  pipitさんへ 自然、その前に(;´・ω・)?
□投稿者/ うましか -(2021/06/27(Sun) 12:22:55)
    pipitさん、こんにちはー
    おじゃまします。

    pipitさんのNo.14468の問いとはズレているような気がしますが(;´・ω・)
    いまの私に応えられる範囲での返信ですm(__)m

    *******

    私がカント『純粋理性批判』そのものを読もうとおもったのは、まだつい数ヶ月前のことですが、そのあまりにも頭にはいってこない文章のおかげで途方にくれていたところ、帰ってきたロシュフコーさんの動画を知ることとなり、事前学習としてまとめ作業をしました。その際おもしろいなーとおもったのは、カントの出発点の一つは物理の研究だったということです。私はこのことを忘れちゃいけないとおもってその後のまとめにもくり返し書き留めておきました。→ No.11777 等

    先にあげたペーター・プラース『カントの自然科学論』も、上に述べた私の関心のもと調べていて知った研究書です。この本は『純粋理性批判』そのものについての研究ではなく『自然科学の形而上学的原理』(1786)という著作についてのものです。『純粋理性批判』第一版(1781)序文(原佑訳上巻、p.37)に強調されるかたちで「自然の形而上学」という標題で提供したいと予告されているのが、この『自然科学の形而上学的原理』に当たるとみなされうると原佑(訳上巻、p.534)はのべています。

    この著作や、これについてのプラースの研究について何かいうことは私の力では到底できないのですが、今回pipitさんが、引用箇所をめぐるカントの"natuerlich"の二義性(多義性)、或いは"natuerlich"を「自然因果的」と解釈する可能性について指摘してくださったのをきっかけにプラースの本を開いたところ、興味ぶかいことに、プラースはカント『自然科学の形而上学的原理』をとおして、「自然」という語の二つの意味(第1章第1節、p.28〜)、カントの自然概念(同第2節、p.30-p.31)について論じていました。

    余裕があるときに、私の力のおよぶ範囲内でその箇所を紹介したいとおもいます。



    それでは〜




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■14478 / inTopicNo.8)  自然とは?現象?対象?物自体は?
□投稿者/ pipit -(2021/06/27(Sun) 14:53:29)
    2021/06/27(Sun) 14:59:31 編集(投稿者)

    うましかさん、返信ありがとうございます!(^-^)

    No14474に返信(うましかさんの記事)
    > pipitさん、こんにちはー
    > おじゃまします。
    >
    > pipitさんのNo.14468の問いとはズレているような気がしますが(;´・ω・)
    > いまの私に応えられる範囲での返信ですm(__)m
    >
    > *******
    >
    > 私がカント『純粋理性批判』そのものを読もうとおもったのは、まだつい数ヶ月前のことですが、そのあまりにも頭にはいってこない文章のおかげで途方にくれていたところ、帰ってきたロシュフコーさんの動画を知ることとなり、事前学習としてまとめ作業をしました。その際おもしろいなーとおもったのは、カントの出発点の一つは物理の研究だったということです。私はこのことを忘れちゃいけないとおもってその後のまとめにもくり返し書き留めておきました。→ No.11777 等<

    カントは、物理法則が支配しているような世界への関心が高かったかもしれませんね。


    > 先にあげたペーター・プラース『カントの自然科学論』も、上に述べた私の関心のもと調べていて知った研究書です。この本は『純粋理性批判』そのものについての研究ではなく『自然科学の形而上学的原理』(1786)という著作についてのものです。『純粋理性批判』第一版(1781)序文(原佑訳上巻、p.37)に強調されるかたちで「自然の形而上学」という標題で提供したいと予告されているのが、この『自然科学の形而上学的原理』に当たるとみなされうると原佑(訳上巻、p.534)はのべています。
    >
    > この著作や、これについてのプラースの研究について何かいうことは私の力では到底できないのですが、今回pipitさんが、引用箇所をめぐるカントの"natuerlich"の二義性(多義性)、或いは"natuerlich"を「自然因果的」と解釈する可能性について指摘してくださったのをきっかけにプラースの本を開いたところ、興味ぶかいことに、プラースはカント『自然科学の形而上学的原理』をとおして、「自然」という語の二つの意味(第1章第1節、p.28〜)、カントの自然概念(同第2節、p.30-p.31)について論じていました。
    >
    > 余裕があるときに、私の力のおよぶ範囲内でその箇所を紹介したいとおもいます。<

    楽しみにしていますけど、もちろん約束ーとかは思われずに、うましかさんの気分次第にされてくださいね(^-^)

    おもしろいですよね、
    わたしたちは、わたしたちを通してしか、わたしたちの認識を得られない。

    当たり前と切り捨てられるかもの、このおもしろさを、感覚を、みんながどう思ってるのかはわからないけど、
    それでもこのように、うましかさんはじめいろんな方とお話しできるの嬉しいです。
    (パニチェさんに大感謝!(^人^))

    いろいろ検索してたら、物理とついた論文をたまたま見つけたので、アドレス貼ります。
    私は中身を理解できていませーん( ̄▽ ̄;)
    //www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron38/07-katayama.pdf
    『物理法則が経験に先立つとはいかなることか
    ーカント『自然科学の形而上学的原理』における作用・反作用の法則ー』
    片山光弥さん
    (『片山光弥 物理』の検索で上記の論文のリンクが出てくるかもです。)

    あと、アンチノミー関連で、
    https://www.kek.jp/ja/essay/20210325/
    【KEKエッセイ #41】現代宇宙論と素粒子論で哲学者カントに挑戦
    郡 和範 さん

    因果と自由についてもいろいろありそうだなー

    それではー ♪ (^O^)/
引用返信/返信 削除キー/
■14486 / inTopicNo.9)  Re[6]: 自然とは?現象?対象?物自体は?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/27(Sun) 17:07:28)
    お邪魔しま〜す。
    pipitさま、
    >カントは、物理法則が支配しているような世界への関心が高かったかもしれませんね。<
    わたしもそう見てる。


引用返信/返信 削除キー/
■14490 / inTopicNo.10)  物理の仕組み好きのカント先生
□投稿者/ pipit -(2021/06/27(Sun) 18:03:39)
    悪魔ちゃん、こんばんは !

    うん (^-^)

    ほんとにありがとう (^-^)

    いろんな見方があることを気づかせてもらってます ☆彡☆彡☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■14620 / inTopicNo.11)  カント沼番外地:第一版序論 V−7
□投稿者/ うましか -(2021/07/02(Fri) 00:50:14)
    pipitさん、こんばんはー
    おじゃまします。

    *******

    ◇ 数学〔Die Mathematik〕は、どこまで私たちが経験に依存せずにア・プリオリな認識において成功しうるかという、一つの輝かしい実例を私たちに与えている。

    ◇ところで、たしかに数学は、対象と認識とが直観〔Anschaung〕において描出〔darstellen〕されるかぎりにおいてのみ、そうした対象と認識とにたずさわる。しかしこの事情は容易に見落とされる。というのは、前述の直観自身がア・プリオリに与えれられることができ、したがってたんなる純粋概念〔reinen Begriff〕からほとんど区別されないからである。

    ◇ 〔数学における〕理性の力〔Macht der Vernunft〕のこうした証明に鼓舞されて、〔認識を〕拡張しようとする衝動はいかなる限界も認めない〔*1〕。

    *1 原佑訳のほかに宇都宮芳明監訳(上巻、p.51)も参考にしてみた。


    →原佑訳上巻、p.94〜p.95参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。


    (;´・ω・)うーん

    さいきん原佑訳の文章が頭に入ってこなくて停滞気味です( ;∀;)


    それでは〜


    *******

    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576,
引用返信/返信 削除キー/
■14624 / inTopicNo.12)  Re[4]: カント沼番外地:第一版序論 V−7
□投稿者/ おくたがわ -(2021/07/02(Fri) 07:58:57)
    No14620に返信(うましかさんの記事)
    おはようございます

    > ◇ 数学〔Die Mathematik〕は、どこまで私たちが経験に依存せずにア・プリオリな認識において成功しうるかという、一つの輝かしい実例を私たちに与えている。
    >
    > ◇ところで、たしかに数学は、対象と認識とが直観〔Anschaung〕において描出〔darstellen〕されるかぎりにおいてのみ、そうした対象と認識とにたずさわる。しかしこの事情は容易に見落とされる。というのは、前述の直観自身がア・プリオリに与えれられることができ、したがってたんなる純粋概念〔reinen Begriff〕からほとんど区別されないからである。
    >
    > ◇ 〔数学における〕理性の力〔Macht der Vernunft〕のこうした証明に鼓舞されて、〔認識を〕拡張しようとする衝動はいかなる限界も認めない〔*1〕。
    >
    > *1 原佑訳のほかに宇都宮芳明監訳(上巻、p.51)も参考にしてみた。
    >
    >
    > →原佑訳上巻、p.94〜p.95参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。

    この部分で石川さんの誤訳を発見してもた
    原『しかしこの事情は容易に見落とされる。』のところが
    石川『しかし、その事情を見渡すのは容易である』になってる
    (天野『けれども此の事情は看過されやすい』)
    もちろん原・天野訳が正しいですね。
    「直観で描出される限りにおいてのみ〜携われる」という事情が見落とされやすい、何故ならこの直観を純粋概念と区別するのが難しいから。


引用返信/返信 削除キー/

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