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カント沼番外地:第一版序論 V−6
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□投稿者/ うましか -(2021/06/26(Sat) 12:21:22)
| pipitさん、こんにちはー おじゃまします。
No.14415 V−5 No.14271 V−4 No.14097 V−3 No.14009 V−2 No.13815 V−1 No.13643 U−1 No.13576 T−3 No.13436 T−2 No.13389 T−1
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◇ 経験という地盤を捨て去るやいなや、その由来を知らずに所有している諸認識でもって、また、その起源〔Ursprung〕がわかっていない諸原則を信頼して、その基礎を慎重な研究によってあらかじめ確かにしておくことなしに、すぐさま一つの建物を建てるのではなく、それゆえ、いったいいかにして悟性はあらゆるこうしたア・プリオリな諸認識へと達しうるのか、またいかなる範囲〔Umfong〕、妥当性〔Gueltigkeit〕および価値〔Wert〕をそれらのア・プリオリな諸認識はもちうるのか、という問題〔*1〕がいち早く投げかけられているということ。
◇ 以上のことはたしかに自然的〔natuerlich〕であるとおもわれる。
◇ 事実また、(この自然的〔natuerlich〕という言葉を、)正当かつ当然行われるべきはずのものと理解するならば、これ以上自然的なことは何ひとつとしてない。
※ natuerlich −@:正当かつ当然行われるべきはずということ
◇ しかし、この言葉を通例おこなわれているものと理解するならば、これまた、こうした研究が長くなおざりにされざるをえなかったということ以上に自然的で明白なことは何ひとつとしてない。
※ natuerlich −A:通例おこなわれているということ
◇ なぜなら、こうしたア・プリオリな諸認識の一部、すなわち数学的認識は、昔から信頼をかちえており、だから、このことによって他の諸認識に対しても、たとえこれらの諸認識が、その本性〔Natur〕をまったく異にするものであるかもしれないにせよ、好都合な期待がかけられているからである。
◇ そのうえ、人が経験の圏域を越え出るなら、経験によって抗弁〔widersprochen〕されない〔*2〕ことは確実である。おのれの認識を拡大する魅力はきわめて大きいので、明らかな矛盾〔Widerspruch〕に突きあたりさえしなければ、人はその進行をつづけていくことができる。
*2 第二版序論では、"widerlegt"(「論駁〔されない〕」)と変わっている。
◇ しかし、この矛盾も、人がおのれのいろいろの仮構〔Erdichtungen〕に用心深くあれば、そのためにそれらが少しでも仮構でなくなることはないが、避けられうるものである。
→原佑訳上巻、p.92〜p.94参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。※〜は私の覚書。
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pipitさんのご指摘のように、カントは◇中の*1「問題」の提起を評する"natuerlich"という言葉を二様に使っています。
一つは@「正当かつ当然行われるべきはず」というもので、もう一つはA「通例おこなわれている」というもの。しかしカントは(「問題」提起への現状の応えに対して?)いずれにも批判的であるようにおもいます(目標未達成、事実追認的で不満?)。
ところで、ここにもう一つ、"natuerlich"へのカントの思考を読み込むことは可能でしょうか? 私はpipitさんのおっしゃった自然因果的な意味としての「自然」が背景にないだろうか思案しています(;´・ω・) →ペーター・プラース『カントの自然科学論』、p.28〜p.31参照
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