| pipitさん、おはようございます。 おじゃまします。
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カントから外れまーす。
>時間空間の場合、自分(の身体?)をゼロポイント(起点)として、四方八方の位置が現象としてあらわれる。
とても素朴な事態を想像しました。もしこの世に測定、測量するもの、目盛りのある道具とか単位とかがないとしたら、たとえば、ここからあそこにみえる一本の樹まで、"どのくらいあるか"をどのように知ることができるだろうか。
◎ここからあそこまでか ◎あそこからここまでか
>思考の場合、自分という概念を概念意識世界のゼロポイントとして、概念の位置関係を設定し、現象があらわれる。(私は、、、と考える。)わたしはみる。と捉える。わたしはきく。と捉える。
カントの文脈に関係するかどうかわかりませんが、思考は、一人称「私」から出発するとはかぎらないかも、、とおもいました。
というのも、
>外からの触発により与えられた内容(感じられた内容)を、自分という存在を中心に、概念を配置して、解釈(理解)する
内・外というのは、おそらく自・他の喩えだとおもいますが、pipitさんも、自分を中心とするのに先立ち、外(他者)からの触発を想定されています。
あ! そもそも私のこの思考は、私から出発したというよりは、pipitさん(あなた=二人称)に触発されたものともいえるのでした(・・;)?
それでは〜
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