□投稿者/ pipit -(2021/04/29(Thu) 17:59:15)
| >>12251 おくたがわさん、こんにちは!(^o^)/♪
まず、話題になってる経典のお三方によるそれぞれの英訳、日訳のページをご紹介いたしますね。 小マールキヤ経 パーリ仏典経蔵中部に収録されている第63経 (1) https://suttacentral.net/mn63/en/sujato (2) https://suttacentral.net/mn63/en/bodhi (3) 光明寺経蔵さまのサイト https://komyojikyozo.web.fc2.com/ 『中部』>「中分五十篇」>「比丘品」>「小マールキヤ経」
それで、私は、なんですが、経典の内容は、
>毒矢の喩えの時に、他の者には教えていることを自分には教えてくれないという不満を持って問うたところ、相手のステージによって必要なものを説くと仏陀は答えたとのこと。<
とは微妙に違うかな??との感想を持っています。
釈尊が他人に教えてた、とはなってなく、誰であろうと釈尊は苦集滅道についてを説くのだ、みたいな印象です。 マールキャプッタさまが阿羅漢になった時の説法も結局は滅苦への道なので、四聖諦に含まれる法話かな?、 マールキャプッタさまの場合、法話の中身を実践するか否かで(若い時に同じような説法を聞いていたとしても)、悟るか悟らないかの違いが出たのかなぁ?と妄想しています。 (もちろんpipitの勘違いの可能性はいつでもありますm(_ _)m)
>見ないもの聞かないものには執着しないだろうと応答した後で、 見られたもの聞かれたものは、ただそれだけのものとしてあり(それを滅するにまかせ積み上げなければ)執着はないと、 そしてそのとき、あなたは、この世にも、あの世(他界・他世)にも、両者の中間にもない となりますね。<
>なんか、カントの自己意識の部分も連想しました。 様々な表象が統合されることが認識や思考の前提とし、統合される表象には必ず自己意識が伴うと書いていたような(理解が間違っていたら指摘ください)。 予め存在する自己が予めまとまっている対象を知覚し認識・思考するという発想ではなく、個々に出現した表象を統合して認識・思考に至る過程で自己が登場するという感じ。<
同じようにわたしも感じています(^。^) 否応なしに(人間のつくりとして?)意識に『わたし』という意識も着けちゃうけど、それは意識なだけで、
↑ ここまでは、カントの統覚のおはなしで、 ここからは、仏教のおはなし ↓
見られたものを、わたしが見た、と考える。 聞かれたものを、わたしが聞いた、と考える。 思われたものを、わたしが思った、と考える。
その自己(わたし)意識を不着させないとき、、、どんな世界が開かれるのか、、、
、、、といっても、カントも、わたしは感情みたいなもの、ってプロレゴーメナで言ってるとか?御子柴善之先生の『カント哲学の核心』p201参照、、、を見直したら、概念ですらないって! 『「私」は、ある現在在の感情に他ならず、いささかも概念を含まない。それは一切の思考がそれと関係(偶有性の関係)をもつものの表象に過ぎない。(Ak334、中公218、岩波178)』 読み返してびっくりしました。 (でも、いつも通り、カント言説はわかりそうでわかりませんが(^^;)
おくたがわさん、いつも本当〜〜〜にっ!ありがとうございます!!
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