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■14662 / inTopicNo.85)  カント沼番外地:第一版序論 V−8
  
□投稿者/ うましか -(2021/07/03(Sat) 16:13:17)
    pipitさん、こんにちはー
    おじゃまします。

    *******

    ◇ 数学〔Die Mathematik〕は、どこまで私たちが経験に依存せずにア・プリオリな認識において成功しうるかという、一つの輝かしい実例を私たちに与えている。

    ◇ところで、たしかに数学は、対象と認識とが直観〔Anschaung〕において描出〔darstellen〕されるかぎりにおいてのみ、そうした対象と認識とにたずさわる。しかしこの事情は容易に見落とされる。というのは、前述の直観自身がア・プリオリに与えれられることができ、したがってたんなる純粋概念〔reinen Begriff〕からほとんど区別されないからである。

    ◇ 〔数学における〕理性の力〔Macht der Vernunft〕のこうした証明に鼓舞されて、〔認識を〕拡張しようとする衝動はいかなる限界も認めない〔*1〕。

    *1 原佑訳のほかに宇都宮芳明監訳(上巻、p.51)も参照した。

    ◇ 軽快な鳩は自由に空気中を飛びまわって空気の抵抗を感ずるので、真空のなかではもっとずっうまく飛べると考えるかもしれない。

    ◇ 同様にプラトンは、感性界〔Sinnenwelt〕は悟性〔Verstande〕にきわめてさまざまな障害をもうけるため〔*2〕、感性界を捨てその彼岸へと、純粋理性という真空のうちへと、あえて理念(イデア)〔Ideen〕の翼をはばたこうとした。

    *2 「さまざな障害をもうける」は、第二版序論では「窮屈な制限〔Schranken〕をくわえる」に変更された。

    ◇ プラトンはおのれの努力によってはいかなる道も開かれないということに気づかなかった。なぜなら、彼は、悟性を働かせるために彼がそれを頼り、また彼がそれを手がかりにおのれの諸力をふるいうる支柱としていかなる抵抗物ももっていなかったからである。


    →原佑訳上巻、p.95〜p.96参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。




    Plato、Plato、Platoon...
    https://www.youtube.com/watch?v=tVNhFMZP4NM&t=14s

    沈むなー



    *******

    V−7 No.14620
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576
引用返信/返信 削除キー/
■14660 / inTopicNo.86)  pipit森のカント沼日記(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2021/07/03(Sat) 12:48:47)
    pipitさん、こんにちはー
    おじゃまします。

    *******

    >認識、は、手中にあるけど、
    >その認識がどのように現れたか、は、手中の範囲外になるんやろうか。
    >はたまた、瞑想状態で 知ることは可能となるのか
    >知りたいけどなー  仕組み
    No.14643

    こういう分野の話しでしょうか…(;´・ω・)?

    https://metaninchi.net/page16.html

    >近年はマインドフルネスという瞑想方法が注目されていますが、この方法はメタ認知を高めるのに非常に効果的です。<

引用返信/返信 削除キー/
■14658 / inTopicNo.87)  おくたがわさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/07/03(Sat) 12:34:25)
    おくたがわさん、こんにちは。

    私もさいきん石川文康訳を手に入れました〜

    『純粋理性批判』はいろんな人が訳していて、ありがたいですね(・ω・)ノ

    *******

    さて、今回おくたがわさんから指摘をいただいた石川訳を引用してみますと、

    >ところで数学は、たしかに単に直観において示されるかぎりにおいて、対象と認識に携わる。しかし、その事情を見わたすのは容易である。というのは、問題となっている直観自体がアプリオリに与えられているからであり、その意味で、単なる純粋概念といっこうに見分けがつかないからである。<

    →石川文康訳 上巻、p.53

    となります。

    おくたがわさんが石川訳の「誤訳」とされた「しかし、その事情を見わたすのは容易である。」は、原典では、"Aber dieser Umstand wird leicht uebersehen, "の箇所だとおもいますが、"uebersehen"は、英語では"overlook"、これは見渡す、見逃すという意味ですね(;´・ω・)

    一方、これまたさいきん手に入れた宇都宮訳ではこうなっています。

    >ところで数学は、実のところ、対象や認識が直観のうちで呈示される限りにおいてのみ、それらの対象や認識にかかわりあうのである。だがこうした事情は、簡単に見逃されてしまうが、それはこの場合の直観そのものがア・プリオリに与えられることができ、したがってたんなる純粋概念とほとんど区別されないからである。<

    →宇都宮芳明訳 上巻、p.51

    おくたがわさんのご指摘どおり、石川訳以外の訳者は、(私の現在知りうるかぎりでは、)この"uebersehen"を、「見落とす」「見逃す」と訳しているようです。

    *******

    ところで、おくたがわさんは、「見落とす」「見逃す」という訳が正しい理由を、

    >「直観で描出される限りにおいてのみ〜携われる」という事情が見落とされやすい、何故ならこの直観を純粋概念と区別するのが難しいから。
    No.14624

    とされるわけですが、
    私もおくたがわさんの上の説明自体に違和感はありません(^^)/。

    ただ一方で、これが、石川訳が誤っている理由となっているかどうかはまだよくわからないです…^^;


    もうちょっと考えてみます! (・ω・)ノ

    ありがとうございました!! m(__)m

    それでは〜










引用返信/返信 削除キー/
■14643 / inTopicNo.88)  森日記
□投稿者/ pipit -(2021/07/02(Fri) 20:56:18)
    ふむー

    認識、は、手中にあるけど、

    その認識がどのように現れたか、は、手中の範囲外になるんやろうか。

    推測でしか得られない認識なのか、、、
    (直知や知的直観の、不可能性、、、)

    はたまた、瞑想状態で 知ることは可能となるのか
    (直知の、知的直観の、可能性、、、)

    知りたいけどなー  仕組み 
引用返信/返信 削除キー/
■14641 / inTopicNo.89)  森・第一版序文 ♪
□投稿者/ pipit -(2021/07/02(Fri) 20:41:45)
    みなさま、こんばんはー (^。^)

    初版の序文(中山元先生訳)を読み直してたら、(みなさまからの縁起に、感謝です!)
    No.14430
    で私が考えてたことに対する返答に、もしかしたらなっているかも?な文章を見つけて、嬉しかったです。
    (判断には自信ないけど、、、)

    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p211-213ですが、
    カント先生、
    【純粋悟性概念の演繹】がめためた大変だったんだよぉぉ(つД`)ノ
    この苦労報われろー(^-^)
    みたいにおっしゃってて(pipit意訳)

    この純粋悟性概念の演繹には二つの側面があって、
    1.純粋な知性の対象にかかわるもので、純粋悟性概念が客観的な妥当性をそなえていることを確証し明確にすること。
    2.純粋な知性が主観とのあいだでどのような関係があるかを考察するもの。

    で、『純粋理性批判』は本来、知性と理性が、あらゆる経験から離れて、何を認識できるのか、そしてどの程度まで認識できるのかというのが主問題であって、このことを、中山先生は[客観的な妥当性の]問題と補足されてます。

    これが1であり、(『本書の九二ページから九三ページ』)に対応する箇所で記述されてるということでしょうね。

    そして、2が、思考する能力がどのように可能になるかという[主観的な能力の]問題。
    カント先生は、この箇所は
    仮説にみえるとこらもあるかもしれない(でも実はそうではないけどぉ)とおっしゃってます。

    その部分が、私の考察の参考になるのかも?と思ったので引用します。

    中山元先生訳、『純粋理性批判1』p212、A]Z(中山先生独自番号R12)
    カントの文章の引用
    『この第二の[思考する能力の]問題については、ある与えられた結果[思考]から、その原因[思考の能力]にさかのぼって考察することになるために、どうしても仮説のようにみえるものを含んでしまうのである(いずれ述べるように、実際には仮説ではないのだが)。その場合には、わたしには自分の私見を述べるのが許されるのと同じように、読者にも別の私見を述べるのが許されるべきだということになろう。そこでわたしはあらかじめ読者に注意を与えておかねばならない。もしも読者が[第二の主観的な問題にかかわる]主観的な根拠づけに、わたしが期待するほど十分に納得できなかったとしても、本書の主要な目的である[第一の客観的な問題にかかわる]客観的な根拠づけは、その強みをまったく失わないのである。そのためには本書の九二ページから九三ページに述べたことで十分であろう。』
    引用終了

    強み失わないのほんとかなー?
    まったく??
    読解にチャレンジしてみますね!

    (´-`).。oOマッタクワカランカモネー


引用返信/返信 削除キー/
■14624 / inTopicNo.90)  Re[4]: カント沼番外地:第一版序論 V−7
□投稿者/ おくたがわ -(2021/07/02(Fri) 07:58:57)
    No14620に返信(うましかさんの記事)
    おはようございます

    > ◇ 数学〔Die Mathematik〕は、どこまで私たちが経験に依存せずにア・プリオリな認識において成功しうるかという、一つの輝かしい実例を私たちに与えている。
    >
    > ◇ところで、たしかに数学は、対象と認識とが直観〔Anschaung〕において描出〔darstellen〕されるかぎりにおいてのみ、そうした対象と認識とにたずさわる。しかしこの事情は容易に見落とされる。というのは、前述の直観自身がア・プリオリに与えれられることができ、したがってたんなる純粋概念〔reinen Begriff〕からほとんど区別されないからである。
    >
    > ◇ 〔数学における〕理性の力〔Macht der Vernunft〕のこうした証明に鼓舞されて、〔認識を〕拡張しようとする衝動はいかなる限界も認めない〔*1〕。
    >
    > *1 原佑訳のほかに宇都宮芳明監訳(上巻、p.51)も参考にしてみた。
    >
    >
    > →原佑訳上巻、p.94〜p.95参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。

    この部分で石川さんの誤訳を発見してもた
    原『しかしこの事情は容易に見落とされる。』のところが
    石川『しかし、その事情を見渡すのは容易である』になってる
    (天野『けれども此の事情は看過されやすい』)
    もちろん原・天野訳が正しいですね。
    「直観で描出される限りにおいてのみ〜携われる」という事情が見落とされやすい、何故ならこの直観を純粋概念と区別するのが難しいから。


引用返信/返信 削除キー/
■14620 / inTopicNo.91)  カント沼番外地:第一版序論 V−7
□投稿者/ うましか -(2021/07/02(Fri) 00:50:14)
    pipitさん、こんばんはー
    おじゃまします。

    *******

    ◇ 数学〔Die Mathematik〕は、どこまで私たちが経験に依存せずにア・プリオリな認識において成功しうるかという、一つの輝かしい実例を私たちに与えている。

    ◇ところで、たしかに数学は、対象と認識とが直観〔Anschaung〕において描出〔darstellen〕されるかぎりにおいてのみ、そうした対象と認識とにたずさわる。しかしこの事情は容易に見落とされる。というのは、前述の直観自身がア・プリオリに与えれられることができ、したがってたんなる純粋概念〔reinen Begriff〕からほとんど区別されないからである。

    ◇ 〔数学における〕理性の力〔Macht der Vernunft〕のこうした証明に鼓舞されて、〔認識を〕拡張しようとする衝動はいかなる限界も認めない〔*1〕。

    *1 原佑訳のほかに宇都宮芳明監訳(上巻、p.51)も参考にしてみた。


    →原佑訳上巻、p.94〜p.95参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。


    (;´・ω・)うーん

    さいきん原佑訳の文章が頭に入ってこなくて停滞気味です( ;∀;)


    それでは〜


    *******

    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576,
引用返信/返信 削除キー/
■14490 / inTopicNo.92)  物理の仕組み好きのカント先生
□投稿者/ pipit -(2021/06/27(Sun) 18:03:39)
    悪魔ちゃん、こんばんは !

    うん (^-^)

    ほんとにありがとう (^-^)

    いろんな見方があることを気づかせてもらってます ☆彡☆彡☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■14486 / inTopicNo.93)  Re[6]: 自然とは?現象?対象?物自体は?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/27(Sun) 17:07:28)
    お邪魔しま〜す。
    pipitさま、
    >カントは、物理法則が支配しているような世界への関心が高かったかもしれませんね。<
    わたしもそう見てる。


引用返信/返信 削除キー/
■14478 / inTopicNo.94)  自然とは?現象?対象?物自体は?
□投稿者/ pipit -(2021/06/27(Sun) 14:53:29)
    2021/06/27(Sun) 14:59:31 編集(投稿者)

    うましかさん、返信ありがとうございます!(^-^)

    No14474に返信(うましかさんの記事)
    > pipitさん、こんにちはー
    > おじゃまします。
    >
    > pipitさんのNo.14468の問いとはズレているような気がしますが(;´・ω・)
    > いまの私に応えられる範囲での返信ですm(__)m
    >
    > *******
    >
    > 私がカント『純粋理性批判』そのものを読もうとおもったのは、まだつい数ヶ月前のことですが、そのあまりにも頭にはいってこない文章のおかげで途方にくれていたところ、帰ってきたロシュフコーさんの動画を知ることとなり、事前学習としてまとめ作業をしました。その際おもしろいなーとおもったのは、カントの出発点の一つは物理の研究だったということです。私はこのことを忘れちゃいけないとおもってその後のまとめにもくり返し書き留めておきました。→ No.11777 等<

    カントは、物理法則が支配しているような世界への関心が高かったかもしれませんね。


    > 先にあげたペーター・プラース『カントの自然科学論』も、上に述べた私の関心のもと調べていて知った研究書です。この本は『純粋理性批判』そのものについての研究ではなく『自然科学の形而上学的原理』(1786)という著作についてのものです。『純粋理性批判』第一版(1781)序文(原佑訳上巻、p.37)に強調されるかたちで「自然の形而上学」という標題で提供したいと予告されているのが、この『自然科学の形而上学的原理』に当たるとみなされうると原佑(訳上巻、p.534)はのべています。
    >
    > この著作や、これについてのプラースの研究について何かいうことは私の力では到底できないのですが、今回pipitさんが、引用箇所をめぐるカントの"natuerlich"の二義性(多義性)、或いは"natuerlich"を「自然因果的」と解釈する可能性について指摘してくださったのをきっかけにプラースの本を開いたところ、興味ぶかいことに、プラースはカント『自然科学の形而上学的原理』をとおして、「自然」という語の二つの意味(第1章第1節、p.28〜)、カントの自然概念(同第2節、p.30-p.31)について論じていました。
    >
    > 余裕があるときに、私の力のおよぶ範囲内でその箇所を紹介したいとおもいます。<

    楽しみにしていますけど、もちろん約束ーとかは思われずに、うましかさんの気分次第にされてくださいね(^-^)

    おもしろいですよね、
    わたしたちは、わたしたちを通してしか、わたしたちの認識を得られない。

    当たり前と切り捨てられるかもの、このおもしろさを、感覚を、みんながどう思ってるのかはわからないけど、
    それでもこのように、うましかさんはじめいろんな方とお話しできるの嬉しいです。
    (パニチェさんに大感謝!(^人^))

    いろいろ検索してたら、物理とついた論文をたまたま見つけたので、アドレス貼ります。
    私は中身を理解できていませーん( ̄▽ ̄;)
    //www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron38/07-katayama.pdf
    『物理法則が経験に先立つとはいかなることか
    ーカント『自然科学の形而上学的原理』における作用・反作用の法則ー』
    片山光弥さん
    (『片山光弥 物理』の検索で上記の論文のリンクが出てくるかもです。)

    あと、アンチノミー関連で、
    https://www.kek.jp/ja/essay/20210325/
    【KEKエッセイ #41】現代宇宙論と素粒子論で哲学者カントに挑戦
    郡 和範 さん

    因果と自由についてもいろいろありそうだなー

    それではー ♪ (^O^)/
引用返信/返信 削除キー/
■14474 / inTopicNo.95)  pipitさんへ 自然、その前に(;´・ω・)?
□投稿者/ うましか -(2021/06/27(Sun) 12:22:55)
    pipitさん、こんにちはー
    おじゃまします。

    pipitさんのNo.14468の問いとはズレているような気がしますが(;´・ω・)
    いまの私に応えられる範囲での返信ですm(__)m

    *******

    私がカント『純粋理性批判』そのものを読もうとおもったのは、まだつい数ヶ月前のことですが、そのあまりにも頭にはいってこない文章のおかげで途方にくれていたところ、帰ってきたロシュフコーさんの動画を知ることとなり、事前学習としてまとめ作業をしました。その際おもしろいなーとおもったのは、カントの出発点の一つは物理の研究だったということです。私はこのことを忘れちゃいけないとおもってその後のまとめにもくり返し書き留めておきました。→ No.11777 等

    先にあげたペーター・プラース『カントの自然科学論』も、上に述べた私の関心のもと調べていて知った研究書です。この本は『純粋理性批判』そのものについての研究ではなく『自然科学の形而上学的原理』(1786)という著作についてのものです。『純粋理性批判』第一版(1781)序文(原佑訳上巻、p.37)に強調されるかたちで「自然の形而上学」という標題で提供したいと予告されているのが、この『自然科学の形而上学的原理』に当たるとみなされうると原佑(訳上巻、p.534)はのべています。

    この著作や、これについてのプラースの研究について何かいうことは私の力では到底できないのですが、今回pipitさんが、引用箇所をめぐるカントの"natuerlich"の二義性(多義性)、或いは"natuerlich"を「自然因果的」と解釈する可能性について指摘してくださったのをきっかけにプラースの本を開いたところ、興味ぶかいことに、プラースはカント『自然科学の形而上学的原理』をとおして、「自然」という語の二つの意味(第1章第1節、p.28〜)、カントの自然概念(同第2節、p.30-p.31)について論じていました。

    余裕があるときに、私の力のおよぶ範囲内でその箇所を紹介したいとおもいます。



    それでは〜




引用返信/返信 削除キー/
■14468 / inTopicNo.96)  うましかさんへ 自然
□投稿者/ pipit -(2021/06/26(Sat) 23:20:35)
    No.14455
    うましかさん、こんばんはー

    >ところで、ここにもう一つ、"natuerlich"へのカントの思考を読み込むことは可能でしょうか? 私はpipitさんのおっしゃった自然因果的な意味としての「自然」が背景にないだろうか思案しています(;´・ω・)
    →ペーター・プラース『カントの自然科学論』、p.28〜p.31参照<


    私はペーター・プラースさんのお名前さえ存じ上げなかったのですがm(_ _)m、

    >こうした研究が長くなおざりにされざるをえなかったということ以上に自然的で明白なことは何ひとつとしてない。<
    が、自然因果的で、なるがまま、流れに流されたまま(自由がない)ということを、うましかさんは考えられてるのでしょうか?
    それとも別のことを考えられてるのでしょうか?

引用返信/返信 削除キー/

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