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Re[4]: カント沼番外地:第一版序論 V−7
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□投稿者/ おくたがわ -(2021/07/02(Fri) 07:58:57)
| ■No14620に返信(うましかさんの記事) おはようございます
> ◇ 数学〔Die Mathematik〕は、どこまで私たちが経験に依存せずにア・プリオリな認識において成功しうるかという、一つの輝かしい実例を私たちに与えている。 > > ◇ところで、たしかに数学は、対象と認識とが直観〔Anschaung〕において描出〔darstellen〕されるかぎりにおいてのみ、そうした対象と認識とにたずさわる。しかしこの事情は容易に見落とされる。というのは、前述の直観自身がア・プリオリに与えれられることができ、したがってたんなる純粋概念〔reinen Begriff〕からほとんど区別されないからである。 > > ◇ 〔数学における〕理性の力〔Macht der Vernunft〕のこうした証明に鼓舞されて、〔認識を〕拡張しようとする衝動はいかなる限界も認めない〔*1〕。 > > *1 原佑訳のほかに宇都宮芳明監訳(上巻、p.51)も参考にしてみた。 > > > →原佑訳上巻、p.94〜p.95参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。
この部分で石川さんの誤訳を発見してもた 原『しかしこの事情は容易に見落とされる。』のところが 石川『しかし、その事情を見渡すのは容易である』になってる (天野『けれども此の事情は看過されやすい』) もちろん原・天野訳が正しいですね。 「直観で描出される限りにおいてのみ〜携われる」という事情が見落とされやすい、何故ならこの直観を純粋概念と区別するのが難しいから。
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