TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■36006 / inTopicNo.73)  Re[71]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/03(Wed) 18:32:54)
    〔世界における(への)存在としての「私」〕っていうのを話題として、
    No35601のような式を考えてみて、
    「意識」について、「意識と世界との関係性」について、見てきたんだけど、
    No35946の(A)にもうちょっと追加して、このごろは、
    私の外にある「それ」は、私の内で構成された〈それ〉と〔それ〕となってる。そして、(それ)を表現した[それ]。
    ってなってる。
    No27469に、
    〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕ってメルポンは言ってる。
    「私」と世界との関係において、〔表現する〕っていうことを忘れないようにするためにね。
    たぶん分けわかんないと思うけど、べつにいいのよ。

    いまは簡単に、こんな絵を描いて見て、いろいろ考えてる。
    添付します。

    〔それ〕っていうのは思考によって、〈それ〉っていうのは知覚によって、みたいな感じで。
    「それ」を、知覚pe-rceptによって捉えたceptのが〈それ〉、概念co-nceptによって捉えたceptのが〔それ〕、っていうふうに「それ」の捉え方(見方)が異なる2つの〈知性(知るさが)〉があるって見てたりもしてる。

    たぶん、対象、って言うと、私の外にあるもの(現前する「それ」)のことを指してると思うけど、わたし私の外にあるのを「それ」「対象」ってして、私の内で構成されたものとして、〈それ〉〈対象〉って表記して区別することにした。

    こうすることでちょっと簡単に書けるのね。たとえば、「苺」は〈苺〉となってる。だけで意味通じるでしょ?

    あと、「それ」は「物」だけじゃなくて「人」でもいいのよ。

563×341

1704274374.jpg
/39KB
引用返信/返信 削除キー/
■36015 / inTopicNo.74)  Re[72]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/04(Thu) 09:21:50)
    今日までお休み〜

    メルポンの分け方に倣って、意識の2つの〈知性〉として、わたしのうちでは、
    〈考性〉=知性的意識=思・考=認識、理解、判断、概念、客観的、学的
    〈感性〉=感性的意識=感覚・知覚・統覚
    こういうことになってる。
    ん?「記憶」が入ってない。たぶん、〈考性〉と〈感性〉の両方に関係してる〈知性〉。
    「認識」っていのを〈物事(世界)を正しく理解し判断する意識〉ってして、一般的にはこういうのを「知性」って呼んでるんだとしとく。
    「感性」っていうの、簡単に言っちゃうと“感じる”っていうこと。
    で、
    意識には「想像力」っていうのもあるみたい。わたしもそういうのがある、って思ってるけどどういのか、っていうのがこれからの物語り。

    わたしがこれまで集めて見てきた資料は、

    (1)【モーリス・メルロ=ポンティ『子供の心理−社会学』ソルボンヌ講義2/松葉祥一・澤田哲生・酒井麻衣子訳/みすず書房2023】

    【「現象学事典」弘文堂2014】から、
    (2)「想像」
    (3)「想像力」
    (4)「ファンタスマ」
    (5)「現在化/準現在化/共現在化」

    ネット「コトバンク」から、
    (6)「イメージ」
    (7)「想像」
    (8)「投影」
    (8)「感情」
    (10)「知覚」

    で〜す。

    じつはね、(1)のなかの「イメージ」っていうところを読んでて、メルポン、「想像力」っていうのどう見てるのか、っていうことから。

    簡単に、「思考」「知覚」「記憶」「想像」、っていうので見てくことにする。
    「想像」するっていうこと、どういうこと?どこに位置づけよっかな?そしてこれらの関係性はどうなってるのかな?っていうこと。


引用返信/返信 削除キー/
■36016 / inTopicNo.75)  Re[73]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/04(Thu) 11:22:45)
    「想像力」について思うきっかけとなった、【モーリス・メルロ=ポンティ『子供の心理−社会学』ソルボンヌ講義2/松葉祥一・澤田哲生・酒井麻衣子訳/みすず書房2023】の「イメージ」のところから、わたしが気になったところを書き出しておく。

    (a)『イメージは弱体化した知覚ではありません。それは「観察され」うるものではないのです。』(p70)

    (b)『イメージは、内的もしくは「心的」な「事物」ではなく、むしろ包括的な確信です。』(p70)

    (c)『イメージと幻覚には欺瞞が含まれており、それらは疑似的な視覚として示されます。狂人の虚言は、自分自身をだましているわけではないでしょう。彼の視覚はつねに、彼の行動の基盤となっている積極的な何かがあります。』(p70)

    (d)『想像力はつねに知覚された対象を目ざします。想像することは、内的な場面を熟視することではなく、単一の対象を参照することです。』(p71)

    (e)『想像することは、現実の対象をここに出現させようとして、それに向かうことなのです。想像的な対象の偽―現実化があり、不在の対象の「類同物〔analogon〕」の産出があるのです。サルトルは、心のイメージと結合した現象とを比較することで、この類同物の機能を明らかにしました。』(p71)

    (f)『物質的な拠りどころのない純粋なイメージ。そこで重要なのがまさに投影ですが、それは情動的で、活動的で、非知性的な投影です。』(p72)

    (g)『想像力は、本質的に情動的かつ運動的な現象であることが明らかになります。』(p72)

    (h)『こうした見方をするなら、感情とは、対象を志向し、それを疑似−現前させる方法のことです。われわれは対象を実際に思い描かなくても、運動や運動的志向性によって対象を志向します(たとえば、自分の背後の空間を想像する場合、重要なのはある包括的な印象とつながる一種の身体を割り出すことです。つまり、知的に表象することはなく、空間を志向するのです)。このように、情動性は、もはや「状態」ではなく、「志向の仕方」ないしは志向性によって定義されうるのです。』(p72)

    (i)『情緒は諸事物の把握である』(p73)

    (J)『(サルトル)われわれはたとえば怒りのなかで問題の直接的解決を探しますが、解決できないのでその問題を抹消し否定しようとする(自分が利用できない物を壊す)ということを示します。それは、実際の活動を、問題の情緒的否定に置き換えることです。他者との関係においても同様です。敵を説得できないとき、われわれは激怒のうちに敵を仮想的に破壊します。情緒のなかには、意識のあらゆる力の肯定、ある種の「対自」の狂気があります。この狂気のなかでは、問題が、外部の目撃者自身においてではなく、私に対して解決されます。したがって、それは本質的に魔術的な意識の仕方なのです。』(p74)

    (k)『情緒とは存在の仕方のことなのです。この考え方から、われわれは、想像的なものの源泉が情緒にあること、また夢や幻覚という現象が新たなかたちで解明されることが理解できます。幻覚にとらわれた人は、想像的な世界を定立します。自分の行動によって、彼は諸事物に幻想的な意味を与えます。彼は自分の幻覚を知覚していません。彼自身が知覚された事物と幻覚の進展を区別しており、他の人々は彼の言葉(ヴォワ)を理解できないはずです。彼の知覚は妄想の方向に湾曲されているので、その知覚を包み込んでいる態度から新しい意味を受け取ります。したがって、幻覚の対象は感覚器官の対象ではなく、 ある志向対象なのです。病者にとって、幻覚の対象が現実の代わりとなるのは、現実の価値が下げられて、病者は、健康な主体のように、生きられた世界を想像的な世界に対置できないからなのです。』(p75)

    (l)『イメージと現実的なもののあいだにある根本的な違いを見てきました。イメージは、決して観察可能ではないという点で、知覚と区別されます。しかし、イメージは、それが観察可能ではないがゆえに、幻覚を見ている人や夢を見ている人の意識に密着します。イメージは、直接的で絶対的なコミュニケーションという観念を私に与えてくれます。イメージは突然もたらされます。この点で、イメージにはある種の説得力があります。イメージの知覚と子どもの絵には類似点があります。』(p75)

    (m)『イメージのなかでわれわれがもつ信念は、われわれが現実(そして現実が前提とする相対主義)との接触を失い。ある特殊な態度に移行したことから帰結します。あらゆる知覚は、自らが部分的で、相対的なもののなかで活動しているということを知っています。〔それに対して〕想像的なものは絶対的なものなかで活動します。想像的なものによって、私は絶対的なものとかかわることになります。だからといって、私は、想像的なものが現実的であると信じているわけではありません。幻覚を見ている人でさえ、この二つの世界を区別しますが、現実的なものへの準拠(あるものをよりどころとしてそれに従うこと。また、そのよりどころ)を失ったがゆえに、想像的なもののなかで生きるのです。  この意味で、想像する力は、あざむく力であると同時に、意識の自由の現れです。意識は、想像的なものによってわれわれを現在から解放してくれますが、それは諸事物の外で自らを非現実化する力なのです。』(p76)

    (n)『意識は、諸対象の世界で生きるのをやめ、自分にもたらされた光景のなかに身を「置かなければ」ならないのです。主観的なものと客観的なものは崩壊しています。このとき、問題になるのが言い表しがたい第三の次元です(サルトル『イマジネール』参照)。主観的−客観的という区別の手前にとどまることが、夢幻的意識の固有性なのです。・・・・神話はこの第三の夢幻の秩序に属しています。著者〔サルトル〕はこの第三の秩序を、著作の後半から導入します。この秩序は健康な大人の覚醒した知覚と「虚構」のあいだにあります。』(p76)

    (o)『現実的なものの知覚のなかに信念があるとすら言えません。信念は先行する懐疑の後に入ってくるだけです。われわれの信念には何の支えもないので、われわれが本当に信じているのは想像的なものです。私は、自分が見ているこの椅子すら信じていません。椅子がそこにある。ただそれだけです。知覚は対象に密着するために、証明を期待しません。それは注意深い観察以前にあります。この意味で、知覚は想像的なものと同じく、前提を乗り越えます。現実と同じ、ように想像的なものが価値をもつためには、知覚されたもののなかに、推測的で両義的な部分がある必要があります。この共通の両義性のおかげで、時として、想像的なものが現実的なものに取って代わることができるのです。子どもは、目覚めている大人の二極的な世界のなかにわけではありません。子どもは混合領域に、つまり夢幻の両義的領域に住んでいるのです。』(p76)

    (p)『想像的なものと現実的なもののあいだには弁証法があり、この二つの領域のあいだには両義性があります。可能な合理性は、生や知覚の非合理的な枠組みを受け入れる合理性だけです。われわれと他者との関係の合理性は、私が他者を考察しているときでも他者は自由だという事実にあります。私が他者に対して抱くイメージに合わせるような他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』(p78)

    はじまりとして、

    すこしづつつづける

引用返信/返信 削除キー/
■36034 / inTopicNo.76)  Re[74]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/06(Sat) 15:49:37)
    またお休みつづくくからわたしの今の物語り進める。

    No35873に書き出したのは、
    No36015の(2)からの一部ね。
    意識の分節のなかで、〈想像の位置づけ〉に関することだと思うんだけど、

    アリストテレスの場合、
    〔想像(fantasia)を感性的知覚と思惟の中間に位置づけ〕てて、思惟の〔遂行に不可欠なものと規定し、記憶と親近関係にあるとした〕。
    カントの場合、
    〔構想力〕。そして、〔再生産的構想力と生産的構想力に分け、後者は悟性的認識への通路を開く超越論的機能をもつとした〕。
    っていうことみたい。

    わたし的にみると、
    ふたりとも「想像」っていうのを、「知覚」や「思考」とは区別してて、その中間に位置づけてる、っていうことは言えるかも。そして、アリストテレスは「記憶」と関係があるってしてて、カントは生産的構想力というもので「思考」(=認識/物事を正しく理解し判断すること)と関係してる。
    こんな感じでいいかも。

    ちなみに、
    No36015の(3)「想像力」に、
    〔想像する力。再生産的想像力と創造的想像力に分けられる。〕
    ってあった。
    なんかカントのに似てる。

    〈想像の位置づけ〉はちょっと置いといて、
    ひとまず、
    (B)2種類の想像が考えられてる。
    ってしとく。

    じゃ、〈想像の位置づけ〉、フッサールの場合はどうなってるのかな?
    っていうのは後で。

引用返信/返信 削除キー/
■36053 / inTopicNo.77)  Re[75]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/06(Sat) 18:50:22)
    No36034 のつづき

    想像の位置づけ、フッサールの場合、
    No36015 の(2)に、

    (q)〔フッサールは師ブレンターノを、意識はいつも「〜についての意識」(Bewbßtsein von stwas)であること、つまり意識の志向性(Intentonalität)を発見した点において賞揚したが、想像もまた知覚に劣らず志向的意識であると考えた。想像を知覚と認識の中間に位置づけたりせず、知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象(Vorstellung)、つまり像あるいはイメージと見なした。〕
    ってある。

    フッサールは、「想像」っていうのを、「思考」と「知覚」の中間に、じゃなくて、知覚にどこまでも近い「表象」、って見てるんだと思う。

    わたしのばあい、
    「表象」っていうの、
    [representation(再び提出する)]って見てるから、「想像」っていうのは「記憶」とかかわってる、ってしてる。
    ここらへんはアリストテレスのと似てる。
    あと、「表象(再提出)」にも二つあって、〈能動的に再提出する〉と、〈受動的に再提出される〉っていうのがある、って見てる。
    カントの用語をかりれば、前者が「生産的」で、後者が「再生産的」っていうことになるかな?(あ、これはわたしの憶測)

    ひとまず、わたしのばあい、現象学のに倣って、「想像」の位置づけを、
    (C)知覚と並ぶ、あるいは知覚に超近接した表象(受動的再提出)
    ってしとくことにした。

    わたし、意識における〈知性〉の分節の仕方として大きく二つ、〈考性(知性)〉と〈感性〉ってしたなかで、「想像力」っていうの、〈感性〉のうちに入れることにした。
    〈考性=認識(正しく理解し判断する)〉っていうのから離れて、物語は〈感性〉の世界へ、っていうことになるかな。


引用返信/返信 削除キー/
■36063 / inTopicNo.78)  Re[76]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/07(Sun) 10:31:50)
    No36016の(p)、
    ちょっとタイピング間違えに気づいたとこあるので訂正しま〜す。

    (p)『想像的なものと現実的なものとのあいだには弁証法があり、この二つの領域のあいだには両義性があります。可能な合理性は、生や知覚の非合理的な枠組みを受け入れる合理性だけです。われわれと他者との関係の合理性は、私が他者を考察しているときでも他者は自由だという事実にあります。私が他者に対して抱くイメージに合わせるよう他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』(p78)

    でした。 ごめん。

    わたしの物語りおもしろくないかな〜?っていうか〜、メルポンの。
    『私が他者に対して抱くイメージに合わせるよう他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』
    みたいなの、わたしいいと思うけど。

引用返信/返信 削除キー/
■36070 / inTopicNo.79)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/07(Sun) 13:58:15)
    ちょっと間奏

    現象学では「ノエシス/ノエマ」っていうのあるのね。
    【「現象学事典」弘文堂2014】の
    ノエシス/ノエマ [(独)Noesis/Noema(ギ)νόησιϛ/νόηα ]のなかから一部書き写して、

    (r)〔ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。両概念は、すべてのノエシスは必ずその相関者としてそれぞれのノエマを持つという志向的体験に見られる平行的構造を明らかにするために導入された。フッサール自らが確認するように、『論理学研究』では意識の志向性における「作用」と「対象」の平行性およびその相関関係が「一面的にノエシス的捉え方」によって考察された。それに対し「志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持つこと」、しかもそれら「両本質は相互に不可分である」という認識のもとに、『イデーンT』ではノエマ的側面に考察の重点がおかれ[265]、とりわけ志向的体験における「意識対象性の構成」の問題が「ノエシス・ノエマ的構成」という面から探究される[316]。また、ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され、「いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」[278]。このように体験のノエマ的側面に目を向けことで意味付与作用と志向的対象についての踏み込んだ分析が可能になった。〕

    わたし、簡単に、
    ノエシス=作用=〈すること〉
    ノエマ=対象=〈されるもの〉
    って見てて、そしてこれを区別して見ること、を倣ってる。

    でも、わたしほかに、〈するもの〉、〈されたもの〉っていうのあると思ってる。
    〈するもの〉がいるのね。〈するもの〉に〈されるもの〉(ノエマ=対象)があるのね。そして、その〈するもの〉がなにか〈する〉(ノエシス=作用)のね。そして、それによってなにか〈されたもの〉が出来るのね。
    メルポンのを見ようとするとき、こういう見方を頭の中に置いとくようにわたししてる。
    たとえばね、
    知覚さんがいるのね。これを〈するもの〉ってして見るのね。知覚さんに〈されるもの〉(ノエマ=対象)は「感覚」っていうことになるんだと思う。知覚さんは感覚に志向してるのね。そして、知覚さんが〈すること〉(ノエシス=作用)によって、知覚〈されたもの〉が出来る。
    こんな感じ。
    あと、この知覚〈されたもの〉っていうのは感覚が内容になってる、って見ることもできるのかも。〔ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され〕ってあるから、知覚さんによって知覚〈されたもの〉=感覚的内容を「意味」っていってもいいかな?メルポンがいう『sensという意味』?
    もうちょっと考えて、
    こんどは〈するもの〉を「感覚器官」ってするのね。「感覚器官」に〈されるもの〉(ノエマ=対象)は「私の外にある現前(現在)する現実的なもの」で、「感覚器官」が〈すること〉(ノエシス=作用)によって、〈されたもの〉が「感覚」っていうことになるかな。
    そして、知覚さんは、「感覚器官」によって〈されたもの〉=「感覚」を〈対象〉(ノエマ)としているわけだから、〈されたもの〉も「ノエマ」(対象)っていうことになるのかも?
    「ノエマ」っていうの、〈するもの〉に〈されるもの〉(対象)っていう側面と、別の〈するもの〉にとっては〈されたもの〉が対象となってるっていう側面、があるっていうことになるかな。
    ってすると〜、知覚さんによって〈されたもの〉を〈対象〉(ノエマ)にしている〈するもの〉がある、っていうことも考えられるかも。

    わたしの頭ン中ごちゃごちゃしてるみたいだけど、簡単に、
    ノエシス=作用=〈すること〉
    ノエマ=対象=〈するもの〉に〈されるもの〉、そして〈するもの〉によって〈されたもの〉も対象となってる。
    っていうことでいいかな。

    長くなっちゃたけど、まえからどうしとこっかな〜って、わたしに思われたものをわたしに分かりやすくするために、で、これわたし用に、ね。

引用返信/返信 削除キー/
■36093 / inTopicNo.80)  Re[78]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/08(Mon) 16:17:13)
    物語りつづける。
    しばらく【「現象学事典」弘文堂2014】の「想像」に書いてあるのからね。

    No36015の(2)に、

    (s)〔想像について語れば、その想像・像は意識内容ではなく、志向的対象であり、意識に超越し、意識がそれを思念し、それを狙う対象である。意識作用は一様ないしは同じであるのではなく、表象には表象作用が、想像には想像作用が対応するはずである。この作用−対象、あるいはノエシス−ノエマの相関構造が想像においても貫かれている。〕

    ってある。
    ここのある〔想像・像〕、わたし最初、〈想像によってできた像〉ってみたんだけど、どうやら違うみたいなのね。
    〔想像・像は意識内容ではなく、志向的対象〕ってあるよね。
    でね、
    No36070で見たようなのから見て見ると、
    〔想像・像〕っていうのがあって、これを〔志向的対象〕(ノエマ)ってしてるんだから、それを対象とする〈するもの〉がいるはずよね。で、わたし思ったんだけど、〈するもの〉っていうのを〈想像さん〉ってしてみたのね。
    〈想像さん(するもの)〉が〈すること〉によって、〈されたもの〉が〔想像・像〕じゃなくて〔意識内容ではなく〕、〈想像さん〉は〔想像・像〕を対象としてそれに志向してる、っていうふうにわたし見たのね。
    〔想像・像〕は〔意識内容〕じゃない、すなわち、〈想像さん〉によって〈されたもの〉=内容じゃない、ってしてみたわけ。

    ってすると〜、この〔想像・像〕を作ってるはだれ?ってなるのね。
    〈○○さん〉によって〈されたもの〉が〔想像・像〕、そして、〔それ〕を対象として志向してるのが〈想像さん〉。
    この〈○○〉にはいるのはなに?っていうこと。
    ここんとこは、後で見てくことにする。

引用返信/返信 削除キー/
■36130 / inTopicNo.81)  Re[79]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/11(Thu) 18:55:11)
    No36093のように見られたのは、
    No36015の(2)の次のようなところから。

    (t)〔広義の想像には二種類ある。すなわちここで取り上げる端的な想像(狭義の想像)と知覚を基底にもつ「像意識」とである。狭義の想像は、知覚が感覚与件を内容とするのに対し、感覚の変様態であるファンタスマを内容にして、その上に想像・像(想像対象)を構成していて、二層的であるのに対し、後者では最下底に知覚の対象たる物理的像があり、それに基づけられて、物理的像の変様した像客体が現出し、それをアナロゴンとして像主体(想像・像に対応する)が呈示されてくる。両者は想像・像の構成に向かう二つのまったく異なるありかただといえよう。
     狭義の想像とは、対象を意識に自己現前するselbstgegenwärtigen)ものとして表象する知覚に対して、「像のうちに対象を準現在化する(vergegenwärtigen)」働きのことをいう。後者の性格は、記憶(erimmerung)や期待(Erwartung)もまた共有するところであるが、記憶が対象をつかってあったと定立し、期待が対象を将来あるだろうとして定立するのに対し、想像は対象を非定立のまま保持しつづける。また対象が現前しないがゆえに、想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない。〕

    ここんとこ、何度読み返しても、いまだにわたしよくわかんない。

    あと、
    (u)〔想像は存在定立の排去を自然的遂行された知覚のことであるといえる〕
    っていうのもあった。

    No36053で見たように
    (B)二種類の想像が考えられている。
    っていうことなんだと思うけど。
    ここでは、
    @端的な想像(狭義の想像)
    A知覚を基底にもつ「像意識」
    の二種類っていうことかな?
    〔物理的像〕っていうのは知覚に関係する像なのかな?
    〔想像・像〕?〔感覚の変様態であるファンタスマ〕?〔記憶・期待〕?〔準現在化〕?〔想像は対象を非定立のまま保持しつづける〕?〔想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない〕?

    ああ〜、よくわかんない。
    でも、いちおう書いとく。

引用返信/返信 削除キー/
■36131 / inTopicNo.82)  Re[80]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/11(Thu) 19:02:37)
    No36130に出てくる「ファンタスマ」、「準現在化」について、【「現象学事典」弘文堂2014】にあるので、書き写して見る。
    全部はまずいかもないので、一部だけ。アキュートアクセントは省略しときます。

    ファンタスマ [(独)Phantasuma] 
    〔知覚においてその体験された内容が感覚と呼ばれるのに対して、想像における内容はファンタスマと呼ばれる。感覚とファンタスマ、たとえば感覚音と音ファンタスマは、内容の面だけからみれば、同種類のものである。またわれわれは感覚とファンタスマを同時に体験することができる。たとえば楽譜を読み(視覚的感覚)ながら、メロディーを想像する(音ファンタスマ)という場合のように。・・・・・感覚を基盤とする知覚的対象とファンタスマを基盤とする想像対象とは統一することがない。・・・・感覚が実在性(Realitat)と現前(現在Ggenwart)を有するのに対して、ファンタスマは非現実性(Irrealitat)と空無性(Nichtigkeit)という性格をもつ。・・・・ファンタスマは内容的には現在的であるが、現在化しない対象を準現在化する(vergegenwartigen)ためにある。知覚において変様された再現体(たとえば記憶)において、「ファンタスマの現在的として妥当する働きは、それが非現在的として妥当する働きを前提にして」[Hu 23.165]はじめて可能である。〕

    現在化/準現在化/共現在化[(独)Gegenwartigung/Vergegenwartigung/Mitgegenwartigung]
    〔直観的表象作用はその統握形式に従って、大きく現在化と準現在化とに分けられる。現在化は対象が現に現れること、有体的(lebhaft)に現前していることを表し、知覚の志向的性格であるとされる。これに対して準現在化は記憶や想像や予期を規定し、現にない対象を思い浮かべる事態であり、この意味では、再生(Reproduction)や再現前化(Reprasentation)と同義である。・・・・・・・現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。たとえば家の知覚において、前面だけの現在化を、背後も内部も調度も住まう人も含む家そのものを構成する準現在化が支えているのである。この意味で共現在化は現在化と一体となった準現在化のことであり、知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。・・・。〕

    もう一つ、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注に、
    〔Vergegenwartigungその動詞形vergegenwartgenは、ふつうは「ありありと思い浮かべる」と訳される。しかし、ここではGegenwartgungに前つづりver-(ここでは「結果」の意)がついて形として使われているので、それとの関連も考えねばならない。そのため従来は、この対語Gegenwartgung-Vergegenwartgungに対して、「現表象―表象」(山本)、「根源的呈示―創造的呈示」(船橋)、「現在化―準現在化」(『現象学辞典』)という訳語が当てられてきた。本訳書では、gegenwartgenを「現前させる」とし、それに対してvergegenwartgenを「準現前させる」(つまり、「現前してはいないが、あたかも現前しているかのように、現在に準ずるようにさせる」の意)、その名詞形Vergegenwartigungを「準現前させること/働き」とした。この語でフッサールが考えているのは、過去に関わる「想起」、未来に関わる「予期」、非現実に関わる「想像」など、要するに、現在に関わる「知覚」の「変様」として、それに準じて変様された現在に関わる働きである。〕

    とりとめもなく、
    *現前するもの=現在=現実←知覚がかかわる。非現実性←想像がかかわる。
    *現前するもの(現在・現実)を現在化する知覚。現前(現在・現実)しないものを準現在化する想像。
    *端的な知覚によって見られている楽譜(現前するもの=現在)は物理的像として。そして現前(現在)してない(現にない対象を思い浮かべる)、想像されたメロディ。
    *感覚を基盤とする知覚的対象とファンタスマを基盤とする想像対象とは統一することがない。
    No36130の(t)あるような、〔想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない〕に似てる。
    *現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。
    *知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。
    「Apprasenz」って「apperception」(統覚)となんか似てる。

    なんかもっと簡単に見ることできないかな〜って、悩める悪魔ちゃん。

引用返信/返信 削除キー/
■36141 / inTopicNo.83)  Re[81]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/12(Fri) 18:57:52)
    No36015の(3)、「想像力」imagination
    これがわたしには分かりやすかったので、その一部を、

    (v)〔…再生産的想像力と創造的想像力に分けられる‥‥‥現象学は、知覚と想像とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なることを明らかにした。知覚は対象を現にここに存在するものとして定立するが、想像とは対象を無として定立し、現実を超え出る作用である。・・・・・・意識の非現実化する優れた作用である想像力は、現実世界との交通を遮断して、可能性の世界を開示する能力である。〕

    現象学における「想像」についての書き写しはこれでだいたい書けたかな。

    あ、もう一つ、コトバンクの「想像」、日本大百科全書のなかにあったのを、

    〔日常語では、現に存在する対象を欠いた表象を「想像」とよび、知覚から区別するが、哲学で用いられる「想像」も、一般に、「事物がそうあるようにではない仕方で事物を覚知する」働きとされる。ただし、西洋近代哲学では、ほぼ明確に「知解」intellectio(ラテン語)との対比において用いられ、たとえば、2点間を最短距離で結ぶ線や、四つの内角がすべて直角である平面図形という形の把握が「知解」であるのに対して、眼前にある知覚物としての机の端を直線として覚知したり、その机の上の本の表面を長方形として覚知する感性的経験を「想像」的という。またカントによれば、実体性や因果性は純粋悟性概念であるのに対して、それらを感性的現象の場面で具体化したもの、つまり「図式」は、想像力(構想力)の所産である。「想像」のこの種の用法も、「事物がそうあるようにではない……」という規定における「事物」を広義に解し、概念的なものまで含めるならば、一般の用法から逸脱するものではない。〕

    そろそろ、簡単に見る作業にとりかかろっかな。

引用返信/返信 削除キー/
■36142 / inTopicNo.84)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/12(Fri) 21:03:05)
    2024/01/12(Fri) 21:13:38 編集(投稿者)

    No36063に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんばんは

    > わたしの物語りおもしろくないかな〜?っていうか〜、メルポンの。
    > 『私が他者に対して抱くイメージに合わせるよう他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』
    > みたいなの、わたしいいと思うけど。

    自分もそこ、面白いと思ってた。時間なくて投稿しなかったけど。
    他にも良いと思ったところあったので、そのうち勝手に自トピにコピーさせてもらうと思います。

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -