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Re[67]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/31(Sun) 17:12:29)
| メルポンのに倣って、わたしの「意識」の分節、〈考性〉と〈感性〉っていう語での分節ができたところで、 つぎに、私の「意識」と「世界」との関係について考えてみたのね。
前に、「実在主義」と「観念主義」(これって意識と世界との関係性についての見方よね)について、 No26476で、 (1)〔事物が意識から独立してそれ自体で実在する〕のが「実在主義」 (2)〔外界の事物は意識の現象や所産だとする〕のが「観念主義」 ってして見て、なんかごちゃごちゃ書いてたみたいだけど、 いまはとっても簡単、
(A)〔私の外にある「それ」は、私の内で構成された〈それ〉になってる。〕
って、わたししてる。 〔外にある〕っていうのは「外界」とか「世界」、〔内で構成された〕っていうのは私の脳の活動によって生み出された「意識」ってしてる。 〔私の外〕っていう言い方は「世界内存在」っていうのとなんか矛盾してる感じがするけど、私の外にある「それ(ぞれ)」(外界、世界)によって私は囲まれてるって見るとそうでもないよね。
(A)って、観念主義に近いかもだけど、 でもね、 〈それ〉は、「それ」が前提になってるから、「それ」は存在する、ことを認めてることになるのね。 No35001の(k)に、『「つねに—すでに—そこに」あるわれわれの世界』ってある。【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかでメルポンは、(現象学は)『世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。』(p1)って言ってる。 ただ、〈それ〉は、「それ」“そのもの”じゃない、っていうことは言えるのね。だって〔私の内で構成された〈それ〉〕になちゃってるんだから。 カントの言うように「物自体」(それ自体がどんなものであるかは不可知――人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないこと――「もの」そのものは人間に“認識(正しく理解し判断)する”ことはできない――みたいな?でもね、カントの『純理』は、あくまでも「認識」についての、ってわたし見てるから、「意識」っていうことになるとちょっと話が変わってくると思うのね。
「知性的意識」「認識という理論的実践」「客観的な世界」「判断」「学的世界理解」「述語的」「知性によって理解された世界」「知的概念」っていう〈考性〉は、「世界」というものを、“対象として”見てるのかも。私の外に置いて客観的に見る、みたいな感じで。 「私を世界における(への)存在として露呈する」のばあい、私を世界の内に置いて私を見る、みたいな感じかな? No34934の(i)に『ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである』ように。
で、ここで、 No35646の(4)を見て見るね。 「客観的な世界」(認識による世界)に対(つい)して、「前客観的な世界」(認識先立つ世界)を〈知覚されたもの−感性〉ってしたとき、「客観的」に対して〈知覚されたもの〉を「主観的」ってすることはできないのね。だって、〈知覚されたもの〉は、〔私の外にあるもの〕だし、そういうのって「主観」とは言わないんじゃないかしら。「知性的意識」を「客観的」として見るとしても、「知覚的意識」はあくまでも「前客観的」なんだと思う。 ってすると、「主観」っていうの、どこにあるのかな?
今年のお喋りはここまでにしとく。
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