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Re[77]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/05(Sun) 10:56:29)
| わたしの物語りに戻りま〜す。
No34845で、現象学が視野のうちに入れてる(テーマとする)「世界」っていうの、わたしのなかでひとまず定まったんだけど、
No33337の、 『…人間は世界においてあり、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。‥‥』 と、 No34792の訳注は、同じところに書いてあったのでまとめとく。
(i)『‥‥知覚は、その上にあらゆる行為が浮かび上がる背景であり、行為はこれを前提といている。世界は、その構成法則を私が手中にもっているような、ひとつの対象ではない。世界は、私のあらゆる思惟と明瞭な知覚との自然的な場であり領野である。真理は単に「内的人間」*だけに「住まう」のではない。いやむしろ、内的人間などは存在しないのだ。人間は世界においてあり(訳注2)、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。私が常識の独断論、もしくは科学の独断論から出て、私自身に帰ってくるとき私が見出すのは、内在的真理の根源ではなくて、世界に委ねられた一つの主体(訳注3)なのである。‥‥』(『知覚の現象学』p6)
(*原注) 汝の内に帰れ、内的人間のなかにこそ真理は宿る―アウグスティヌス
(訳注2)は、 No34792のね。
(訳注3) 原語はun sujet voue au monde.このsujetは名詞であり、哲学用語として「主体」であるが、形容詞としてのsujet aには「・・・に隷属している」「・・・に従うべき」「・・・を免れがたい」という意味があり、こういう意味のニュアンスがメルロ=ポンティの主体概念にはまといついている。この点を考慮せずに単純にドイツ語のSubjektの訳語たる「主観」「主体」と同義にすると、「世界に委ねられた一つの主体」とは自己矛盾した概念になる。 (アキュートアクセントは省略してます)
ここんところ、わたしに思われたのは後で。
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