| 〈私〉という事実から導き出される「この世界が多世界解釈ではありえない」という帰結(反論)。
これを主張しているのはパニチェだけではなく、「意識の難問(物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのか?)」を提起したデヴィット・チャーマーズも指摘していた。
***** 以下、D.チャーマーズ著『意識する心』からの引用 *****
すなわち、どうして重なり合った脳の状態と結びつく心だけが、優先基底に即したその分野に対応するのか。なぜ、他の分解から生じる心がないのか、あるいは、それこそ重なり合った状態から生じる心がないのか。これは、ああいう規範的な分解を要するらしいエヴェレット本人のバージョンに対しては、理に適った反論である。(P.427)
私自身という単一の感じがどうして、他のどこかでなくこのランダムに選ばれた分岐を伝播していくのか。私自身がたどっていくと私が感じるこの分岐を選び出すランダムな選択の根底には、どんな法則があるのか。なぜ私の私自身という感じは、分岐したときに他の道をたどってできた他の私がもつ感じには付随していないのか。(P.429)
つまり、この領域にはいくつかの心があって、たまたまその一つが私なのだ、というのである。(P.431)
私はなぜ他の誰でもなくこの人物ということになるのかという、指標性そのものの謎としっかり結びついた難しい問いである。(P.432)
*************** 引用終わり ***************
上記は〈私〉を理解していない人にとっては分かりにくい反論だと思う。
タイムマシンで過去に遡り、自分が過去の自分を客観視するというシーンがある。 有名なところでは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のほぼラストにあたるワンシーン(若きブラウン博士の協力を得、落雷を電力源として過去から現在に戻ってきた主人公のマーティが、映画の冒頭シーンにあたる改造車デロリアンに乗り込むもう一人のマーティを目撃するというシチュエーション)
自分を客観視(客体視)している時点で、その対象は〈私〉ではなく他者の次元に成り下がっているということ。 つまり「実際にこの〈私〉の眼から世界を見ている」という事実がない「もう一人の私」が同一時空に存在していることになり、それは〈私〉ではありえないだろ、というパラドックス。
世界が分岐していたたら「実際にこの〈私〉の眼から多世界を見ている」ことになるが、実際に〈私〉は多世界を見ていないことから、多世界はありえないという主張。
ある意味において上記のD.チャーマーズによる反論は「意識の難問」と「意識の超難問(なぜ私は他の誰かでもなく、この私なのか?)」との接点ではある。
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