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No31759 の記事


■31759 / )  Re[20]: 非我と無我
□投稿者/ 時 -(2023/07/14(Fri) 12:07:53)
    パニチェさんへ。こんにちは。ご返信をありがとうございます。

    No31748に返信(パニチェさんの記事)

    > あともう少し質問させて下さい。

    了解しました。

    > 中村元先生の説明によれば(鵜呑みしているわけではないのですが、私はパーリ語が分からないので中村元先生の説明を元に理解しています)原始仏典では「諸法無我(sabbe dhamma anatta)」の“anattan”という語は名詞にも形容詞にも用いられているとのことで、非我の意味でも無我の意味でも使用されているとのことでした。

    > そして後世の中観派においてはアートマンの意味を「それ自体」や「自性」と解釈するようになり、そこから無我(anatman nairatmya)と表現するようになったとのことでした。

    先生の研究によると、歴史的にはそういう事だったのですね。私自身もパーリ語は、日本語訳としての文脈がおかしいかな?と感じるところだけを確認するために調べる程度ですので、全く読めませんし書けません。

    > 時さんが読まれている原始仏典では(パーリ語でも英訳、和訳でも)非我と無我は言葉として違う語として表現されていますか?

    日本語訳で非我や無我と訳されているのは、パーリでのanattaやanattatoのようです。非我は、常住のアートマンは我ではないという意味で非我と訳され、それゆえに常住の我はどこにもないという意味で無我と訳されているイメージがありますね。しかしどちらの語源も同じanattaやanattatoからの訳のようです。

    当時を想像しますと、バラモン教が全盛時だったと思います。現代でいうヒンドゥー教になるのでしょうか。歴史的事実は調べてはいませんので、はっきりとは認識できていないのですが、我の本質は常住なるアートマンであり、このアートマンとブラフマンは同一であるとか、ここからこの世には神(ブラフマン)しか存在しないという論に至ったとかなんとか、この辺りも一応は学んだのですが、言葉的には忘れました。しかし一時は私も神に対しての完全なる帰依、バクティを知らず知らずの内に2年ほど実践していたという事は覚えていますので、一応は、この世には神しか存在していないというお話は体感として理解しています。そして私が仏教を学ぶ切っ掛けになりましたのが、このバクティの結果としての境地、不二一元のアドヴァイタといわれる境地、ブラフマンのみが存在するという境地、、、あるとき、そこにはまだ無知が存在するのですよと、その神の処には、まだほころびのある可能性があることをある方からご指摘頂いたからです。昔話にはなりますが、神への完全なる帰依で問題のないブラフマンのみの世界を垣間見て、一安心していたその処には無知が存在する?、、これは、どういう事だろう?という思い、、ここからが仏教の何だろう?何故だろう?の始まりでした。

    この常住のアートマン(我)という思想の人々が、当時のバラモン教全盛時には、当然のことながら仏陀の周りには多くいたのでしょう。この常住なる我=アートマンを否定するために、仏陀は、論理的に非我(それは我に非ず)という事を説いていたものと思いますが。

    ですので、上記をお読みいただければ一応のご理解はいただけると思いますが、文法だ名詞だ形容詞だ、バガヴァッド・ギーターがどうの、歴史的事実だといった事は、学問的に学んではいないのですね。ですので上手く人に説明ができないものと思っています。当時は、宗教的儀式は全く抜きにした単純に神への帰依のみであり、次には単純に仏典を通読したというだけでの学問的ではない、個人的な理解と実践だけだったのです。今から思うと、相当単純な変わり者だと自身でも思います(笑)

    というわけで、アートマンが我である等、常住論の否定の可能性から仏教に入りましたので、最初から我=アートマンの否定で非我という表現は、基本的に確認も何もなくすんなりと入っていけたと思っています。

    > 非我と無我が区別されていても、区別されていなくても、文脈も含めて意味合い的にはどちらの言葉(言葉の意味)が多用されているでしょうか?(非我と無我のどちらが説かれていることが多いでしょうか?)
    > 分かる範囲で教えていただければ有難いです。

    実際は違うかもしれませんが、今までに持っているイメージでは、9対1くらいの比率で意味的には無我よりも非我が多いと感じます。語源が同じで、文脈による訳文の違いという意味でですが。ですので、一般に表現されている三法印や四法印の中の諸法無我という表現は、昔から何かしっくりと来ないイメージがあります。諸法非我ならば、しっくりときそうなのですが。

    それと蛇足ですが、多分仏陀が「私」があるとかないとかと表現しなかったのは、あるといえば常住論に、ないといえば断滅論に、それを聞いた当時の人々が迷妄の道に陥るからだと思います。つまりは、そのこと自体が涅槃や解脱に役に立たず、中道を外すという判断があったからだと思います。
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