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No31726 の記事


■31726 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/07/12(Wed) 04:34:12)
    パニチェさんへ。おはようございます。レスが遅くなり申し訳ありません。

    No31616

    > また機会があれば非我と無我についての時さんの見解を教えて下さい。

    苦とは、一言で表現しますと、五取蘊苦の事です。
    五蘊とは、過去であれ未来であれ、粗かろうが細かかろうが(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の事です。

    五取蘊とは、(色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の事で、〜の色あるものとなりたい。〜の感受あるものになりたい。〜の想あるあるものになりたい。〜の諸行あるものになりたい。〜の識あるものになりたい。という、五蘊に対する貪欲(渇愛)が取という事で、合わせて五取蘊です。五取蘊は、〜になりたいという渇愛が原因ですので、五蘊非我の教えで五蘊に戻りますが、五取蘊のままですと、ここに苦が生起し続けます。

    通常の我々は、「私」と「あなた」という二元の世界での認識等をしていますが、ここでいう「私」の状態が五取蘊の状態です。つまりは、私は将来〜になりたい等という思いがあると思いますが、ここに渇愛が潜んでいるという事です。

    色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさい。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、(渇愛を捨棄して)離れなさい。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。

    つまりは、我とは、五取蘊を指し、無我とは五蘊の事を指しています。

    では、仮に五取蘊の状態から五蘊に戻ったとして、その人物が「我は無我だ」「私は五蘊だ」というのはおかしな表現ですね。ですので、通常表だっては表現されません。そして、会話の際には、通常使われる表現の「私・我」という一人称単数の私を用いての会話となりますが、単純に二元の世界の人々が表現する私(五取蘊)とは違います。

    ですが、実際には、仏陀との会話、弟子同士の会話、弟子と異教徒との会話、全てで「私は〜」という一人称単数の私を用いての会話がなされていますが、特に仏陀や高位の弟子達の使う「私」には渇愛が存在していません。ですので、この場合には無我の境地での「私」になり、通常の弟子たちや異教徒の使う「私」は、五取蘊の状態だと理解しています。

    非我や無我のお話は、この辺りでいかがでしょうか。

    暑い日が続きますね。お体を大切になさってください。
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