□投稿者/ 時 -(2023/07/13(Thu) 00:08:22)
| 自己レスです。 ■No31726に返信(時さんの記事) > No31616 >>また機会があれば非我と無我についての時さんの見解を教えて下さい。
非我は、我に非ず。無我は、我は無い。説明となると難しいですね。もう一度挑戦です。
・苦とは一言で表現すると五取蘊です。 ・五蘊は、過去であれ将来であれ、粗かろうがが細かかろうが(色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊)の事です。 ・五取蘊は、五蘊とそれに対する貪欲(渇愛)が取ですので、合わせて五取蘊です。これは、〜の色あるものになりたいとか、〜の感受あるものになりたい等の渇愛がある状態で、私は存在する、この私が存在する、私は存在することになろう、私は存在しないことになろう等というのは、全て妄想ですと説かれます。
・通常の我々は、「私」と「あなた」という二元の世界での認識等をしていますが、ここでいう「私」の状態が五取蘊の状態です。つまりは、私は将来〜になりたい等という思いがあると思いますが、ここに渇愛が潜んでいるという事です。そしてこの状態と同時に、色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさいよ。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、離れなさいよ。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。つまりは、五取蘊の状態から渇愛(五蘊に対する貪欲)や妄想が取り除かれた状態が無我の状態だと理解しています。
・通常の我の状態とは、五取蘊の状態を指し、無我の状態とは、五蘊の状態の事を指しています。そして五取蘊の状態の時に、「それは、我のものに非ず、我に非ず」等(非我)という教えの理解によりその状態から離れることができれば、無我の状態になると思います。
例えば、甲子園出場にかけるこの熱い思い(想)は私のものです。という場合の思い(想)は、あなたのものではありませんから、離れなさいよ。という事です。
では、仮に五取蘊の状態から五蘊に戻ったとして、その人物が「我は無我だ」「私は五蘊だ」というのは、矛盾を引き起こしていますので、そのような表現はしません。といいますか、できません。ですので、通常表だっては区別がつきにくいと思いますが、会話の際には、通常使われる表現の「私・我」という一人称単数の私を用いての会話となりますが、一元の境地以上の人々が表現する私(無我)の状態というのは、単に二元の世界の人々が表現する通常の私(五取蘊)の状態ではなくて、同じ次元での表現ではありません。
ですので、実際には、仏陀と弟子の会話、弟子同士の会話、弟子と異教徒との会話、全てで「私は〜」という見かけ上の一人称単数の私を用いての会話がなされていますが、特に仏陀や高位の弟子達の使う「私」には渇愛や妄想等が存在していません。ですので、この場合には無我(五蘊)の境地での「私」になり、通常の弟子たちや異教徒の使う「私」は、五取蘊(苦)の状態だと理解しています。
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