TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No31625 の記事


■31625 / )  真言密教
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/08(Sat) 12:49:14)
    2023/07/08(Sat) 13:56:54 編集(投稿者)

    時さん、レスをありがとうございます。

    No31623に返信(時さんの記事)
    > 大乗仏教は、ほぼ知らないといってよいレベルなのですが、単純に、上記の現代日本の真言宗の僧侶は、何を基準として学ばれているのでしょうか?具体的な仏典軍の呼称とその仏典名を教えていただけますか?大量にあるのであれば、ざっとでもかまいません。
    > 一応ネットで調べてみますと、その真偽は別として、真言宗の経典一覧として、、
    > 「大日経(だいにちきょう)」
    > 「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」
    > 「蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)」
    > 「瑜祇経(ゆぎきょう)」
    > 「要略念珠経(ようりゃくねんじゅきょう)」

    私も全ての大乗仏典を知ってるわけでありませんので断言はできませんが、上記以外の密教経典としては空海が最澄に頼まれても貸し出さなかった有名な「理趣経(りしゅきょう)」があり、「大日経」「金剛頂経」と並ぶ密教の根本経典です。
    あと多くのダーラニーを含む「金光明経(こんこうみょうきょう)」などがあるようです。

    > といいますのも、その当時のインドで、梵我一如や不二一元といった東洋哲学的な思想があったのは一応大筋では理解しているのですが、当時の仏陀を中心とした教えの中には無かったはずの梵我一如という思想が、なぜ、現代の真言宗という大乗仏教の一つの宗派に色濃く残すようになったのかを知れるものなら知りたいのです。

    7世紀以後にインドで起こった新しいかたちの仏教が密教と名乗ったそうです。以下引用します。

    『仏教が栄えていたころの仏教教団は、王族貴族の支持や後援もありましたが、また富俗な商人の帰依にまつことがひじょうに多かったのです。したがって商業資本が衰えると、仏教教団の基盤も弱くなりました。反対に、農村で民衆のあいだにずっと根を下ろしていた草の根の宗教であるバラモン教ないしヒンドゥー教は少しも衰えず、むしろ仏教の衰退とともに優勢になっていきました。国王たちも、農村に住むバラモンたちの意見や要求に従わざるをえなくなっていきます。そこで仏教も、バラモン教ないしヒンドゥー教と妥協せざるをえなくなり、民間信仰をもとり入れた新しい仏教のかたちである密教を成立させたのです。・・中略・・・このような混淆はやがて仏教の堕落をひきおこし、また仏教はヒンドゥー教のうちに没入してしまうかたむきがありました。やがてミーマーンサー学派のクマーリラ(600─650年ころ)やヴェーダーンタ学派のシャンカラ(700─750年ころ)が出現して、仏教思想を激しく論難し、シヴァ教の行者たちも仏教教団を攻撃しました。このようになって仏教は何らかの対策をとらなければなくなり、すでに以前からみられる傾向ではありましたが、とくに7世紀以後には、ヒンドゥー教のうちの一つの流派であるタントラ教(タントリズム)と呼ばれる密教の教義体系を仏教もとり入れ、そこで独自の特徴をもった宗教体系が成立しました。これが真言密教と呼ばれているものです。(東京書籍刊現代語訳大乗仏典6『密教経典・他』よりの引用)』

    ヒンドゥー教の神々を護法神(天部)や明王として仏教に取り込んでいるのも上記の流れだと思います。
    インドで仏教よりもヒンドゥー教が優位になった理由としては、やはりカースト制度を支える思想的背景があったからだと思います。ご存じのように釈尊はスッタニパータで「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる」と説法していますし、仏弟子には世俗での階級や身分に関係なく平等に接し、自らは王族の身分を捨てていたことから、ある意味ではアンチカーストです。

    入唐した空海は32歳のときに中国密教第一の高僧恵果(けいか)を師と仰ぎ三か月後に奥義を極めたと認められ灌頂を受けたそうです。
    入唐以前にも学問として道教や神仙思想を学んでおり、修験道のように山野を遍歴していたとのことです。
返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -