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Re[11]: 原始仏典の「空」について
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□投稿者/ パニチェ -(2023/07/07(Fri) 21:26:32)
| 2023/07/07(Fri) 22:08:37 編集(投稿者)
時さん、こんばんは。丁寧なレスをありがとうございます。
■No31578に返信(時さんの記事)
> はい。議論は、私はあまり好まないのですね。お話合い程度という認識ならば了解しました。
ありがとうございます。私も感じたところを思うがままに書いてみますので時さんの興味のないところはスルーしていただいても結構です。
> 世間と世界は同じlokoやlokamという単語の訳のようですので、文脈によって訳者が使い分けているのでしょうか。
そのようですね。世界に比べて世間というのは何か俗っぽい印象があります。
> 原始では、見解があると苦から解放されないと説かれます。理由は、そこに固執があるからだという事のようです。ですので、議論はしないとも説かれています。
なるほど。これ「思考が苦を生む」ということも含まれているのなら、ジッドゥ・クリシュナムルティをはじめとした現代の覚者による金言の先駆けです。 例えば三毒(貧欲・瞋恚・愚癡)にせよ、ぐあっと立ち上がることがあっても手を付けなければサラリと流れます。 こねくり回せば回すだけ三毒(貧欲・瞋恚・愚癡)は増幅してきますからね。 覚者と言っても無感情ではありえない。凡夫と違うところは全く後を引かずサラリと流れるところだそうです。
> パニチェさんが認識されている「空」は、恐らく龍樹の無自性空の空だと思いますが、違っているでしょうか?もしもそうであるならば、仏陀の没後に龍樹が説いたのが、無自性の空ですが。。違ってれば申し訳ないですが。
中論は何冊か読みました。めちゃめちゃ難解です。言い換えれば無数の読解があるかもしれません。 中村元先生の読解と西嶋和夫老師の解説書から理解したのは二義的な空です。 単体では無自性であるということ。また全てが連関する全体運動たる実相(相依性縁起)も空性と同義ということです。
> 死王は見ることがないというのは、多分、輪廻転生しない事と同義だと思います。ですので、死王が見れば、捕まって輪廻転生するという事だと思いました。 > ・自我に固執する見解をうち破って・・自我に固執するというのは有身の状態です。それに固執する見解を持っていると有身見という事で、滅尽すべきものを有しているという意味で好ましくありません。でもここでは、これを打ち破ってですので、有身見の滅尽を目標にするという事で、梵行にはかなっていますね。
なるほど。得心しました。死王は見ることはないというのは解脱のことでしたか。ここを私は読み違えていたために違和感があったのでしょうね。
> ・世界を空なりと観ぜよ。・・下のレスの >2.調べたところパーリ仏典経蔵中部の・・の所の返信内容にも書きましたので、ご確認いただきたいのですが。 > 「世間・世界」を空(からっぽ)と観ぜよ。という事は、空(からっぽ)ならざるものが空(からっぽ)ならざるものとして存在しているという事になりますね。それが「空性(からっぽ)ならざる出世間」という解釈ができそうですが。
なるほど。「空(からっぽ)ならざるものが空(からっぽ)ならざるものとして存在している」の発展形が大乗の一実相印の諸法実相かもしれません。
> スッタニパータの一文の辻褄を、過去にこれだけ考えたことは在りませんでした。
丁寧な返信をありがとうございます。
>>1.上記の「空」はパーリ語では 「スンニャ」 (sunna)となっているのでしょうか?大乗仏教の根本思想である「空」と同じ原語ですか?
> 原始を調べましたところ、sunnatoでした。意味は、空無の、空なる、空のようです。他の経典では、sunnaも使われているようです。 > 大乗仏教の空といいますと、龍樹の中論の空のことですね?無自性空や八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の空の事ですね?この語源は、私にはわかりません。 > しかし恐らくですが、大乗の空は、無自性空(くう)で原始の空は空(からっぽ=何もない)という意味に理解していますが、発音的にはどちらも「くう」ですね。
sunnaであれば、やはり大乗の空と同じです。
>>2.調べたところパーリ仏典経蔵中部の『小空性経』や『大空性経』でも空が説かれているとのことでしたがやはり世界が空であることが説かれているのでしょうか? > 原始の中での空という漢字は、空(からっぽ)の意味で使われている様ですね。小空経の場合は、世界がというよりも、瞑想中の事象として、例えば、林の中で独り瞑想しているときに「人、林、地」について、「今、人想については空である」と了知し、「今、林の想についても空である」と了知し、「しかしこれだけは空性ならざるものとして存在している。すなわち、この地想に関する単一性が」と言った具合です。
> この場合には、「人、林、地」の3つの対象について、今は「地」のみに焦点を当てているために、他(人、林)は、空(からっぽ)で、そこに唯一存在している(単一性の)ものが「空性(からっぽ)ならざる地想」です。という事だと理解しています。
> そしてその空(からっぽ)の使われ方ですが、「そこに存在しないものを空とみなし、そこにまだ残存しているものを、これは存在しているとみなす」という。空と存在のあり方のようですね。
> ですので、上記の次に空無辺処という処に移行した瞑想の場合には、「人、林、地、空無辺処」の4つの対象について、「空無辺処」のみに焦点を当てているために、他(人、林、地)は、空(からっぽ)で、そこに唯一存在している(単一性の)ものが「空性(からっぽ)ならざる空無辺処」です。となるようです。
> その理由は、例えば「人、林、地、空無辺処」という順番の場合には、「人」から「空無辺処」に移行するにしたがって、煩わしさが少なくなっていくという事で、「林の想」に焦点を当てた場合には、今まであった「人の想」の煩わしさは、ここ(林の想)ではなくなっているという事で、「この人想についての想類(煩わしさ)は、林想について空(からっぽ)である」と表現されているようです。
なるほど。
>>またこれ以外にも原始仏典で空は説かれているのでしょうか?もし説かれているとすればどのような内容でしょうか?
> 原始で空という表現があった場合には、空(からっぽ、空無)という意味で解釈されれば、うまく行くように思います。原始で空が特に説かれているのは、、これら以外には、特に記憶にありません。
ありがとうございます。
>>3.私は、自己を空なりと達観することによって「私の苦しみ」つまり「苦しむ私(主体)」が空であるから自ずと「私の苦しみ」が滅却する、あるいは「苦しむ無常なる私(主体)」は実相(あるがまま)である世界と合一する存在であるが故に「無常なる私」は「私の苦」とともに消え失せると理解しています。前者は禅的な発想で後者は密教やアドヴァイタ的発想ですが。。。 >>上記の釈尊の答えは「世界が空なりと達観することによって死苦が滅却する」ということでしょうか?
> 上記は、大乗の思想と梵我一如の思想でしょうか。詳しくは忘れましたが。 そうです。入我我入や三密など、密教(真言宗)はヴェーダーンタ学派の梵我一如を色濃く残しています。
> ですので「世界が空なりと達観することによって死苦が滅却する」ということではありません。
分かりました。
> 解脱→自由の境地→死の縛りの滅尽→次生の原因の滅尽→輪廻の終焉。という図式になるでしょうか。 > アドヴァイタも過去に少し読みましたが、忘れてしまっています。パニチェさんが仰っているのは、多分、龍樹の空の境地の事ですね?もしもそうであるならば、仏陀の説いた瞑想の境地である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)というもので表現しますと、非想非非想処だと私は理解しています。 > つまり、不苦不楽の境地であり、この世では最も高い境地(有頂天)ですね。しかしもしもここであるならば、仏陀曰くのまだ有身、有漏なのですね。つまりは、まだ此岸で彼岸に達していないとなります。
大乗にも有余涅槃と無余涅槃、さらに無住処涅槃があります。
> 少し分析してみます。四句分別( @Aである。A非Aである。BAであり、非Aである。CAでなく、非Aでもない。)という概念があるのはご存じかもしれません。 > @とAは通常の二元での境地です。Bは、在ると無いの同時存在の境地で、不二一元の境地です。そしてここからが一元の境地です。Cは、在ると無いの同時非存在の境地で、不一不二の境地です。 > 仏陀の説いた「非想非非想処」は、四句分別のC(Aでなく、非Aでもない)に当たります。 > Aに「想」を代入してCに当てはめますと、非想(Aでなく)非非想(非Aでもない)という事で、合わせて、「非想非非想処」です。
はい。
> 龍樹の空(八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去))を分析しますと、 > ・不生不滅→不を非に便宜上変換します→非生非滅 > ・次に「生」と同じ地平で「滅」を変換すると、滅は「非生」になります。 > Aに「生」を代入してCに当てはめますと、非生(Aでなく)非非生(非Aでもない)という事で、合わせて「非生非非生」で「非想非非想」と同じ構造です。 > 最初に戻して、現在の「非」を「不」に変換しなおしますと「非生非非生」→「不生不不生」で、最後の2文字「〇〇〇不生」は「滅」を「生」と同じ地平で変換したものですので、これを「滅」に戻しますと、「不生不不生」→「不生不滅」となりますね。 > 後の、(不常不断・不一不異・不来不去)も同じ構造で、仏陀の表現した悲想非非想の境地という事が言えると思います。言語化できる最高の境地である、悲想非非想が後世の龍樹が説いた空の境地だと私は思っています。
なるほど。そういう解釈もあると思います。一方で龍樹菩薩は中論で言語の限界にも言及しています(中論全体が帰謬法を用いて言語にできないことを行間でもって指し示しているとも言えます)。 中論や大乗起信論、正法眼蔵などの論書を読んでいると著者は悟りを体得している(底が抜けている)ことは(底が抜けていない)私のような者でも分かります。
おそらく釈尊が体得した仏智というのは見性体験でもってシンクロするところが多々あるのだと思います。 さらに般若心経と金剛般若経を合わせて読むと六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)や八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)は先に述べたあるがままの実相たる全体運動(相依性縁起)つまり法(金剛般若経では如来、あるいは真諦)の特長をあらわしているという解釈も可能です。
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