TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■32967 / inTopicNo.13)  Re[27]: 自由意志
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/10(Sun) 10:25:23)
    2023/09/10(Sun) 11:22:26 編集(投稿者)

    おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。

    No32964に返信(田秋さんの記事)

    > >その一方で藤井聡太七冠が長考して指す1手のコンマ数秒前に無意識下での準備電位が記録されるんでしょうね。
    > リベットの実験は有名でそれを追認する実験も多くあります。これについて
    > 以下のようなサイトがありました。
    > 【「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果】
    > https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    > これは2016年の記事で、この研究結果の最後に
    > 『「つまるところ、生体的な脳の決断後には、われわれの自由意志が入り込む隙があるということだ。脳は、現在の問題を素早くインプットし、過去の記憶や経験により形成された配線を通して、決断としてアウトプットする。脳が経験した過去の全てを知り得たならば、予測することが可能だろう生体的判断は、「意識をもつわれわれ」によって拒否できるということだ。

    > 人の決断は、脳が用意する準備電位のなすがままではない。同チームは、これからより複雑な意思決定プロセスに関する研究を進める予定だという』
    > とあります。

    ベンジャミン・リベットは2005年に自身の実験を『マインドタイム』という書籍で考察してます。
    この書籍でもリベット自身は自由意志を否定しておらず「意識を伴う意図は、運動活動の約150ミリ秒前に確かに現れます。この(400ミリ秒前から150ミリ秒前までの)間、意識機能がプロセスに干渉する十分な時間が生じます。これが自発性のプロセスを引き起こす引きがねとなるのかもしれません。しかし、このことについての直接的な証拠はありません。しかし、何も行為が生じないよう、意識的な意志がプロセスを止めたり、拒否したりすることができることになるという証拠はあります。このような場合、自由意志がどの結果をコントロールすることができるのです。このことは、倫理体系が私たちに促していること、つまり実際に私たちは自分自身をコントロールするという行為ができる、という感覚と合致します。(同書P.233)」と主張しています。

    田秋さんがリンクされた実験は上記のリベットの主張を裏付けるために行われた実験ですが、この実験についても現時点でも議論の余地があり、未だ自由意志の有無については結論に至っていません。
    http://sciencetime.seesaa.net/article/432045588.html

    > >悲しいから脳が反応し神経伝達物質が分泌されるのではなく、脳が刺激に反応し神経伝達物質が分泌されるから悲しくなるということ、決してこの逆はありえないってのが現代脳科学の知見です。
    > これはジェームズ=ランゲ説のことですね。これについて検索してみると「〜説」、「〜仮説」というページが多いと思います。中身を読むとジェームズ=ランゲ説に反対する説もあり、今の所、本当はどうなのか決着は未だついていないという結論が多いようです。

    ジェームズ=ランゲ説ではないです。
    「神経伝達物質が分泌されるから悲しくなる」言い換えれば「感情は科学物質(神経伝達物質)である」というのは現代の脳科学の主流として認められている知見です。

    ジェームズ=ランゲ説は末梢の反応が悲しいと感じる中枢の働きに先行して生じるという仮説ですが、私が先のレスで述べたのは、悲しいという感情は脳(中枢神経&末梢神経)の特定部位が反応(反応、つまりニューロンが発火する時には必ず神経伝達物質が分泌されます)した結果生じるということで、決してこの逆ではないということです。

    > 基本的なところなのですが、どこまでを自分だと言えるのか?というのがよくわかりません。先の将棋の例で言うと、藤井さんが手を決める直前に無意識のうちに脳が反応している訳ですが、相手も同じ事が起こっているはずです。しかし、相手の脳の反応が藤井さんの差し手を決定することはないと思います。そう考えると脳の反応と指し手は必ず同一の人間内で結びついているといって良いと思います。そうならば脳と意志は自分であることを決めるという一連のプロセスの現れ方ではないかとも思うのです。脳が反応した時、既に意志決定はされているけれどもまだそれが意識に現れない、ゼロコンマ数秒後に意識にのぼり意志決定されたと認識する。こんなプロセスはありえないのでしょぅか???

    「脳と意志は自分であることを決めるという一連のプロセスの現れ方」というのは面白い発想だと思います。
    あと脳や身体を監視するプログラムが自己意識であるって説もありますね。

    ないはずのもの(空)を自己としてでっちあげては苦しんでいるというのが仏教ですが。。。(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■32966 / inTopicNo.14)  Re[27]: 自由意志
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/10(Sun) 09:53:50)
    おはようございます、時さん

    レスありがとうございます。

    自由意志があるかないか、本当の所はわかっていなようですね。で、ボクが考えるのはどちらの考え方の方が自分にとって楽で楽しいか?です。

    先の書き込みでも触れた漢検挑戦ですが、一応3級から始めて最終的には1級を目標としました。漢検の試験は年3回あります。3級、2級、準1級で1年経ちました。準1級で出題範囲が約3000字、1級は約6000字になります。このギャップはかなりのもので、1級の勉強を始める前に受ける用意に3年はかかるなあと思いました。

    当時はまだオーケストラに在籍中で親しい先輩も漢検に挑戦していました(この先輩に感化されたのもボクの漢検受験の動機の一つです)。1級の勉強を始めて1年半くらいたった頃、この先輩から「一緒に受けてみないか」と言われ自信はありませんでしたが受けてみることにしました。漢検の試験は200点満点で8割(160点)が合格ラインだったのですが、その時は142点で不合格でした。

    これは決して自由意志が何者かによって阻害されたのではないと思います。やりたいと思ったことが出来なかったことはいくらでもありますし、だからこそまた頑張ろうと思う訳です。それから1年勉強して再度挑戦することにしました。結果は164点でギリギリ合格できました。

    これを自分の意志で受験し一度落ち再度頑張って合格したと思うか、全ては最初から決まっていて(勿論努力するということもシナリオに含まれています)こうなったと思うかは考え方です。が、ボクとしては自分でやったと思う方が楽しいし、全ては自己責任ですから気が楽です。

    ===後日談===
    漢検マニアという方々がいて、1級に合格してもずっと1級を受け続けるのです。これには一理あり、漢字は奥が深いのです。1級に合格しても漢字をマスターしたという気持ちは全然沸いてきません。
    ボクも9割(180点)目指そうかという気持ちはありました。満点取った女子高生もいるそうです。しかし、ボクの場合、漢検の勉強していると他の事が一切できないのです。やりたいことはいっぱいあります。ということで漢字の勉強はひとまず措くことにしました。

    漢検1級合格から10年あまり経ちました。結果、漢字の能力は殆ど元の木阿弥状態になってしまいました・・・・(T_T)
引用返信/返信 削除キー/
■32964 / inTopicNo.15)  Re[26]: 自由意志
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/10(Sun) 08:53:07)
    おはようございます、パニチェさん

    レスありがとうございます。

    >その一方で藤井聡太七冠が長考して指す1手のコンマ数秒前に無意識下での準備電位が記録されるんでしょうね。
    リベットの実験は有名でそれを追認する実験も多くあります。これについて
    以下のようなサイトがありました。
    【「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果】
    https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    これは2016年の記事で、この研究結果の最後に
    『「つまるところ、生体的な脳の決断後には、われわれの自由意志が入り込む隙があるということだ。脳は、現在の問題を素早くインプットし、過去の記憶や経験により形成された配線を通して、決断としてアウトプットする。脳が経験した過去の全てを知り得たならば、予測することが可能だろう生体的判断は、「意識をもつわれわれ」によって拒否できるということだ。

    人の決断は、脳が用意する準備電位のなすがままではない。同チームは、これからより複雑な意思決定プロセスに関する研究を進める予定だという』
    とあります。

    この脳の準備電位について自分の感想を述べると、これは真面目な実験ですから事実であることは間違いないと思いますが、自分で準備電位を知覚できていないので、実感がありません。実感がないと知識としての理解以上にはなかなか進みません(宇宙の物質の殆どがダークマターとダークエネルギーなのだの理解のような)。


    >悲しいから脳が反応し神経伝達物質が分泌されるのではなく、脳が刺激に反応し神経伝達物質が分泌されるから悲しくなるということ、決してこの逆はありえないってのが現代脳科学の知見です。
    これはジェームズ=ランゲ説のことですね。これについて検索してみると「〜説」、「〜仮説」というページが多いと思います。中身を読むとジェームズ=ランゲ説に反対する説もあり、今の所、本当はどうなのか決着は未だついていないという結論が多いようです。

    心理カウンセラー寝子の寝言
    https://psychologist-neco.com/correlation-between-mind-and-body/
    公認心理学
    https://kouninsinrigaku.com/sinrigaku/kisosinrigaku/ippansinrigaku/kanjou/

    その他ウィキペディア 表情フィードバック仮説 など

    これについては、例えば「笑う門には福来たる」のように納得出来ることがあります。
    ===
    基本的なところなのですが、どこまでを自分だと言えるのか?というのがよくわかりません。先の将棋の例で言うと、藤井さんが手を決める直前に無意識のうちに脳が反応している訳ですが、相手も同じ事が起こっているはずです。しかし、相手の脳の反応が藤井さんの差し手を決定することはないと思います。そう考えると脳の反応と指し手は必ず同一の人間内で結びついているといって良いと思います。そうならば脳と意志は自分であることを決めるという一連のプロセスの現れ方ではないかとも思うのです。脳が反応した時、既に意志決定はされているけれどもまだそれが意識に現れない、ゼロコンマ数秒後に意識にのぼり意志決定されたと認識する。こんなプロセスはありえないのでしょぅか???

    意識と意志との関係について
    西田幾多郎に『意識と意志』という著作があるようです。ボクは読んだことがないので、中身については全く知識がありませんが、興味をそそられるタイトルではあります。
引用返信/返信 削除キー/
■32945 / inTopicNo.16)  Re[25]: 自由意志
□投稿者/ 時 -(2023/09/09(Sat) 15:15:11)
    2023/09/09(Sat) 15:43:37 編集(投稿者)

    田秋さんへ。こんにちは。

    No32921に返信(田秋さんの記事)
    > 全く個人的な経験則なのですが、自由意志はあると思っています。あまりにも漢字が書けなくなって漢検に挑戦したとか、中卒という学歴(クラシック音楽業界では音楽[高校、大学]は学歴と認めていません)を解消するために放送大学の学位取得を目指すというのは、どう考えても自分の意志だと思います。

    > 多分哲学や宗教、脳科学などとはアプローチの方法が全く異なっているのだと思います。

    > 将棋界では、藤井聡太という棋士が信じられない勝率をあげ、今、タイトル8冠全制覇にチャレンジしています。彼が長考して指した1手、それを「彼の意志で指した手ではない」と言ってもあまり意味があるとは思えません。

    田秋さんのご認識は、了解しました。^^

    逆に私が自由意思について考えた直接の切っ掛けは忘れたのですが、例えばですが、自動販売機で「オレンジジュースが飲みたい」と思って、自由意志でその表示を押したつもりが、出てきたのが「ペプシコーラ」だったという事が気づきだしてからは割とあったのですね。勿論、たまたまかもしれませんし、大した問題ではないのですが。

    テーブルにきちんと置いたつもりのコップが、結果的に落下して割れてしまったとか。これも、たまたまかもしれませんし、大した問題ではないのですが。

    後は、十分に時間の余裕をもって乗ろうとしたバスに乗り遅れる結果となったとか。でしょうか。

    そんなある時、あれ?もしかしたら自由意志で選択したはずの”行為、行動”は、何も外界に起こる事とは確実な整合性が取れないのではないのか?と、思い出したのですね。

    勿論、自動販売機での飲み物の選択も、その通りのものが出ることや、置いたはずのコップは落下せずに置いたと思った場所にある場合が大半なのですが、どうも、なぜこのようなことが起こっているのかの真相を独り確かめたくなりました。(笑)

    自販機の場合には、業者の入れ間違いや押し間違い。コップの場合には、私の確認や注意不足。バスの場合には、その日はたまたまバスが早く来ていただけ。と、通常は気にも留めないことだと思います。

    そこで考えたのが、何か事が起こるというのは、風が吹いたとき木の葉が揺れるという、因果関係があるのだろうか?それとも、全ては偶発的に木の葉が揺れるという事が起こっているのだろうかという事です。これもまた、通常は気にも留めないことだと思います。

    もしも自然から生まれた他の動植物と同じく、人間と言う動物に、当たり前のごとくに自然の中での因果関係が関与しているのであれば、そこにはその人間の自由意志には無関係に事(オレンジ→ペプシ)は起こり続けますし、もしもそこには何も因果関係はなく無秩序に事(オレンジ→ペプシ)が起こり続けているのであれば、同じことになりますね。

    そこには、自らの自由意志というものは外部の結果に対して関与できないことになりそうだなぁと考えたのですね。ここでは、自らの周りの事が起こるという事が、人間には解明しきれない因果関係で起こり(必然)続けているのか?無秩序に起こり(偶然)続けているのか?見かけ上は、(オレンジ→ペプシ等)何も変わらないと思うのですが、なぜ?このようなことが起こるのか?を知りたかっただけなのですね。^^そしてこれを表現するのであれば、私の人生哲学の一つとなるのですね。

    例えば、何かの犯罪を犯した人が「私には自由意志がないのだから、罪はないんだ〜」と”罪を逃れられると思って”言ったとします。でもその行為(犯罪)は起こっています。そして逮捕した警官は「そうそう、私にも自由意志がないのだから、捕まえる義務等ないんだ〜」と言ったとしても、でもその行為(逮捕)は起こっています。各人の思いがどうであれ、起こることは起こり続け、起こらないことは起こらない。という簡単なお話のように今では感じています。

    田秋さんが、多分哲学や宗教、脳科学などとはアプローチの方法が全く異なっているのだと思います。と仰るように、何かに対するアプローチの方法の違いだと、私も思います。

    >彼が長考して指した1手、それを「彼の意志で指した手ではない」と言ってもあまり意味があるとは思えません。

    私はそのような事は言いませんが^^ でも、私はそれ(学問的哲学)を学んだことがないのですが、この自由意志の問題は、学問的な哲学の世界でもいまだに議論されているようなのですね。ですので通常の我々一般人は、そのようなことを考えること自体が無意味の一言で片づけても良いのかもしれませんね。

    私の個人的な事でいいますと、自由意志があろうとなかろうと、結果的に起こることは今までと同じようになりそうですので、どちらにも偏った見解の強固な主張としては持てないという事です。

    自由意志の問題も、独りで「あーかな?こうかな?」と、ただ考えていただけですので、そのあたり、お含みおき頂ければと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■32934 / inTopicNo.17)  Re[24]: 自由意志
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/09(Sat) 07:26:38)
    2023/09/09(Sat) 08:24:34 編集(投稿者)

    おはようございます、田秋さん。横レス失礼します。

    No32921に返信(田秋さんの記事)
    > 全く個人的な経験則なのですが、自由意志はあると思っています。あまりにも漢字が書けなくなって漢検に挑戦したとか、中卒という学歴(クラシック音楽業界では音楽[高校、大学]は学歴と認めていません)を解消するために放送大学の学位取得を目指すというのは、どう考えても自分の意志だと思います。

    > 多分哲学や宗教、脳科学などとはアプローチの方法が全く異なっているのだと思います。

    > 将棋界では、藤井聡太という棋士が信じられない勝率をあげ、今、タイトル8冠全制覇にチャレンジしています。彼が長考して指した1手、それを「彼の意志で指した手ではない」と言ってもあまり意味があるとは思えません。

    日常的な感覚、常識的に考えればその通りだと思いますし、自由意志を認めなければ個々人の道徳的責任や刑罰も成立しません。

    その一方で藤井聡太七冠が長考して指す1手のコンマ数秒前に無意識下での準備電位が記録されるんでしょうね。

    悲しいから脳が反応し神経伝達物質が分泌されるのではなく、脳が刺激に反応し神経伝達物質が分泌されるから悲しくなるということ、決してこの逆はありえないってのが現代脳科学の知見です。

    刑罰に関しても精神鑑定(これも正確かどうかの議論がありますが)の結果軽減されたち無罪になることがあります。
    もし仮に全ての行動が脊髄反射のようなもので選択の余地がないとすれば。。。

    ダニエル・デネットの言うように「忍びよる無罪証明の亡霊」が有効となるでしょう。
    「悪いのは彼ではなく彼の受け継いだ遺伝子や育った環境によって形成された脳の欠陥(頭部損傷:部位の委縮や神経伝達物質の過剰分泌やその逆等々)にある」という主張。
    これがまかり通るようになると社会秩序は保てないような気がします。

    実際、京アニ放火犯の裁判の行方がどうなるのか。。。。


引用返信/返信 削除キー/
■32929 / inTopicNo.18)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/08(Fri) 21:53:30)
    2023/09/09(Sat) 05:33:54 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No32917に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 何か、ややこしくなってきたな(笑)
    > とは言え、重要なので丁寧に考えますね。

    ありがとうございます。私も必要だと思うところを返信させてもらいますが興味がないところはスルーして下さい。
    また抜け落ちている返信箇所があれば遠慮なく指摘して下さい。

    > 大事なんで確認しますね。
    > 〈私〉は五感で捉えられない(知覚できない) → 〈私〉は知覚世界内に存在しない
    > ∽
    >  眼は視覚で捉えられない → 眼は視野(視覚世界)内に存在しない
    > このような類比関係が成り立つだろうということでいいですかね?

    はい。

    > ふむふむ。
    > じゃあ、眠っても、意識を失っても〈私〉はあるってことですか?
    > それともう一つ、座禅あるいは瞑想により、無心の状態、すなわち、いかなる思考も表象も消え去った状態になったとき、〈私〉はどうなるのでしょうか?
    > これについても、「分からない」ってことでしょうか?

    確証があるわけではないですが、おそらく。。。
    睡眠も意識を失っている状態も無心の状態も〈私〉がある(厳密には〈私〉があった)ということは、時間差でもって分かるのだと思います。
    何故なら、覚醒したり、意識が戻ったり、無心の状態から通常の状態に戻った後に、眠っていたのも、意識を失っていたのも、無心の状態にあったのも他の誰でもない〈私〉であったということが分かるからです。

    >>永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
    > そうですね。
    > ウィトゲンシュタインは、これを「T:5.631 思考し表象する主体は存在しない」の説明するモデルとしていると思います。
    > しかし、ウィトゲンシュタインは、けして思考し表象する主体が世界の限界に位置する、とは述べていません。
    > 「思考し表象する主体」を独我論的主体である〈私〉とみなし、それが世界の限界に位置するものであるというのは、いわば永井の勝手な解釈にすぎないと私は思います。

    永井氏がウィトゲンシュタインの眼の図を利用し、永井氏の独在論つまり〈私〉を形象化したということには同意します。
    詳しいレスは後にまとめます。

    > 実は、面白いことに、この永井とよく似たことは、ショーペンハウアーが言ってるんですよ。ハッカーからの孫引きになりますが、以前もたしか引用した文章を再掲します。
    > 「先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。」(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)
    > ね?似てると思いませんか?

    似てますね。ただショーペンハウアーが述べているのは万人に共通するところの自我や認識主観のことだと思います。

    >>ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    >>一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。
    > 実は、今回、一番驚いたのが、そして同時に腑に落ちない気がしたのが、ここ、特に後者だったんです。
    > というのも、私、前に書いたかどうかわからないんですが、私の永井批判の根本がこのことだからです。再掲しますが、永井はこう述べています。
    > 「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」

    > 図6の側面図など描き得ないというのが、写像理論=picture theoryの根本思想なのに、図5が『論考』の独我論の正しい形象化だと言うなんて、論外であると私は思うんですよ。
    > 根拠を、少し詳しく説明します。
    > 「思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できなければならない(したがって、思考不可能なことを思考できなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    > 写像理論によれば、思考することは絵(写生画)を描くこと(描画・モデル化)に等しいので、上の文は次のように解釈できるはずです。
    > 「描画(写像・モデル化)に限界を引くには、我々はその限界の両側の絵を描けなければならない(したがって、描画不可能なことを絵に描くことができなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    > もちろん、そんなことは不可能だから、言語において限界を引く、ということです。

    > にもかかわらず、永井の図5は、まさに思考し得ないはずの思考の限界=境界とその両側、そして思考し得ぬ独我論的私までを図の中に描いてしまっているわけです。
    > もし、この図5が独我論の正しい形象化(モデル化)なのであれば、独我論は語り得る(絵に描き得る)ことになってしまいます。
    > つまり、思考し得ぬことが思考し得ること、すなわち不可能なことが可能になってしまうわけですね。
    > しかし、言うまでもなくそれは不可能。
    > よって、図5は『論考』の独我論の正しい形象化ではありえない。

    > というのが私の見解です。
    > **************
    > 【編集追加】
    > 図6あるいはマッハ的光景は、私(自分)の視野を正しく描いたものである。
    > もし図5もまた私の視野を正しく描いたものであるのなら、私は自分の視野の内と外の両側をともに眺め得る視点に立つことが可能であることになる。
    > だが、そんなことは不可能である。
    > ******************
    > 腑に落ちないのは、もしパニチェさんの考えが私と同じようなものなのであれば、
    > 永井の思想に共感することなどありえないはず、と思われることなんですね。
    > ところが実際には、確かによく似たことを言ってらっしゃるようにも思えますしね。
    > このへん、どう考えていらっしゃるのでしょうか?

    > ちょっと調子に乗って長々少し細かいことを述べたので、いちいちのコメントは難しいかもしれませんし、少なくとも一つだけ、質問に答えていただきたく思います。
    > 質問:「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
    > という永井の発言に、パニチェさんは同意されますか、されませんか?

    以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。

    形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。

    まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。
    それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。

    では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか?
    これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。

    客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。
    「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか?
    だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。
    まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。

    > >>****************
    >>開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    >>そこから世界が開けているという意味での開闢です。
    > なるほど。
    > では、<私>を「世界開闢の特異点」と言うとき、いったいどういうモデルを念頭においているんでしょうか?
    > 永井の図5のようなモデルでしょうか?

    すみません、ここちょっと言葉尻を足らえての返信になりますがご容赦下さい。

    〈私〉はモデルではないんですね。そのまま、今ここにあるままの事実なんです。
    で、形象化すれば図5にはなりますが、そもそも客体化した時点で万人に共通する自我や認識主観になり下がって(変質して)元々の〈私〉ではなくなります。
    これは言語化による「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と同じです。

    ちなみに私が〈私〉を「世界開闢の特異点」という表現を用いたのは、ビッグバン宇宙論に登場する特異点と多々共通するところがあったからです。

    世界のどこにもない唯一無二であり、世界の開闢地点であり、物理の特異点は「大きさがゼロで密度無限大のため物理法則が通用しない点」であるのに対して。〈私〉の特異点はNo32693 で投稿した通り「科学(唯物論)の対象になりえない点」であること等々から特異点という表現を用いました。

引用返信/返信 削除キー/
■32921 / inTopicNo.19)  自由意志
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/07(Thu) 21:38:40)
    全く個人的な経験則なのですが、自由意志はあると思っています。あまりにも漢字が書けなくなって漢検に挑戦したとか、中卒という学歴(クラシック音楽業界では音楽[高校、大学]は学歴と認めていません)を解消するために放送大学の学位取得を目指すというのは、どう考えても自分の意志だと思います。

    多分哲学や宗教、脳科学などとはアプローチの方法が全く異なっているのだと思います。

    将棋界では、藤井聡太という棋士が信じられない勝率をあげ、今、タイトル8冠全制覇にチャレンジしています。彼が長考して指した1手、それを「彼の意志で指した手ではない」と言ってもあまり意味があるとは思えません。
引用返信/返信 削除キー/
■32917 / inTopicNo.20)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/07(Thu) 17:56:08)
    2023/09/08(Fri) 09:07:23 編集(投稿者)
    パニチェさん、こんばんは。
    思いがけず早いレス、ありがとうございます。

    No32894に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/06(Wed) 20:50:16 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは。ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    > 時間ができたので返信させてもらいます。
    >
    > ■No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。
    >>この作戦は成功だったかな?(笑)
    >
    > そうですね。^^
    >
    >>最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。
    >>ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑)
    >>で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^
    >
    > ザビビのふくろうさんが話しても相手する人がいない板なんて、宝が持ち腐れする場でしょう(笑)。
    > そんなところは捨て置いて、気が向かれた時には是非ニークラに投稿して下さい♪
    >

    ありがとうございます。
    ただ、最近はここ以外、ほとんど参加しているところはありません。
    一人でコネコネやっているので、だんだん煮詰まってくるんですよね。

    >>>>*****************
    >
    > >>一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。
    >>この「実在」は「実体」とも言えますか?
    >
    > 「実体」を「真に存在するもの(Wikipedia)」あるいは「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと(日本大百科全書〔ニッポニカ〕)」とするなら、そうです。
    >
    >>補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m
    >
    > 了解しました。
    >
    > >>まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    > >>バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    > >>触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。
    >
    >>そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。
    >>永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。
    >
    > ここなんですが、結論(帰結)的には私は同じことを述べていると解釈してます。
    > 先の説明は「〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。」ということですが、この結論としては「眼が眼自身をみれないことをもって、眼が視野の内部に存在しないのと同様に、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないことをもって〈私〉の存在が世界の内部にはない」ってことになります。
    >

    何か、ややこしくなってきたな(笑)
    とは言え、重要なので丁寧に考えますね。


    > ここ分かりしくいかもしれませんが視野=世界ではないんですね。
    > 視野の中に眼がなくても触感で捉える世界内には眼はあります。
    >

    これは了解しました。

    > 世界内にあるものは感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)の何れかで捉えることはできるが視野に限定した場合は視野世界には眼はない、何故なら「眼が眼自身を見ることができないから」ってことになります。
    >

    大事なんで確認しますね。

    〈私〉は五感で捉えられない(知覚できない) → 〈私〉は知覚世界内に存在しない

     眼は視覚で捉えられない → 眼は視野(視覚世界)内に存在しない

    このような類比関係が成り立つだろうということでいいですかね?


    >>そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?
    >
    > それはその通りですね。催眠術をかけられれば無いものが見え、匂うものがなくても匂います。
    > 感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)は騙すことができますが〈私〉は騙すことができません。
    >
    >>仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、
    >>「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    >>ということになりますね。
    >>これはどうでしょう?
    >
    > ここは未だ分かりません。
    > 私は弱い独我論支持ですから、世界なくして〈私〉があるのかどうかは、世界がなくなったことがないので分からないってことになります。
    >

    ふむふむ。
    じゃあ、眠っても、意識を失っても〈私〉はあるってことですか?
    それともう一つ、座禅あるいは瞑想により、無心の状態、すなわち、いかなる思考も表象も消え去った状態になったとき、〈私〉はどうなるのでしょうか?
    これについても、「分からない」ってことでしょうか?


    >>上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね?
    >>永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。
    >>確認しますと、
    >>T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。
    >>ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。
    >
    > 永井氏も眼が世界内にはないとしていることには同意しますが、ここは少し私の読解と異なる点があります。
    > まず永井氏はP28〜P29で図4〜図7を示しています。図5の左端の極点になるのは眼ではなく〈私〉になっています。

    ですが、永井自身が、その脚注*で「図5とはウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』5.6331の左図の、眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べていますよね。
    それに、パニチェさんの言い方だと世界の図であるはずの図6についても、「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。
    だから、眼が視野の限界にある図5によって、〈私〉が世界の限界にあるってことを示しているんじゃないでしょうか。
    つまり、永井による図5は、
    (『論考』の図の変形版である)眼と視野の関係を表した図5をモデルにして、〈私〉と世界の関係を表した、ということではありませんか。
    *****************
    【編集追加】
    さらにこう言い換えることもできるのではないでしょうか。
    永井によると、図5は目と視野の関係を正しく形象化した絵であるとも、<私>と世界の関係を正しく形象化した絵であるとも解釈できる。
    というふうに。
    *******************

    > で永井氏はP31にあるウィトゲンシュタインの図の解説*で「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。
    > 図6は添付した「マッハ的光景」と同じです。
    >

    そうですね。

    >>で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。
    >
    > すみません。上記の「〈私〉と視野との正しい形象化である」ってどこで述べていますか?
    >

    ああ、なるほど。パニチェさんはこのあたりの表現の正確さに注意を払っているわけですね。確かに無頓着でした。訂正しますね。
    正確には、同註*32頁のパニチェさんが引用された、「視野はもちろん図6のような形をしている」に続いて、「そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」と述べています。 
     ですから繰り返しになりますが、ウィトゲンシュタイン的な独我論の世界像として、図6と図5は〈私〉と世界の関係を正しく描出している、ということを述べていると言ってよいのではないでしょうか。


    >>それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。
    >
    > 永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。

    そうですね。
    ウィトゲンシュタインは、これを「T:5.631 思考し表象する主体は存在しない」の説明するモデルとしていると思います。
    しかし、ウィトゲンシュタインは、けして思考し表象する主体が世界の限界に位置する、とは述べていません。
    「思考し表象する主体」を独我論的主体である〈私〉とみなし、それが世界の限界に位置するものであるというのは、いわば永井の勝手な解釈にすぎないと私は思います。
    実は、面白いことに、この永井とよく似たことは、ショーペンハウアーが言ってるんですよ。ハッカーからの孫引きになりますが、以前もたしか引用した文章を再掲します。

    「先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。」(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)

    ね?似てると思いませんか?


    > 眼は視野内にはないが、世界内にはあるってことですよね?
    >

    それはその通りですが、ここではそのことは直接関係ないんではないですか?
    あくまで、眼:視野∽〈私〉:世界 を示すために「眼」は登場していると思うんですけどね。

    > ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    > 一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。
    >
    >

    実は、今回、一番驚いたのが、そして同時に腑に落ちない気がしたのが、ここ、特に後者だったんです。

    というのも、私、前に書いたかどうかわからないんですが、私の永井批判の根本がこのことだからです。再掲しますが、永井はこう述べています。
    「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」

    図6の側面図など描き得ないというのが、写像理論=picture theoryの根本思想なのに、図5が『論考』の独我論の正しい形象化だと言うなんて、論外であると私は思うんですよ。
    根拠を、少し詳しく説明します。

    「思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できなければならない(したがって、思考不可能なことを思考できなければならないことになる)」(『論考』序文より)

    写像理論によれば、思考することは絵(写生画)を描くこと(描画・モデル化)に等しいので、上の文は次のように解釈できるはずです。

    「描画(写像・モデル化)に限界を引くには、我々はその限界の両側の絵を描けなければならない(したがって、描画不可能なことを絵に描くことができなければならないことになる)」(『論考』序文より)

    もちろん、そんなことは不可能だから、言語において限界を引く、ということです。

    にもかかわらず、永井の図5は、まさに思考し得ないはずの思考の限界=境界とその両側、そして思考し得ぬ独我論的私までを図の中に描いてしまっているわけです。
    もし、この図5が独我論の正しい形象化(モデル化)なのであれば、独我論は語り得る(絵に描き得る)ことになってしまいます。
    つまり、思考し得ぬことが思考し得ること、すなわち不可能なことが可能になってしまうわけですね。
    しかし、言うまでもなくそれは不可能。
    よって、図5は『論考』の独我論の正しい形象化ではありえない。

    というのが私の見解です。
    **************
    【編集追加】
    図6あるいはマッハ的光景は、私(自分)の視野を正しく描いたものである。
    もし図5もまた私の視野を正しく描いたものであるのなら、私は自分の視野の内と外の両側をともに眺め得る視点に立つことが可能であることになる。
    だが、そんなことは不可能である。
    ******************
    腑に落ちないのは、もしパニチェさんの考えが私と同じようなものなのであれば、
    永井の思想に共感することなどありえないはず、と思われることなんですね。
    ところが実際には、確かによく似たことを言ってらっしゃるようにも思えますしね。
    このへん、どう考えていらっしゃるのでしょうか?

    ちょっと調子に乗って長々少し細かいことを述べたので、いちいちのコメントは難しいかもしれませんし、少なくとも一つだけ、質問に答えていただきたく思います。

    質問:「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
    という永井の発言に、パニチェさんは同意されますか、されませんか?


    >>****************
    >>あとですね、先ほどの
    >>「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    >>の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。
    >>つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。
    >
    >>パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。
    >>もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか?
    >>とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか?
    >
    > 開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    > そこから世界が開けているという意味での開闢です。
    >
    >
    なるほど。
    では、<私>を「世界開闢の特異点」と言うとき、いったいどういうモデルを念頭においているんでしょうか?
    永井の図5のようなモデルでしょうか?


    >>**************************
    >>以上、
    >>回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。
    >>それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m
    >
    > 全然、大丈夫です。
    >
    > ************************************
    >
    >>>>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    >>>>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。
    >
    > >>『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    > >>彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?
    >
    >
    >>え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか?
    >>私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。
    >>むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。
    >>いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。
    >>ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。
    >
    >>ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、
    >>『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。
    >>しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。
    >>しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。
    >>世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。
    >
    > ここも凄く面白い議論になりそうなのですが、このレス交換が一段落した後にしてもらえると嬉しいです。
    > 一つだけ確認させてもらうとザビビのふくろうさんは独我論という一元論でも我以外の存在、つまり神の存在が成立すると思われますか?
    >
    > この返事だけを聞いておいて議論は持ち越しになせてもらえたらラッキーです。
    >

    了解しました。
    しかし、この点に関しては、どれだけのこと言えるのか自信がないので、あまり期待してもらわないほうがいいかな(笑)

    長大なレスになってしまってすみません。
    適当に絞ってください。

1107×1035 => 600×560

1694176618.jpg
/43KB
引用返信/返信 削除キー/
■32894 / inTopicNo.21)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/06(Wed) 16:18:43)
    2023/09/06(Wed) 20:50:16 編集(投稿者)

    こんにちは。ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    時間ができたので返信させてもらいます。

    No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。
    > この作戦は成功だったかな?(笑)

    そうですね。^^

    > 最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。
    > ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑)
    > で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^

    ザビビのふくろうさんが話しても相手する人がいない板なんて、宝が持ち腐れする場でしょう(笑)。
    そんなところは捨て置いて、気が向かれた時には是非ニークラに投稿して下さい♪

    > >>*****************

    >>一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。
    > この「実在」は「実体」とも言えますか?

    「実体」を「真に存在するもの(Wikipedia)」あるいは「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと(日本大百科全書〔ニッポニカ〕)」とするなら、そうです。

    > 補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m

    了解しました。

    >>まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    >>バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    >>触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。

    > そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。
    > 永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。

    ここなんですが、結論(帰結)的には私は同じことを述べていると解釈してます。
    先の説明は「〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。」ということですが、この結論としては「眼が眼自身をみれないことをもって、眼が視野の内部に存在しないのと同様に、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないことをもって〈私〉の存在が世界の内部にはない」ってことになります。

    ここ分かりしくいかもしれませんが視野=世界ではないんですね。
    視野の中に眼がなくても触感で捉える世界内には眼はあります。

    世界内にあるものは感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)の何れかで捉えることはできるが視野に限定した場合は視野世界には眼はない、何故なら「眼が眼自身を見ることができないから」ってことになります。

    > そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?

    それはその通りですね。催眠術をかけられれば無いものが見え、匂うものがなくても匂います。
    感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)は騙すことができますが〈私〉は騙すことができません。

    > 仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、
    > 「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    > ということになりますね。
    > これはどうでしょう?

    ここは未だ分かりません。
    私は弱い独我論支持ですから、世界なくして〈私〉があるのかどうかは、世界がなくなったことがないので分からないってことになります。

    > 上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね?
    > 永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。
    > 確認しますと、
    > T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。
    > ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。

    永井氏も眼が世界内にはないとしていることには同意しますが、ここは少し私の読解と異なる点があります。
    まず永井氏はP28〜P29で図4〜図7を示しています。図5の左端の極点になるのは眼ではなく〈私〉になっています。
    で永井氏はP31にあるウィトゲンシュタインの図の解説*で「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。
    図6は添付した「マッハ的光景」と同じです。

    > で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。

    すみません。上記の「〈私〉と視野との正しい形象化である」ってどこで述べていますか?

    > それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。

    永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
    眼は視野内にはないが、世界内にはあるってことですよね?

    ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。


    > ****************
    > あとですね、先ほどの
    > 「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    > の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。
    > つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。

    > パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。
    > もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか?
    > とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか?

    開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    そこから世界が開けているという意味での開闢です。


    > **************************
    > 以上、
    > 回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。
    > それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m

    全然、大丈夫です。

    ************************************

    > >>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    > >>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。

    >>『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    >>彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?


    > え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか?
    > 私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。
    > むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。
    > いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。
    > ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。

    > ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、
    > 『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。
    > しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。
    > しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。
    > 世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。

    ここも凄く面白い議論になりそうなのですが、このレス交換が一段落した後にしてもらえると嬉しいです。
    一つだけ確認させてもらうとザビビのふくろうさんは独我論という一元論でも我以外の存在、つまり神の存在が成立すると思われますか?

    この返事だけを聞いておいて議論は持ち越しになせてもらえたらラッキーです。

225×270

1693984723.jpg
/18KB
引用返信/返信 削除キー/
■32880 / inTopicNo.22)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/05(Tue) 22:06:32)
    ここ、レスしようとして忘れていました。^^;

    No32847に返信(時さんの記事)
    > パニチェさんへ
    > ディオニュソスホールという事で、ご容赦を^^

    全然、大丈夫ですし、むしろこういうレス交換は大歓迎です。^^


    No32878に返信(時さんの記事)
    > 掲示板の管理人さんは大変な作業ですね。すみません。ご返信は不要です。後は、ザビビのふくろうさんとの哲学的なお話を楽しみにしています。m(__)m

    ニークラメンバーはほんといい人が集まってますから、管理人といっても普段は何もしてないですし、全然大変じゃないですよ。^^

    「よっちゃんとおままごと」も含め丁寧な返信を本当にありがとうございました。
    今後ともよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■32879 / inTopicNo.23)  よっちゃんとおままごと
□投稿者/ 時 -(2023/09/05(Tue) 21:45:00)
    例えば、幼稚園の砂場で、園児2人が場所の取り合いで争っていたとします。「ここは俺が最初に来たんだからお前は向こうへ行けー」「何よ!ここは昨日からよっちゃんと一緒に、おままごとをしていたんだからねー」と、多分2人の園児は真剣です。でもこの様子を大人が見ていた時には、怪我をしないように見守りつつ、声掛けをするとしたら「喧嘩しないで、仲良くねー」位でしょうか。

    ここで3つの発言があります。@「ここは俺が最初に来たんだからお前は向こうへ行けー」A「何よ!ここは昨日からよっちゃんと一緒に、おままごとをしていたんだからねー」B「喧嘩しないで、仲良くねー」の3つですが、これら全てが、二元の世界での表現になりますが、最後の一つだけは、同じ二元の世界での表現でも最初の2つとは違った次元になるでしょ?子供の視点ではない、大人の視点での物事の見方です。

    誤解を恐れずに表現するのであれば、私の理解では、通常のこの世は@とAの相対世界の二元の世界観です。しかしこの世の中には、二元の世界観の人ばかりではなく、たまに一元の世界観の人がいるのですね。東洋哲学の世界では、その境地を不二一元と表現しているようです。これは、@とAが争っていても、Bのように決して自らその争いに加わることはなく、その争いに対しても問題のない世界観の住人と言えるでしょうか。そして仮に巻き込まれたとしても、争わずにそれらを受け入れます。

    ですので、この世界での表現としては全て共通の言葉を使うのですが、不二一元の世界観の人の使う表現が、通常は二元の世界観の人には理解しにくくなると思います。丁度これは、大人の表現することが子供達には理解しにくいようにです。「俺の砂場だ」「私がおままごとを」と争っている園児に対して「仲良くね」をその意味合いとして理解しにくいのと同じ事だろうと思います。

    例えば「あなたはどこから来たのですか?」という問いに対して通常の二元の世界観の人同士であれば「札幌から、大阪から、久留米から来ましたー」で会話は成立しますが、一元の世界観のみの人ならば「私は、常にここにいます」といった具合になりそうです。それは、例え場所的に大阪や東京から現地に来ていようとです。

    変わったところでは「私は、あなたです」「一にして多」「生きながらにして死んでいます」等々、多くの表現を見かけたことがありますが、これらは全て不二一元の世界観での表現ですね。有名な人物でもこの境地なんだろうなぁと思われる方が、哲学者でも少なからずおられるように思います。

    そして、この不二一元よりも高い境地が不一不二の境地になります。この境地では、ほぼ二元の世界観の人との会話は成立しないでしょう。「ここにリンゴがありますね?」という問いかけに「それはあるのではなく、無いのでもない」「・・・」「では、何があるのですか?」という再度の問いには「何かがあるのではなく、ないのでもないのです。分かりませんか?」「・・・」となるでしょうか。取り合えずこういった方にであったのであれば、通常は、スルーがおすすめでしょう。(笑)延々問答をやっても、多分、二元の世界観の人が求める答えは得られません。しかしこの境地が、有の世界での最高の境地とされる有頂天という境地のようなのですね(笑)別呼称で、非想非非想処の境地です。龍樹の中論が難解だといわれるのは、このためだと思います。

    梵我一如は省きましたが、不二一元と不一不二の違いの私見での説明になりました。

    ご返信は、不要です。^^
引用返信/返信 削除キー/
■32878 / inTopicNo.24)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/05(Tue) 21:39:34)
    パニチェさんへ。こんばんは。レスをありがとうございます。

    No32876
    > そうですね。私の友人も「不二一元」と言ってました。
    > 梵我一如と不二一元というのはどこがどう違うんでしょう?

    ・梵我一如は、ブラフマン(宇宙の原理の梵)とアートマン(個人の中心の我)が同一だという思想の事で、これを究極的に進化させたのが、ブラフマンのみが実在だとする不二一元という境地の事ではないでしょうか。

    少し後の投稿で、そのあたりの事を書いてみたいと思います。

    > > ですので、パニチェさんのご友人のヨガによる涅槃志向も分からなくもありませんが、その涅槃と表現されている境地と、私が原始で学んだ涅槃の境地では、どちらが正しいとか間違いとかではなく、違った境地になるかと思います。

    > そうなんですね、正直私にはどこが違うのかよく分かりません。^^

    はい。分からない方が、人として正常かもです。^^

    > ここも正直なところ。。。
    > 「九次第定」でしたっけ?正直言って私にはよく分からないのです。十牛図はなんとなく分かるんですが。。。

    了解しました。十牛図も過去に少しだけ見た記憶はありますが、正しいと間違いとかではなくて、、原始にその表現がないというだけで、すみません、私は全く理解していません。九次第定は、原始の中で出てくる瞑想の各境地を現しているだけのものなのですね。

    掲示板の管理人さんは大変な作業ですね。すみません。ご返信は不要です。後は、ザビビのふくろうさんとの哲学的なお話を楽しみにしています。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -