□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/05(Tue) 11:16:50)
| 2023/09/05(Tue) 20:12:32 編集(投稿者) パニチェさん、こんにちは。 レスをありがとうございます。
■No32844に返信(パニチェさんの記事) > 2023/09/03(Sun) 16:49:56 編集(投稿者) > > こんにちは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。 > > ■No32842に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > >>え〜、前回少し触れましたが、 >>パニチェさんの学術用語の用法が一般と少しずれることがあるのと、こちらの理由がより大きいのですが、私の『論考』および映画『マトリックス』の解釈があまりに違うということもあって、ちょ〜どええ感じの刺激になるようなコメントをするのが、いろいろ考えたんですが難しいんですよね。 > > ちょ〜どええ感じでなくても構いませんから、次の返信では忌憚なくお願いします。 > >>それで今回は、主眼はパニチェさんの「弱い独我論」を理解することにおきます。 >>それでも、勘違いの可能性があると思いますので、違ってたらご指摘ください。 > > 了解しました。 >
適切な指摘をもらって、たすかりました。 >>その後、ひとつだけ、話を簡単にするため、永井の〈私〉=パニチェさんの〈私〉とあえて仮定して、私の疑念を述べます。ちょっとお茶を濁す感じになるかもしれませんがご容赦ください。 > > 大丈夫です。^^ >
違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。 この作戦は成功だったかな?(笑) >>前に言っていた『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んでいれば、もっと共通の土台が得られて話をしやすかったかもしれませんが、まだ読めていないんで、すみません。 >>またVRについてももう少し勉強したいと思っているので、また機会があればそのときにお願いします。 > > いつでもいいですから、もし飽きずに?呆れずに?(笑)完読できた際には、是非、ザビビのふくろうさんも感想をお聞かせ下さい。 > ちなみに私は『〈仏教3.0〉を哲学する』は6〜7割くらいしか消化?納得?できてません。 >
最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。 ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑) で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^
>>***************** >>「弱い独我論」をできるだけシンプルにとらえたいと思います。 > >>換骨奪胎して言うと、 >>【弱い独我論】 >>直接存在確信される、知覚の超越論的主体である〈私〉の存在と、世界内に存在し、知覚を通して間接認識される知覚対象(存在)の、両方の存在を認める。 >>しかし、 >>知覚存在については思考実験(デカルト的懐疑、水槽の中の脳、『マトリックス』)の検証結果として実在性の確証が得られない(仮象)ので、 >> 実在性の確証が得られる〈私〉の存在のみを実在とみなす考え。 > > 一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。 >
この「実在」は「実体」とも言えますか? >>【引っ掛かる点】 >>今回、私の質問に対して、 >>>自分の身体、眼、脳は(他者の身体、眼、脳と同じく)触覚(身根)や視覚(眼根)を通じてあることが分かりますから(2)ですね。 > >>という回答ですので、眼、脳は、知覚存在であり、世界内部存在であるということになりますね。 > > そうです。 > わかりました。 >>ですが、パニチェさんは、〈私〉の存在を世界の内部にはない存在とされており、その説明モデルとして眼を用いて説明されます。ちなみに、永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きますが、これ、パニチェさんも同じですよね。 > > あっ、少し違います。〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。 > > 「見られるもの」と「見るもの」があるとして、「見られるもの」は「見るもの」で見れますが、「見るもの」は「見るもの」では見れないように、「感覚」で「感覚の主体」であるところの〈私〉は捉えることができないという説明でしたが、あれだのレスではちょっと分かりにくかったですね。 >
なるほど。わかりました。 補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m
>>この説明モデルでは、眼は世界の内部存在ではないように思います。 > > あくまでも眼は世界内存在です。何故なら触覚でその存在を確認できる物質だからです。 > >>これは、映画『マトリックス』の説明モデルにおける、脳についても同様に思います。 >>ここでも脳(としての〈私〉)は、仮想世界の外部存在=実在とされていると思います。 > > まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。 > バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。 > 触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。 >
そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。 永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。
>>つまり要は、世界外部(超越論的)存在の〈私〉の説明モデルとして、世界内部存在である眼や脳を用いるのは、私としてはやはり、語り得ぬものを語り得るものとして語って(描いて)しまっているのでは、という疑念を抱かざるを得ないわけです。 > > 脳と眼は上記の理由によって語りえる物質となります。 >
わかりました。
そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?
仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、
「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
ということになりますね。 これはどうでしょう?
>>まあ、これはパニチェさんというより、正確には永井の『論考』解釈について私が思っていることで、今回は永井とパニチェさんの〈私〉を同じものとあえて仮定して述べましたが、パニチェさんは全く同じではないと言ってらっしゃるのは承知しています。ですので、的外れになっていたらすみません。そのへんは、また、ご指摘ください。 > > 大丈夫です。ちなみに永井氏やウィトゲンシュタインの眼の図も世界内に位置してますよね? > 下の図で言えば眼は世界内ですが〈私〉は眼のさらに左側、大きさを持たない点になると思います。 >
上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね? 永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。 確認しますと、 T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。 ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。 で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。 それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。 **************** あとですね、先ほどの 「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」 の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。 つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。
パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。 もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか? とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか? ************************** 以上、 回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。 それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m
>>【補足】 >> あと、質問Bで、他人の心の存在を肯定されたことは、少し驚きました。 > > そうですか。 > >>>ちなみに強い独我論者ってほとんどいないと思うんですがザビビのふくろうさんはどう思われますか? >>>強い独我論者なら(時さんのようなアドヴァイタ〔梵我一如の一元論〕を除いては)哲学を学んだり、議論したり、友人をもつことさえ意味をなさないと思うのですが。。。。 >>普通にはそうだと私も思います。ある意味、論外、何言ってんのこいつ、みたいな(笑) > > ですよね。 > >>ただ、最近、VR一元論みたいな考えに惹かれていて、ひょっとすると、これって強い独我論になるんじゃないかとも思うんですよね。 > > なるほど。 > >>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。 >>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。 > > 『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか? > 彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね? >
え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか? 私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。 むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。 いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。 ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。
ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、 『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。 しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。 しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。 世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。
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