□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/07(Thu) 17:56:08)
| 2023/09/08(Fri) 09:07:23 編集(投稿者) パニチェさん、こんばんは。 思いがけず早いレス、ありがとうございます。
■No32894に返信(パニチェさんの記事) > 2023/09/06(Wed) 20:50:16 編集(投稿者) > > こんにちは。ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。 > 時間ができたので返信させてもらいます。 > > ■No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > >>違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。 >>この作戦は成功だったかな?(笑) > > そうですね。^^ > >>最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。 >>ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑) >>で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^ > > ザビビのふくろうさんが話しても相手する人がいない板なんて、宝が持ち腐れする場でしょう(笑)。 > そんなところは捨て置いて、気が向かれた時には是非ニークラに投稿して下さい♪ >
ありがとうございます。 ただ、最近はここ以外、ほとんど参加しているところはありません。 一人でコネコネやっているので、だんだん煮詰まってくるんですよね。
>>>>***************** > > >>一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。 >>この「実在」は「実体」とも言えますか? > > 「実体」を「真に存在するもの(Wikipedia)」あるいは「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと(日本大百科全書〔ニッポニカ〕)」とするなら、そうです。 > >>補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m > > 了解しました。 > > >>まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。 > >>バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。 > >>触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。 > >>そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。 >>永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。 > > ここなんですが、結論(帰結)的には私は同じことを述べていると解釈してます。 > 先の説明は「〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。」ということですが、この結論としては「眼が眼自身をみれないことをもって、眼が視野の内部に存在しないのと同様に、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないことをもって〈私〉の存在が世界の内部にはない」ってことになります。 >
何か、ややこしくなってきたな(笑) とは言え、重要なので丁寧に考えますね。
> ここ分かりしくいかもしれませんが視野=世界ではないんですね。 > 視野の中に眼がなくても触感で捉える世界内には眼はあります。 >
これは了解しました。 > 世界内にあるものは感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)の何れかで捉えることはできるが視野に限定した場合は視野世界には眼はない、何故なら「眼が眼自身を見ることができないから」ってことになります。 >
大事なんで確認しますね。
〈私〉は五感で捉えられない(知覚できない) → 〈私〉は知覚世界内に存在しない ∽ 眼は視覚で捉えられない → 眼は視野(視覚世界)内に存在しない
このような類比関係が成り立つだろうということでいいですかね?
>>そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね? > > それはその通りですね。催眠術をかけられれば無いものが見え、匂うものがなくても匂います。 > 感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)は騙すことができますが〈私〉は騙すことができません。 > >>仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、 >>「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」 >>ということになりますね。 >>これはどうでしょう? > > ここは未だ分かりません。 > 私は弱い独我論支持ですから、世界なくして〈私〉があるのかどうかは、世界がなくなったことがないので分からないってことになります。 >
ふむふむ。 じゃあ、眠っても、意識を失っても〈私〉はあるってことですか? それともう一つ、座禅あるいは瞑想により、無心の状態、すなわち、いかなる思考も表象も消え去った状態になったとき、〈私〉はどうなるのでしょうか? これについても、「分からない」ってことでしょうか?
>>上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね? >>永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。 >>確認しますと、 >>T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。 >>ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。 > > 永井氏も眼が世界内にはないとしていることには同意しますが、ここは少し私の読解と異なる点があります。 > まず永井氏はP28〜P29で図4〜図7を示しています。図5の左端の極点になるのは眼ではなく〈私〉になっています。
ですが、永井自身が、その脚注*で「図5とはウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』5.6331の左図の、眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べていますよね。 それに、パニチェさんの言い方だと世界の図であるはずの図6についても、「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。 だから、眼が視野の限界にある図5によって、〈私〉が世界の限界にあるってことを示しているんじゃないでしょうか。 つまり、永井による図5は、 (『論考』の図の変形版である)眼と視野の関係を表した図5をモデルにして、〈私〉と世界の関係を表した、ということではありませんか。 ***************** 【編集追加】 さらにこう言い換えることもできるのではないでしょうか。 永井によると、図5は目と視野の関係を正しく形象化した絵であるとも、<私>と世界の関係を正しく形象化した絵であるとも解釈できる。 というふうに。 *******************
> で永井氏はP31にあるウィトゲンシュタインの図の解説*で「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。 > 図6は添付した「マッハ的光景」と同じです。 >
そうですね。
>>で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。 > > すみません。上記の「〈私〉と視野との正しい形象化である」ってどこで述べていますか? >
ああ、なるほど。パニチェさんはこのあたりの表現の正確さに注意を払っているわけですね。確かに無頓着でした。訂正しますね。 正確には、同註*32頁のパニチェさんが引用された、「視野はもちろん図6のような形をしている」に続いて、「そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」と述べています。 ですから繰り返しになりますが、ウィトゲンシュタイン的な独我論の世界像として、図6と図5は〈私〉と世界の関係を正しく描出している、ということを述べていると言ってよいのではないでしょうか。
>>それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。 > > 永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
そうですね。 ウィトゲンシュタインは、これを「T:5.631 思考し表象する主体は存在しない」の説明するモデルとしていると思います。 しかし、ウィトゲンシュタインは、けして思考し表象する主体が世界の限界に位置する、とは述べていません。 「思考し表象する主体」を独我論的主体である〈私〉とみなし、それが世界の限界に位置するものであるというのは、いわば永井の勝手な解釈にすぎないと私は思います。 実は、面白いことに、この永井とよく似たことは、ショーペンハウアーが言ってるんですよ。ハッカーからの孫引きになりますが、以前もたしか引用した文章を再掲します。
「先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。」(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)
ね?似てると思いませんか?
> 眼は視野内にはないが、世界内にはあるってことですよね? >
それはその通りですが、ここではそのことは直接関係ないんではないですか? あくまで、眼:視野∽〈私〉:世界 を示すために「眼」は登場していると思うんですけどね。
> ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。 > 一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。 > >
実は、今回、一番驚いたのが、そして同時に腑に落ちない気がしたのが、ここ、特に後者だったんです。
というのも、私、前に書いたかどうかわからないんですが、私の永井批判の根本がこのことだからです。再掲しますが、永井はこう述べています。 「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
図6の側面図など描き得ないというのが、写像理論=picture theoryの根本思想なのに、図5が『論考』の独我論の正しい形象化だと言うなんて、論外であると私は思うんですよ。 根拠を、少し詳しく説明します。
「思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できなければならない(したがって、思考不可能なことを思考できなければならないことになる)」(『論考』序文より)
写像理論によれば、思考することは絵(写生画)を描くこと(描画・モデル化)に等しいので、上の文は次のように解釈できるはずです。
「描画(写像・モデル化)に限界を引くには、我々はその限界の両側の絵を描けなければならない(したがって、描画不可能なことを絵に描くことができなければならないことになる)」(『論考』序文より)
もちろん、そんなことは不可能だから、言語において限界を引く、ということです。
にもかかわらず、永井の図5は、まさに思考し得ないはずの思考の限界=境界とその両側、そして思考し得ぬ独我論的私までを図の中に描いてしまっているわけです。 もし、この図5が独我論の正しい形象化(モデル化)なのであれば、独我論は語り得る(絵に描き得る)ことになってしまいます。 つまり、思考し得ぬことが思考し得ること、すなわち不可能なことが可能になってしまうわけですね。 しかし、言うまでもなくそれは不可能。 よって、図5は『論考』の独我論の正しい形象化ではありえない。
というのが私の見解です。 ************** 【編集追加】 図6あるいはマッハ的光景は、私(自分)の視野を正しく描いたものである。 もし図5もまた私の視野を正しく描いたものであるのなら、私は自分の視野の内と外の両側をともに眺め得る視点に立つことが可能であることになる。 だが、そんなことは不可能である。 ****************** 腑に落ちないのは、もしパニチェさんの考えが私と同じようなものなのであれば、 永井の思想に共感することなどありえないはず、と思われることなんですね。 ところが実際には、確かによく似たことを言ってらっしゃるようにも思えますしね。 このへん、どう考えていらっしゃるのでしょうか?
ちょっと調子に乗って長々少し細かいことを述べたので、いちいちのコメントは難しいかもしれませんし、少なくとも一つだけ、質問に答えていただきたく思います。
質問:「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」 という永井の発言に、パニチェさんは同意されますか、されませんか?
>>**************** >>あとですね、先ほどの >>「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」 >>の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。 >>つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。 > >>パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。 >>もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか? >>とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか? > > 開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。 > そこから世界が開けているという意味での開闢です。 > > なるほど。 では、<私>を「世界開闢の特異点」と言うとき、いったいどういうモデルを念頭においているんでしょうか? 永井の図5のようなモデルでしょうか?
>>************************** >>以上、 >>回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。 >>それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m > > 全然、大丈夫です。 > > ************************************ > >>>>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。 >>>>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。 > > >>『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか? > >>彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね? > > >>え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか? >>私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。 >>むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。 >>いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。 >>ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。 > >>ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、 >>『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。 >>しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。 >>しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。 >>世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。 > > ここも凄く面白い議論になりそうなのですが、このレス交換が一段落した後にしてもらえると嬉しいです。 > 一つだけ確認させてもらうとザビビのふくろうさんは独我論という一元論でも我以外の存在、つまり神の存在が成立すると思われますか? > > この返事だけを聞いておいて議論は持ち越しになせてもらえたらラッキーです。 >
了解しました。 しかし、この点に関しては、どれだけのこと言えるのか自信がないので、あまり期待してもらわないほうがいいかな(笑)
長大なレスになってしまってすみません。 適当に絞ってください。
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