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■32770 / inTopicNo.49)  時さんへ
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/08/31(Thu) 21:29:23)
    時さん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    No32765に返信(時さんの記事)
    > ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。
    >
    > No32764
    >>ああ、ふと思いついたんですが、この6-4とか7-3とかいう割合は、ひょっとすると、どちらの説を支持するかっていう心理的度合いのようなものでしょうか?
    >
    > はい。そうですね。言い換えますと、教えていただいた言語相対主義的な割合のとらえ方になりますね。
    >
    >>もしそうであれば、理論的立場としては不整合ということになりますし、やはり私としては関心がもてないって感じですね。
    >
    > ザビビのふくろうさんのご認識は、了解しました。私個人としては、あまり強固な理論的立場を取りませんので、これはこれでOKという事で。(笑)
    >
    >>少なくとも英語圏の哲学アカデミズムでは、主流は物理主義(唯物論)ということのようです。
    >>それと科学者がどう考えているのか実際はわかりませんが、あえて私見を述べますと、その人個人の考えはわからないとしても、科学という営みそのものが物理主義の立場を方法論の基礎とするものですから、少なくとも科学者としては物理主義である、ということになるのではないでしょうか?
    >
    > はい。そのように思えますね。
    >
    >>私の立場については、前述した言語相対主義的なとらえ方、つまり、唯物論(物理主義)的にも、観念論的(独我論的)にも捉えることは可能だとする立場が一応基本です。
    >
    > ここは、私と同じように感じました。実際に独我の世界に入り込むと、大変興味深い世界が広がりますしね。だからといって物理主義を完全に否定しているわけでもないのですが。ただ、そこから出て見渡してみると、そこには、(各人の自覚とは別に)多くのミクロコスモスの集まりがあり、それらが互いに影響を与えながら入れ替わり立ち替わりしている、まるで星が流れるクラインのツボのように見えたという記憶があります。^^
    >
    > それら多くのミクロコスモスが見えているという事は、これはマクロコスモスなのか?とかいろいろと考えていた時期もありましたが、でもまぁ、これも始まりも終わりもないようなマンデルブロ集合図のようなんだろうなぁと、ここでコスモス関係の妄想は、打ち切られました。(笑)
    >
    >>ただ、思い描かれる世界像としては、唯物論的世界像も観念論的世界像も、どちらが正しくてどちらかが間違いということはないと思いますが、
    >
    > はい。ですので、私個人は、絶対的唯物論や絶対的観念論の両者の言い分の理解はできても、そのどちらにも完全には賛同しきれないのですね。双方がやりあっても、アインシュタインとタゴールの対話の様になるだけでしょうから。ですので、今現在では、強いてというのであればあると思いますが、どちらかの論に完全に偏るというのは・・ないでしょうか。
    >
    >>「私にとってのリアル・リアリティー(現実)とは何か?」という問いの答えとしては、
    >>観念論的世界(ヴァーチャル・リアリティー)がすなわちリアル(現実)ではないか、と今のところ思っています。
    >>このあたりのロジックは勉強中です(笑)
    >
    > その答えが出て、またその機会がありましたら、そのロジックを是非ご教授ください。(笑)
    >
    >>まあそうです。
    >>ただ、偏るというより、そもそも他方を認めない、って感じですね。
    >>つまり、度合いではなく、0か100しかない、って感じです。
    >
    > ありがとうござます。了解しました。しかし私個人としては、通常の0か100の世界観はないですかね。
    >
    >>う〜ん、よくわかったとはいえませんが、
    >>私の上の言い方で言えば、
    >>時さんにとってのリアル(現実)とは四聖諦の問題であって、唯物論か観念論かっていうような哲学的問題は、どちらであろうが「何も問題ありません」ってことでしょうかね(笑)
    >
    > うーん、、よくわかりませんが、、苦のある世界観も現実であり、苦のない世界観も現実ですかね。(笑)
    >
    > 唯物論か観念論かという哲学的問題については、0-100の世界の答え探しだと思いますので、私の分野ではないですね。よって、どちらに転ぼうが、「問題はありません」ですね。(笑)
    >

    まあ、私の場合、思想の意義は真理か否かが基準(自分がどう思うか、ではなく)だから、論理的に両立不可能な絶対的唯物論と絶対的観念論は、0か100かしかないわけですが、
    時さんの場合、思想の意義は自分がどれだけ納得できるかという自分に基準を置いているので、そういう支持の度合いが考えられるんでしょうね。


    > 唯物論か観念論かという哲学的問題については、少しお話がややこしくなりそうですので、この機会に自由意志の有無についてザビビのふくろうさんにお尋ねしたいと思います。
    >

    なんと、今度は自由意志の問題ですか!?(笑)
    私には正直、まずもって時さんには、自由意志の有無なんて問題ではないんじゃないの?って思うのですが。
    仏教の実践に関係あると思えませんしね。


    > まずは、自由意志の定義を、他から束縛されず自らの責任において自発的に決定する意志。(広辞苑)とします。
    >
    > そこで考えたのが、この世の身の周りで起こる出来事の一切(雨が降る、傘を持って出かける、晴れてくる、傘を喫茶店で忘れてくる。ボールを右手で握る、振りかぶって投げる、思ったところにはいかずに家の窓ガラスを破る・・等々)は、因果関係による必然なのか?それとも偶発的に起こる偶然なのかといった事です。
    >
    > そのうえで、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係の中で起こる必然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続け、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係とは無関係に起こる偶然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続けるでしょう?
    >
    > 必然ならば、それは自由意志とは無関係に起こり続け、偶然ならば、それも自由意志とは無関係に起こり続けます。つまりは、この世界で起こり続ける出来事に自由意志は関与できません。そこには、ただただ、私には自由に決定する事ができるのだという思いがあるだけでしょう。仮にその思いの中での決定だけができるとしましょう。しかしこれは・・・この世界での出来事とは無関係なもので、そこにその思いがあるというだけです。この場合の思いとは、自由に決められる、決められないという”思いだけ”があるという事ですね。
    >
    > こう言った意味において、自由意志はある?ない?という哲学的問題について、自由意志はある!(唯物論だ)自由意志はない!(観念論だ)と偏っても、そこには意味がないという事で、今の私の答えは、どちらに転ぼうが「問題はありません」なのですね。(笑)
    >
    > 昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と表現したそうですが、それが「我思う、ゆえに思いあり」だったならば、現在の私でしたらその言葉の解釈として十分にしっくりと来たと思います。(笑)

    私にとっては、独我論はリアリティーのある問題だったので、それなりに勉強したり考えたりしてきましたが、自由意志問題はそれほどリアリティーを感じる問題ではありませんでした。
    もちろん、どうでもいいというわけではなく、それなりに一応自分自身の考えは持っていますが、考えに考えて出した答えというよりは、割とすなおに「これでいいんじゃね?」って思う立場を採っています。

    あまり詳しい議論は必要ないと思いますので、なるべく簡単に。
    私は、自由意志問題は時さんが述べられていることを含めて、大きく言って二つの間違った前提に基づいて生じていると考えています。

    一つは、決定論です。私は、因果的決定論であれ、意志決定論であれ、間違っていると思います。物理的現象は物理的法則に事実として従っていると言えるでしょうが、「したがわねばならない」という必然性はありません。同様に、意志に身体を必然化・強制する力はありません。

    もう一つは、意志(心)と身体(物)を別ものとみなす二元論です。
    この二つの前提から、たとえば行為を決定するのは意志か、物理的因果か、また、意志が行為を決定するとしたらそれはいかにしてか、といった疑似問題が生じていると思うわけです。

    確かに、私の手が私の意志した通りに上がったら、私が手を挙げたと普通言いますが、ここから心としての意志が、挙手の身体動作を決定・引き起こした、ということは帰結しないように思われますね。
    私の手が上がったのは、私がそう意志したがゆえなのか、すなわち私が手を挙げたのか、それともそれは思い込みで、実情は単に物理的因果に基づいて手が上がっただけなのではないのか?
    ですが、これは上述したように、決定論と二元論を採るがゆえに生じる疑問にすぎないと私は思います。
    次のように考えてみましょう。
    私(精神としての自己)は、私(身体としての自己)である。
    つまり、存在論的には同一(一元論)である。精神と身体は私の二側面である。私は精神的存在であり、同時に身体的存在である(当たり前でしょ?(笑))。
    そうすると、「私が手を挙げた」という主観記述した私の動作を、「私の手が上がった」と客観記述することもできるというだけの話、ということになります。
    どちらの記述が正しいというわけではありません。
    これで、「私が手を挙げた(上がらしめた)のか」それとも「(私の意志とは無関係に)私の手が上がっただけなのか」、いったいどちらが本当なのか、という疑問は解消します。
    また、こう考えれば、意志(心)と身体動作は無関係でもありません。
    意志(心)と身体(動作)をべつものとする二元論を採るから無関係にも思えるのです。

    以上を前提すれば、自由意志はあると言えます。
    もちろんここまで言うにはもう少し議論が必要ですが、自由意志にまつわる疑似問題の解消の議論をおおざっぱに説明したところでおしまいにしたいと思います。
    ***************************
    もちろん、提示した議論は、哲学の議論としては全く不十分なものにすぎませんし、十分に練って固まった見解でもないですが、
    一応現在における私の基本的立場はこんな感じだということで、私見についての説明は以上にしておきます。


引用返信/返信 削除キー/
■32769 / inTopicNo.50)  独我論は一元論か?
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/31(Thu) 20:27:26)
    2023/08/31(Thu) 23:05:38 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん、時さん。横レス失礼します。
    刺激を求めて私の思うところを書き散らしてみます。

    結論から言うと「独我論」は「人間原理」と同じく強弱があると思います。

    「強い独我論」というのは実在するのは「我」のみであり、他者も含めた物質や現象など他は全て「我」の意識内容に過ぎないとする立場。
    「強い独我論」は一元論という意味で観念論(主観一元論)や唯心論(唯識説)と同じ。


    「弱い独我論」というは「自他の境界認識があってこそ我が成立する」という確信から他の存在も認めるが、あくまでも我が基底であることから他の存在を同じ次元、あるいは同一フィールドとは見なさない立場。
    「弱い独我論」においても実在するのは我のみということは変わらないだろう。

    あと我を〈私〉とみなす独在論や〈私〉を真我とみなす真我論(アドヴァイタ)などなど、さまざまな類型があるように思う。

引用返信/返信 削除キー/
■32765 / inTopicNo.51)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/08/31(Thu) 12:42:58)
    ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32764
    > ああ、ふと思いついたんですが、この6-4とか7-3とかいう割合は、ひょっとすると、どちらの説を支持するかっていう心理的度合いのようなものでしょうか?

    はい。そうですね。言い換えますと、教えていただいた言語相対主義的な割合のとらえ方になりますね。

    > もしそうであれば、理論的立場としては不整合ということになりますし、やはり私としては関心がもてないって感じですね。

    ザビビのふくろうさんのご認識は、了解しました。私個人としては、あまり強固な理論的立場を取りませんので、これはこれでOKという事で。(笑)

    > 少なくとも英語圏の哲学アカデミズムでは、主流は物理主義(唯物論)ということのようです。
    > それと科学者がどう考えているのか実際はわかりませんが、あえて私見を述べますと、その人個人の考えはわからないとしても、科学という営みそのものが物理主義の立場を方法論の基礎とするものですから、少なくとも科学者としては物理主義である、ということになるのではないでしょうか?

    はい。そのように思えますね。

    > 私の立場については、前述した言語相対主義的なとらえ方、つまり、唯物論(物理主義)的にも、観念論的(独我論的)にも捉えることは可能だとする立場が一応基本です。

    ここは、私と同じように感じました。実際に独我の世界に入り込むと、大変興味深い世界が広がりますしね。だからといって物理主義を完全に否定しているわけでもないのですが。ただ、そこから出て見渡してみると、そこには、(各人の自覚とは別に)多くのミクロコスモスの集まりがあり、それらが互いに影響を与えながら入れ替わり立ち替わりしている、まるで星が流れるクラインのツボのように見えたという記憶があります。^^

    それら多くのミクロコスモスが見えているという事は、これはマクロコスモスなのか?とかいろいろと考えていた時期もありましたが、でもまぁ、これも始まりも終わりもないようなマンデルブロ集合図のようなんだろうなぁと、ここでコスモス関係の妄想は、打ち切られました。(笑)

    > ただ、思い描かれる世界像としては、唯物論的世界像も観念論的世界像も、どちらが正しくてどちらかが間違いということはないと思いますが、

    はい。ですので、私個人は、絶対的唯物論や絶対的観念論の両者の言い分の理解はできても、そのどちらにも完全には賛同しきれないのですね。双方がやりあっても、アインシュタインとタゴールの対話の様になるだけでしょうから。ですので、今現在では、強いてというのであればあると思いますが、どちらかの論に完全に偏るというのは・・ないでしょうか。

    > 「私にとってのリアル・リアリティー(現実)とは何か?」という問いの答えとしては、
    > 観念論的世界(ヴァーチャル・リアリティー)がすなわちリアル(現実)ではないか、と今のところ思っています。
    > このあたりのロジックは勉強中です(笑)

    その答えが出て、またその機会がありましたら、そのロジックを是非ご教授ください。(笑)

    > まあそうです。
    > ただ、偏るというより、そもそも他方を認めない、って感じですね。
    > つまり、度合いではなく、0か100しかない、って感じです。

    ありがとうござます。了解しました。しかし私個人としては、通常の0か100の世界観はないですかね。

    > う〜ん、よくわかったとはいえませんが、
    > 私の上の言い方で言えば、
    > 時さんにとってのリアル(現実)とは四聖諦の問題であって、唯物論か観念論かっていうような哲学的問題は、どちらであろうが「何も問題ありません」ってことでしょうかね(笑)

    うーん、、よくわかりませんが、、苦のある世界観も現実であり、苦のない世界観も現実ですかね。(笑)

    唯物論か観念論かという哲学的問題については、0-100の世界の答え探しだと思いますので、私の分野ではないですね。よって、どちらに転ぼうが、「問題はありません」ですね。(笑)

    唯物論か観念論かという哲学的問題については、少しお話がややこしくなりそうですので、この機会に自由意志の有無についてザビビのふくろうさんにお尋ねしたいと思います。

    まずは、自由意志の定義を、他から束縛されず自らの責任において自発的に決定する意志。(広辞苑)とします。

    そこで考えたのが、この世の身の周りで起こる出来事の一切(雨が降る、傘を持って出かける、晴れてくる、傘を喫茶店で忘れてくる。ボールを右手で握る、振りかぶって投げる、思ったところにはいかずに家の窓ガラスを破る・・等々)は、因果関係による必然なのか?それとも偶発的に起こる偶然なのかといった事です。

    そのうえで、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係の中で起こる必然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続け、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係とは無関係に起こる偶然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続けるでしょう?

    必然ならば、それは自由意志とは無関係に起こり続け、偶然ならば、それも自由意志とは無関係に起こり続けます。つまりは、この世界で起こり続ける出来事に自由意志は関与できません。そこには、ただただ、私には自由に決定する事ができるのだという思いがあるだけでしょう。仮にその思いの中での決定だけができるとしましょう。しかしこれは・・・この世界での出来事とは無関係なもので、そこにその思いがあるというだけです。この場合の思いとは、自由に決められる、決められないという”思いだけ”があるという事ですね。

    こう言った意味において、自由意志はある?ない?という哲学的問題について、自由意志はある!(唯物論だ)自由意志はない!(観念論だ)と偏っても、そこには意味がないという事で、今の私の答えは、どちらに転ぼうが「問題はありません」なのですね。(笑)

    昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と表現したそうですが、それが「我思う、ゆえに思いあり」だったならば、現在の私でしたらその言葉の解釈として十分にしっくりと来たと思います。(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■32764 / inTopicNo.52)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/08/31(Thu) 09:31:24)
    時さん、おはようございます。。
    レスをありがとうございます。


    No32763に返信(時さんの記事)
    > ザビビのふくろうさんへ。こんばんは。レスをありがとうございます。
    >
    > No32761
    >
    >>う〜ん、やはり私としては、唯物論というのは実在するのは100%物だけ、とする考えだと思いますので、7-3の唯物論者っていうのは、やはり、理解し難いですね。
    >>ご説明いただいたのに、すみません。
    >
    > うーん、そうですか、、了解しました。ちなみになのですが、ザビビのふくろうさんは、100%の唯物論者でしょうか?それとも、100%の観念論者でしょうか?私の場合は、どちらかといえば、観念論を指示していますので、6-4か7-3あたりでの観念論者という事になりそうですが。これが脳科学者であろうと他の科学者であろうとその比率は変化しても、その中間的な認識をする人が存在する、つまりは、同じようになるかなと思ったのですね。逆に言うと、100%の観念論者は存在するように感じますが、100%の唯物論者は存在するのでしょうか?と思ってしまいます。^^
    >

    ああ、ふと思いついたんですが、この6-4とか7-3とかいう割合は、ひょっとすると、どちらの説を支持するかっていう心理的度合いのようなものでしょうか?
    もしそうであれば、理論的立場としては不整合ということになりますし、やはり私としては関心がもてないって感じですね。

    少なくとも英語圏の哲学アカデミズムでは、主流は物理主義(唯物論)ということのようです。
    それと科学者がどう考えているのか実際はわかりませんが、あえて私見を述べますと、その人個人の考えはわからないとしても、科学という営みそのものが物理主義の立場を方法論の基礎とするものですから、少なくとも科学者としては物理主義である、ということになるのではないでしょうか?

    私の立場については、前述した言語相対主義的なとらえ方、つまり、唯物論(物理主義)的にも、観念論的(独我論的)にも捉えることは可能だとする立場が一応基本です。
    ただ、思い描かれる世界像としては、唯物論的世界像も観念論的世界像も、どちらが正しくてどちらかが間違いということはないと思いますが、
    「私にとってのリアル・リアリティー(現実)とは何か?」という問いの答えとしては、
    観念論的世界(ヴァーチャル・リアリティー)がすなわちリアル(現実)ではないか、と今のところ思っています。
    このあたりのロジックは勉強中です(笑)


    >>ただ、こういう絶対的観念論者、絶対的唯物論者ではなく、たとえば、言語相対主義的な観念論、唯物論というのであれば、考えられると思います。
    >>きわめてラフに言うと、要するに存在する世界は唯一同一として一元論をとりますが、その世界を現象言語(主観記述)で描出した世界像が観念論的世界、物理言語(科学的客観記述)で描出した世界像が唯物論的世界として、どちらの言語(記述)も可能だとみなす、といった立場です。
    >>まあ喩えるなら、一つの図形である反転図形が、異なった二つの絵として把握できるような感じ、と言えばわかりやすいでしょうか。
    >
    > なるほど。。言語相対主義というのを調べてみましたが、私には難しいですね。(笑)でも上記のご説明で、多分、私は言語相対主義的な観念論者なのだろうと想像しました。要は、観念論だ唯物論だとどちらかには偏らないという意味でですが。丁度、自由意思があろうとなかろうと同じ事だと言った意味合いでですが。
    >
    >>それに対して、絶対的観念論は、物理言語は現象言語に還元可能、絶対的唯物論は物理言語に現象言語は還元可能(消去可能)とし、どちらの立場も、いわば世界の実相を描出するのはどちらか一方の言語だと主張するわけです。
    >>(以上の説明は、分析哲学的な説明に寄っていますし、わかりやすくイメージをつかんでいただくためにおおざっぱで正確とは言えない説明となっていますので、ご了承ください。)
    >
    > 了解しました。毎回、ご丁寧なご説明を、ありがとうございます。m(__)m
    >
    > つまりは、絶対的観念論者と絶対的唯物論は、互いにどちらか一方に偏っての主張になるということですよね。
    >

    まあそうです。
    ただ、偏るというより、そもそも他方を認めない、って感じですね。
    つまり、度合いではなく、0か100しかない、って感じです。

    >>ところで、時さんの仏教的世界観では、どういう立場ということになるんでしょうか?
    >>さしつかえなければ、教えてください。
    >
    > 全く差支えはありませんが、私の理解している仏教は哲学ではないと思いますので、どうでしょう。。
    >
    > 私の仏教的世界観では、観念論とか唯物論とかではなくて、変化するものが存在するものですし、学びにより自らの苦に気づき、把握して、それを滅尽させるためだけの世界になるでしょうか。それを可能にするために、この世の一切を尊重せずに、最終的には、どのような見解をも持ちません。(笑)もしも何かを識別してしまうとそこには、多少なりとも偏った見解が生じますので、苦の滅尽が叶わないばかりか、最終的に解脱の妨げとなり、再度、輪廻転生してしまいます。ですので、現在において、やがては訪れるであろう私の肉体の死の直前に行うべきことというのは、把握しているつもりです。
    >
    > どういうのでしょうか。。相手が怒っていてもそれを受け取らない心の状態とか、その時々に自然に沸き起こる快不快等の感情を制御できるようになるとか、、なぜ識別しないことが輪廻しないことに繋がるのかとか・・無意識にでも貪ればどのようになるのかとか。学べなければ気づかないことだらけでした。
    >
    > そうですね。。漠然とした表現になりますが、私の仏教的世界観では、四聖諦(苦とは?苦の原因は?苦の滅尽とは?その方法は?)を学び実践するだけの立場という事になるでしょうか。お尋ねの内容とは噛み合っていないかもしれません。上手く表現できずにすみません。m(__)m

    う〜ん、よくわかったとはいえませんが、
    私の上の言い方で言えば、
    時さんにとってのリアル(現実)とは四聖諦の問題であって、唯物論か観念論かっていうような哲学的問題は、どちらであろうが「何も問題ありません」ってことでしょうかね(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■32763 / inTopicNo.53)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/08/31(Thu) 00:04:15)
    ザビビのふくろうさんへ。こんばんは。レスをありがとうございます。

    No32761

    > う〜ん、やはり私としては、唯物論というのは実在するのは100%物だけ、とする考えだと思いますので、7-3の唯物論者っていうのは、やはり、理解し難いですね。
    > ご説明いただいたのに、すみません。

    うーん、そうですか、、了解しました。ちなみになのですが、ザビビのふくろうさんは、100%の唯物論者でしょうか?それとも、100%の観念論者でしょうか?私の場合は、どちらかといえば、観念論を指示していますので、6-4か7-3あたりでの観念論者という事になりそうですが。これが脳科学者であろうと他の科学者であろうとその比率は変化しても、その中間的な認識をする人が存在する、つまりは、同じようになるかなと思ったのですね。逆に言うと、100%の観念論者は存在するように感じますが、100%の唯物論者は存在するのでしょうか?と思ってしまいます。^^

    > ただ、こういう絶対的観念論者、絶対的唯物論者ではなく、たとえば、言語相対主義的な観念論、唯物論というのであれば、考えられると思います。
    > きわめてラフに言うと、要するに存在する世界は唯一同一として一元論をとりますが、その世界を現象言語(主観記述)で描出した世界像が観念論的世界、物理言語(科学的客観記述)で描出した世界像が唯物論的世界として、どちらの言語(記述)も可能だとみなす、といった立場です。
    > まあ喩えるなら、一つの図形である反転図形が、異なった二つの絵として把握できるような感じ、と言えばわかりやすいでしょうか。

    なるほど。。言語相対主義というのを調べてみましたが、私には難しいですね。(笑)でも上記のご説明で、多分、私は言語相対主義的な観念論者なのだろうと想像しました。要は、観念論だ唯物論だとどちらかには偏らないという意味でですが。丁度、自由意思があろうとなかろうと同じ事だと言った意味合いでですが。

    > それに対して、絶対的観念論は、物理言語は現象言語に還元可能、絶対的唯物論は物理言語に現象言語は還元可能(消去可能)とし、どちらの立場も、いわば世界の実相を描出するのはどちらか一方の言語だと主張するわけです。
    > (以上の説明は、分析哲学的な説明に寄っていますし、わかりやすくイメージをつかんでいただくためにおおざっぱで正確とは言えない説明となっていますので、ご了承ください。)

    了解しました。毎回、ご丁寧なご説明を、ありがとうございます。m(__)m

    つまりは、絶対的観念論者と絶対的唯物論は、互いにどちらか一方に偏っての主張になるということですよね。

    > ところで、時さんの仏教的世界観では、どういう立場ということになるんでしょうか?
    > さしつかえなければ、教えてください。

    全く差支えはありませんが、私の理解している仏教は哲学ではないと思いますので、どうでしょう。。

    私の仏教的世界観では、観念論とか唯物論とかではなくて、変化するものが存在するものですし、学びにより自らの苦に気づき、把握して、それを滅尽させるためだけの世界になるでしょうか。それを可能にするために、この世の一切を尊重せずに、最終的には、どのような見解をも持ちません。(笑)もしも何かを識別してしまうとそこには、多少なりとも偏った見解が生じますので、苦の滅尽が叶わないばかりか、最終的に解脱の妨げとなり、再度、輪廻転生してしまいます。ですので、現在において、やがては訪れるであろう私の肉体の死の直前に行うべきことというのは、把握しているつもりです。

    どういうのでしょうか。。相手が怒っていてもそれを受け取らない心の状態とか、その時々に自然に沸き起こる快不快等の感情を制御できるようになるとか、、なぜ識別しないことが輪廻しないことに繋がるのかとか・・無意識にでも貪ればどのようになるのかとか。学べなければ気づかないことだらけでした。

    そうですね。。漠然とした表現になりますが、私の仏教的世界観では、四聖諦(苦とは?苦の原因は?苦の滅尽とは?その方法は?)を学び実践するだけの立場という事になるでしょうか。お尋ねの内容とは噛み合っていないかもしれません。上手く表現できずにすみません。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■32761 / inTopicNo.54)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/08/30(Wed) 22:37:01)
    時さん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。


    No32759に返信(時さんの記事)
    > ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。
    >
    > No32756
    >>時さんはこのように述べられていますが、
    >>私の認識では、
    >>唯物論の立場からは、観念論は物理的実在に還元消去可能な“心”を実体とし、逆に、真の実在である物理的現象を“心”に還元可能とする、主従転倒の誤った一元論である、とみなされるのではないかと思います。
    >
    > ザビビのふくろうさんのご指摘の通りだと思います。思いますが、、私の書きました唯物論者(脳科学者)の設定は、恐らくは、10-0のゴリゴリの唯物論者ではなくて、例えばの7-3や6-4の唯物論者(脳科学者)の感覚でエフニさんは書かれているのだろうなぁと言う想像であり可能性でのお話なのですね。書き方が雑ですみません。
    >
    > ゴリゴリの唯物論者10-0とゴリゴリの観念論者0-10では、多分、同じテーブルでのお話合いにもならないでしょう。ですので、ゴリゴリの唯物論者ならば、観念論は、主従転倒の誤った一元論である。となるかと思います。
    >
    > ですので、あの投稿文は、私個人の見解と言うよりも、、いや、私の見解は見解なのですが、エフニさんの書かれた内容で通る解釈をするのであればという可能性での投稿でした。
    >
    > もしも想定した脳科学者(唯物論者)が、例えば、その瞬間にでも7-3での唯物論者でしたら、唯物論者は唯物論者ではあるが、観念論も考慮に入れられるという事を考えたのですね。その視点では、基本が唯物論ではあるが、観念の世界を取り入れるとしても、それでもちょっと無理があるのではないか?と言う結論になるのかなと考えました。
    >
    >>脳科学にストレートに還元できないのは、独我論は心身二元論をとるからです。
    >
    > なぜならば、独我論(観念論)は、脳科学(7-3の唯物論)の視点で見ても、3-7の心身二元論になるので、脳科学(7-3の唯物論)にはストレートには還元できない。と、上記文書の「独我論は心身二元論をとる」という脳科学(7-3の唯物論)の視点で読んでみました。
    >
    > ですので、ザビビのふくろうさんと私との認識の相違は、唯物論者を10に見るか、7の可能性で見たかの違いだと思いました。
    >
    > 実際は、全く違うかもしれませんが。

    う〜ん、やはり私としては、唯物論というのは実在するのは100%物だけ、とする考えだと思いますので、7-3の唯物論者っていうのは、やはり、理解し難いですね。
    ご説明いただいたのに、すみません。

    ただ、こういう絶対的観念論者、絶対的唯物論者ではなく、たとえば、言語相対主義的な観念論、唯物論というのであれば、考えられると思います。
    きわめてラフに言うと、要するに存在する世界は唯一同一として一元論をとりますが、その世界を現象言語(主観記述)で描出した世界像が観念論的世界、物理言語(科学的客観記述)で描出した世界像が唯物論的世界として、どちらの言語(記述)も可能だとみなす、といった立場です。
    まあ喩えるなら、一つの図形である反転図形が、異なった二つの絵として把握できるような感じ、と言えばわかりやすいでしょうか。

    それに対して、絶対的観念論は、物理言語は現象言語に還元可能、絶対的唯物論は物理言語に現象言語は還元可能(消去可能)とし、どちらの立場も、いわば世界の実相を描出するのはどちらか一方の言語だと主張するわけです。
    (以上の説明は、分析哲学的な説明に寄っていますし、わかりやすくイメージをつかんでいただくためにおおざっぱで正確とは言えない説明となっていますので、ご了承ください。)
    *******************
    ところで、時さんの仏教的世界観では、どういう立場ということになるんでしょうか?
    さしつかえなければ、教えてください。

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■32759 / inTopicNo.55)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/08/30(Wed) 19:27:21)
    ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32756
    > 時さんはこのように述べられていますが、
    > 私の認識では、
    > 唯物論の立場からは、観念論は物理的実在に還元消去可能な“心”を実体とし、逆に、真の実在である物理的現象を“心”に還元可能とする、主従転倒の誤った一元論である、とみなされるのではないかと思います。

    ザビビのふくろうさんのご指摘の通りだと思います。思いますが、、私の書きました唯物論者(脳科学者)の設定は、恐らくは、10-0のゴリゴリの唯物論者ではなくて、例えばの7-3や6-4の唯物論者(脳科学者)の感覚でエフニさんは書かれているのだろうなぁと言う想像であり可能性でのお話なのですね。書き方が雑ですみません。

    ゴリゴリの唯物論者10-0とゴリゴリの観念論者0-10では、多分、同じテーブルでのお話合いにもならないでしょう。ですので、ゴリゴリの唯物論者ならば、観念論は、主従転倒の誤った一元論である。となるかと思います。

    ですので、あの投稿文は、私個人の見解と言うよりも、、いや、私の見解は見解なのですが、エフニさんの書かれた内容で通る解釈をするのであればという可能性での投稿でした。

    もしも想定した脳科学者(唯物論者)が、例えば、その瞬間にでも7-3での唯物論者でしたら、唯物論者は唯物論者ではあるが、観念論も考慮に入れられるという事を考えたのですね。その視点では、基本が唯物論ではあるが、観念の世界を取り入れるとしても、それでもちょっと無理があるのではないか?と言う結論になるのかなと考えました。

    > 脳科学にストレートに還元できないのは、独我論は心身二元論をとるからです。

    なぜならば、独我論(観念論)は、脳科学(7-3の唯物論)の視点で見ても、3-7の心身二元論になるので、脳科学(7-3の唯物論)にはストレートには還元できない。と、上記文書の「独我論は心身二元論をとる」という脳科学(7-3の唯物論)の視点で読んでみました。

    ですので、ザビビのふくろうさんと私との認識の相違は、唯物論者を10に見るか、7の可能性で見たかの違いだと思いました。

    実際は、全く違うかもしれませんが。
引用返信/返信 削除キー/
■32756 / inTopicNo.56)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/08/30(Wed) 17:13:29)
    時さん、レスをありがとうございます。
    エフニさんは私の投稿をスルーされておりますし、迷惑だったらいけませんので、こちらにレスさせてもらいます。
    また、エフニさんの考えが時さんの解釈通りか否かはわかりませんので、これには一切触れません。

    No32749
    □投稿者/ 時 -(2023/08/30(Wed) 01:36:35)
    こんばんは。横レス失礼します。
    **************************
    No32682
    >> 心身二元論をとると、精神としての自己の〈存在〉のみならず、それ以外の物理的事物の“存在”をも認めることになって、独我論にはなりえないんじゃないかと、私にはそう思われるのです。

    No32611
    >> 脳科学にストレートに還元できないのは、独我論は心身二元論をとるからです。
    >> 科学は物質一元論です。

    >独我論は、独我論支持者からの視点で見ると、観念論であり一元論でしょう。しかしこの独我論を科学の物質一元論者の視点で見ると、心は非物質であり脳は物質であるので、独我論は、(脳)科学にはストレートに還元できないという事を、エフニさんは仰っているのではないでしょうか。

    >ですので、科学(物質一元論)の視点で見ると、観念論である独我論は、非物質の分野になりますので、心と身体、心身二元論の立場で見るという事になり、脳のどこかからその独我論という観念は生じているのだろうけれど、うーん、、、という事で、(脳)科学には、ストレートには還元できないという事になるのでしょうか。

    >・独我論者の独我論は、観念であり、一元論。
    >・科学者の見る独我論は、観念であり非物質なので、科学で扱う物質と合わせて心身(非物質と物質)二元論。

    >もしかすると、独我論が脳科学にストレートに還元できないのは、非物質の観念(心)の世界の事だからです。でも、この際よいような気がしました。

    >全く違うかもしれませんが(笑)
    *****************

    時さんのおっしゃっていることを私が誤解していなければ、の話ですが、
    科学の物質一元論(唯物論)に関して、私と時さんでは認識の違いがあるように思います。

    >独我論は、独我論支持者からの視点で見ると、観念論であり一元論でしょう。しかしこの独我論を科学の物質一元論者の視点で見ると、心は非物質であり脳は物質である
    >科学(物質一元論)の視点で見ると、観念論である独我論は、非物質の分野になりますので、心と身体、心身二元論の立場で見るという事になり
    >・科学者の見る独我論は、観念であり非物質なので、科学で扱う物質と合わせて心身(非物質と物質)二元論。

    時さんはこのように述べられていますが、
    私の認識では、
    唯物論の立場からは、観念論は物理的実在に還元消去可能な“心”を実体とし、逆に、真の実在である物理的現象を“心”に還元可能とする、主従転倒の誤った一元論である、とみなされるのではないかと思います。

    簡単ですが、とりあえず、以上です。
    時さんの意図を捉え損ねていたらすみません、ご指摘ください。

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■32693 / inTopicNo.57)  〈私〉は脳の随伴現象に非ず
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/26(Sat) 07:57:36)
    〈私〉は一般化し意味を共有する言語の性質からして言語化不能である。

    且つ〈私〉は脳の随伴現象でありえない。
    〈私〉は唯物論を前提とした科学的対象にはなりえないところにその本質があるということ。

    科学の対象とは。。。
    1.計測可能であること。
    2.再現性があること。
    3. 同一条件のもとでは同様の性質・組織をもち、同様の変化をするということ(自然の斉一性)。

    〈私〉は計測不可能であり、再現性もなく、如何なる条件であっても同様の性質をもちえないし、同様の変化をしない。

    脳科学が進展すれば「意識の難問(Wikipedia:物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのか)」の方は創発論(意識の中身を物理的プロセスの結果と見なす新しい二元論)として記述できるかもしれない。

    ところが「意識の超難問(私は〈私〉であり、何故、他の誰かではないのか?)」は、脳科学が進展しようとも(唯物論を前提とした科学の定義であるかぎり)記述できないのが〈私〉の本質である。

    故にチューリングテスト(Wikipedia:ある機械が「人間的」かどうかを判定するためのテスト)に合格する電脳が作り出されたとしても、〈私〉を電脳で再現することは不可能である。

引用返信/返信 削除キー/
■32554 / inTopicNo.58)  ウパニシャッドと理趣経
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/19(Sat) 17:59:43)
    2023/08/19(Sat) 18:48:15 編集(投稿者)

    『男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である』と説かれる『理趣経』のルーツはウパニシャッドにあったのか!?

    ウパニシャッドはバラモン教の経典群であり、釈尊はバラモン教徒として出家した。原始仏教の土台はバラモン教にあり、おそらく釈尊自身はバラモン教の新派(教団)という意識しかなかったように思う。

    『理趣経』は年下である空海に弟子入りしてでも密教を修得したいという最澄が借用を願い出たが断られ、これ以降は二人の宗祖の交流が途絶えたという門外不出の経典。

    「愛欲も人間も与えられたままに本然のままに清浄と見なし肯定する」という『理趣経』は、密教の修行によって体得した境涯(入我我入観)なしに読み込むだけでは大きな誤解を生み出す禁断の経典であるため貸出を断ったが、最澄にはそれが伝わらなかったというもの。

    仏像ではガネーシャ(歓喜天)に象徴される。


    【「外界のいかなるものをも感知せず、また内面のいかなるものをも感知しない」というこの一節では、真の、純粋の知よりなるアートマンのうちに個人の生活が解消しまうことが、性的な愛欲の陶酔にたとえられている。これはインド後代の思想家たちが好んで用いた象徴的表現であるが、それはまた苦行とともに結びついている。なんとなれば、性的陶酔と苦行とは、異常な心的状態をかもし出すための二つの異なった道に他ならないからである。性的陶酔の境地においては、人は忘我の状態には入る。(中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想 P.412)】

    【『タイッティーリーヤ・ウパニシャッド』は最究極の本質を歓喜(ananda)と呼んだ。ここで〈歓喜〉という語は、しばしば、性的な歓喜、性的な恍惚状態を意味する。これこそ人間存在のもっとも内奥なるものであると考えたのである。だから、『タイッティーリーヤ・ウパニシャッド』はヤージニャヴァルキヤのアートマン論から、さらに進んで、認識そのものとしてのアートマンのさらに内奥に、衝動的な歓喜よりなるアートマンを立てたのである。人間の現実存在の奥にある基底的なものとして、セックスの衝動とかリビドーを認めようとする近代思想とも、思想類型の本質に関しては異なっていない。〔人間の認識作用の根底に衝動的なものを見出したという点では、西洋哲学の表現をもってするならば、実存主義的である。性的なものを人間の活動の奥に見出したという点では、フロイトを思わせる〕。(同書P.503)】

    上記のウパニシャッドは釈尊誕生(定説ではBC.563)以前の遥か昔、BC.800年頃に成立した経典であることに驚かされる。

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■32551 / inTopicNo.59)  アートマンと〈私〉は同義か?
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/19(Sat) 17:21:35)
    『中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想』によればアドヴァイタ(梵我一如)をはじめて説いたのはウパニシャッドの哲人シャーンディリアとのことだった。

    ウパニシャッドの初期ではアートマンの探究が主題とされ、【「アートマン」という語は「呼吸」という原義から転じて、「生気」「身体」の意味になり、さらに「自身」という意味にしばしば用いられる。サスクリット文においては、それは、再帰代名詞のように「自己」をいい表わす語として用いられるのである。そうして、哲学的概念としては「自我」「自己」「霊魂」さらに「生命原理」を意味する述語となった。(中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想 P.181)】とのことで、ブラフマンという語は用いられてない。

    興味深いのは。。。

    【〔ヤージニャヴァルキヤはつづけた、〕「それだからこのアートマンは『…ではない。…ではない』と〔いわれる〕。それは把握され得ない。なんとなれば、それは把握され得ないからである。(同書P.431)】

    ちなみにヤージニャヴァルキヤは(中村元先生が評するところでは)ウパニシャッドにおいてもっとも重要な思想家とのこと。

    【したがって、アートマンは積極的な概念をもって述語するこのできないものである。しかし、単なる無ではない。アートマンは認識の主体である。アートマンはそれによってこそ、人がこの一切のものを認識し得るところのものである。したがって、アートマンそれ自身は、もはやなにものによっても認識され得ない。それは把握し得ないものである。不可説である。もしもしいて言語をかりていいあらわそうとするならば、ただ『…ではない。…ではない』と否定的に表現し得るのみである。(同書P.449)】

    上記で表現するところのアートマンって〈私〉とピッタリ一致するやん!
    ひょっとしたら釈尊誕生以前、紀元前800年頃から既に〈私〉が「語りえぬもの」として言及されていたのではないか?


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■32405 / inTopicNo.60)  過去、現在、未来
□投稿者/ 時 -(2023/08/11(Fri) 12:59:59)
    便宜上、時間(軸)という概念での過去、現在、未来と言う表現を使います。

    過去は、現在にはもう既に存在していませんので、あるとは言えません。
    未来は、現在にまだ訪れてませんので、あるとは言えません。
    現在は、どこ(未来)からも到来せず、一時もどこ(現在)にも留まれず、どこ(過去)にも流れる事ができませんので・・・あるとは言えません。

    あるとは言えない未来から、あるとは言えない過去へと移り行く、現在に何があると言えるのでしょうか?

    つまりは、時間(軸)という概念での過去、現在、未来と言う概念的存在はありません。仮に時間(軸)という概念での過去、現在、未来と言う概念的存在がないのであれば、時間(軸)はありません。
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