TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■32877 / inTopicNo.25)  ザビビのふくろうさんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/05(Tue) 20:53:03)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    書籍も読み返しながら、ちゃんと返信したいので土曜日以降になります。

    よろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■32876 / inTopicNo.26)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/05(Tue) 20:51:02)
    こんばんは、時さん。レスありがとうございます。

    No32854に返信(時さんの記事)

    > 私の場合には、特定の宗教や信仰というよりも、インド聖者の悟りといったことに過去の一時期興味を持った時期がありまして、インドに渡り誰かに師事して弟子入りしてと言う経緯もなく、自己流で調べていき学んだのですね。ですので、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルバの4種類のヴエーダの中のどれですか?とか、誰の?どの教室で?とか言ったことにつきましては、分からないのですね。全て、自燈明での独学です。^^

    > しかし今、少し調べてみますと、賛歌の詠唱こそしませんが、リグ・ヴェーダの中のベーダーンタにあたるように思います。

    > 簡単に表現しますと、バクティにより神に全ての運命をゆだねればアドヴァイタの境地に至るという事を2年間ほど実践してみたという事です。当時は、二元の現行世界と、一元のアドヴァイタの世界を行ったり来たりを独り繰り返していたように思います。その途中には、梵我一如と表現される境地の理解も起こりました。なぜインド聖者の悟りに興味を持ったかにつきましては、ご容赦いただければと思います・・

    丁寧に教えていただき、ありがとうございます。

    > ですので、その後にいろいろと知識を得られた結果、言っていたそれは梵我一如ではなくて不二一元の境地と言うのだなと理解が深まったという感じです。そしてその当時には、仏教の”ぶ”の字にも興味がありませんでした。^^

    そうですね。私の友人も「不二一元」と言ってました。
    梵我一如と不二一元というのはどこがどう違うんでしょう?

    > 反りが合わないといえば合わないですし、合うといえば合いそうですね。

    > 私の理解では、当時も今もインドでは、その境地の違いこそあれ、それぞれが悟りだ涅槃だ、これ以上の境地はないのだと、主張しあっているようですので、ごちゃまぜ状態でしょうか。

    > ですので、パニチェさんのご友人のヨガによる涅槃志向も分からなくもありませんが、その涅槃と表現されている境地と、私が原始で学んだ涅槃の境地では、どちらが正しいとか間違いとかではなく、違った境地になるかと思います。

    そうなんですね、正直私にはどこが違うのかよく分かりません。^^

    > 原始の中にも仏陀が苦の滅尽の境地を完成させる以前(修業中)には、恐らくは婆羅門だと思いますが、不二一元(無所有処)の境地の師である、アーラーラ・カーラーマや次の不一不二(非想非非想処)の境地の師である、ウダカ・ラーマプッタに師事したとありますが、これらをすぐにマスターして、最終の境地はこれらではないという事で、仏陀独自の四禅定の道へと進んでいくのですね。

    > 原始の中には、仏陀の弟子のサーリプッタが命終間近の人物に乞われて、その不二一元(無所有処)=梵天界への道を教示して、その人物は命終したというお話があるのですが、後日、そのお話を知った仏陀が、サーリプッタに「なぜ?そのような劣った境地への道を教示したのですか?」と単なる質問とも叱責とも取れるような言葉を語ります。

    > 教えを乞うたその人物が、梵天界に転生したにも関わらずです。・・という事は、梵天界=不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は仏陀の世界観では最高ではないという事になりますね。原始の内容とも矛盾はないようです。

    > その不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は、仏陀の説いた九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の最後から3番目になりますので、仏陀の表現した”劣った境地”であるというのは、仏陀の世界観では間違いではないでしょう。

    ここも正直なところ。。。
    「九次第定」でしたっけ?正直言って私にはよく分からないのです。十牛図はなんとなく分かるんですが。。。

    > ですので、最初インド聖者の悟りに興味を持ち、独自でアドヴァイタを知り、そこでしばらくそれが本当なのかを自身の外部である当時の他掲示板等で発信して、本当に問題が発生しないのかという事を試していました。試した結果、やはり問題は発生しないという事が確認できました。(ザビビのふくろうさんとは、この時期に知り合いましたので、問題ありませんという言葉を連呼していたことは、記憶にあると思います)

    なるほど。掲示板で実験(実践)されていたのですね。

    > ですので、バクティでのアドヴァイタの境地で留まれば、仏教とは相容れないでしょうし、バクティによるアドヴァイタの完成=原始で言う(恐らくの)無所有処の境地だという理解が起これば、原始で言う所の想受滅を目指せるように思います。要は、それぞれの処で無意識にでも執着しないことでしょうか。それ以前には、その無意識での取着に自らが気づく必要がありますね。そのためにも行われるのが、四念処という観瞑想で・・・とお話は延々と続きそうですので、この辺りで(笑)

    ありがとうございます。

    >>すみません、あくまでも興味本位からの質問ですのでスルーしてもらっても構いません。^^
    > いえいえ、とんでもありません。興味を持っていただけるのは、大変有難い事です。^^

    そう言っていただけると有難いです。^^

    > 返信が遅くなり、すみません。

    とんでもありません。

引用返信/返信 削除キー/
■32868 / inTopicNo.27)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/05(Tue) 11:16:50)
    2023/09/05(Tue) 20:12:32 編集(投稿者)
    パニチェさん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。


    No32844に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/03(Sun) 16:49:56 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No32842に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>え〜、前回少し触れましたが、
    >>パニチェさんの学術用語の用法が一般と少しずれることがあるのと、こちらの理由がより大きいのですが、私の『論考』および映画『マトリックス』の解釈があまりに違うということもあって、ちょ〜どええ感じの刺激になるようなコメントをするのが、いろいろ考えたんですが難しいんですよね。
    >
    > ちょ〜どええ感じでなくても構いませんから、次の返信では忌憚なくお願いします。
    >
    >>それで今回は、主眼はパニチェさんの「弱い独我論」を理解することにおきます。
    >>それでも、勘違いの可能性があると思いますので、違ってたらご指摘ください。
    >
    > 了解しました。
    >

    適切な指摘をもらって、たすかりました。

    >>その後、ひとつだけ、話を簡単にするため、永井の〈私〉=パニチェさんの〈私〉とあえて仮定して、私の疑念を述べます。ちょっとお茶を濁す感じになるかもしれませんがご容赦ください。
    >
    > 大丈夫です。^^
    >

    違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。
    この作戦は成功だったかな?(笑)

    >>前に言っていた『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んでいれば、もっと共通の土台が得られて話をしやすかったかもしれませんが、まだ読めていないんで、すみません。
    >>またVRについてももう少し勉強したいと思っているので、また機会があればそのときにお願いします。
    >
    > いつでもいいですから、もし飽きずに?呆れずに?(笑)完読できた際には、是非、ザビビのふくろうさんも感想をお聞かせ下さい。
    > ちなみに私は『〈仏教3.0〉を哲学する』は6〜7割くらいしか消化?納得?できてません。
    >

    最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。
    ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑)
    で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^

    >>*****************
    >>「弱い独我論」をできるだけシンプルにとらえたいと思います。
    >
    >>換骨奪胎して言うと、
    >>【弱い独我論】
    >>直接存在確信される、知覚の超越論的主体である〈私〉の存在と、世界内に存在し、知覚を通して間接認識される知覚対象(存在)の、両方の存在を認める。
    >>しかし、
    >>知覚存在については思考実験(デカルト的懐疑、水槽の中の脳、『マトリックス』)の検証結果として実在性の確証が得られない(仮象)ので、
    >> 実在性の確証が得られる〈私〉の存在のみを実在とみなす考え。
    >
    > 一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。
    >

    この「実在」は「実体」とも言えますか?

    >>【引っ掛かる点】
    >>今回、私の質問に対して、
    >>>自分の身体、眼、脳は(他者の身体、眼、脳と同じく)触覚(身根)や視覚(眼根)を通じてあることが分かりますから(2)ですね。
    >
    >>という回答ですので、眼、脳は、知覚存在であり、世界内部存在であるということになりますね。
    >
    > そうです。
    >
    わかりました。

    >>ですが、パニチェさんは、〈私〉の存在を世界の内部にはない存在とされており、その説明モデルとして眼を用いて説明されます。ちなみに、永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きますが、これ、パニチェさんも同じですよね。
    >
    > あっ、少し違います。〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。
    >
    > 「見られるもの」と「見るもの」があるとして、「見られるもの」は「見るもの」で見れますが、「見るもの」は「見るもの」では見れないように、「感覚」で「感覚の主体」であるところの〈私〉は捉えることができないという説明でしたが、あれだのレスではちょっと分かりにくかったですね。
    >

    なるほど。わかりました。
    補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m


    >>この説明モデルでは、眼は世界の内部存在ではないように思います。
    >
    > あくまでも眼は世界内存在です。何故なら触覚でその存在を確認できる物質だからです。
    >
    >>これは、映画『マトリックス』の説明モデルにおける、脳についても同様に思います。
    >>ここでも脳(としての〈私〉)は、仮想世界の外部存在=実在とされていると思います。
    >
    > まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    > バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    > 触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。
    >

    そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。
    永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。

    >>つまり要は、世界外部(超越論的)存在の〈私〉の説明モデルとして、世界内部存在である眼や脳を用いるのは、私としてはやはり、語り得ぬものを語り得るものとして語って(描いて)しまっているのでは、という疑念を抱かざるを得ないわけです。
    >
    > 脳と眼は上記の理由によって語りえる物質となります。
    >

    わかりました。

    そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?

    仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、

    「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」

    ということになりますね。
    これはどうでしょう?

    >>まあ、これはパニチェさんというより、正確には永井の『論考』解釈について私が思っていることで、今回は永井とパニチェさんの〈私〉を同じものとあえて仮定して述べましたが、パニチェさんは全く同じではないと言ってらっしゃるのは承知しています。ですので、的外れになっていたらすみません。そのへんは、また、ご指摘ください。
    >
    > 大丈夫です。ちなみに永井氏やウィトゲンシュタインの眼の図も世界内に位置してますよね?
    > 下の図で言えば眼は世界内ですが〈私〉は眼のさらに左側、大きさを持たない点になると思います。
    >

    上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね?
    永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。
    確認しますと、
    T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。
    ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。
    で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。
    それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。
    ****************
    あとですね、先ほどの
    「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。
    つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。

    パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。
    もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか?
    とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか?
    **************************
    以上、
    回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。
    それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m




    >>【補足】
    >> あと、質問Bで、他人の心の存在を肯定されたことは、少し驚きました。
    >
    > そうですか。
    >
    >>>ちなみに強い独我論者ってほとんどいないと思うんですがザビビのふくろうさんはどう思われますか?
    >>>強い独我論者なら(時さんのようなアドヴァイタ〔梵我一如の一元論〕を除いては)哲学を学んだり、議論したり、友人をもつことさえ意味をなさないと思うのですが。。。。
    >>普通にはそうだと私も思います。ある意味、論外、何言ってんのこいつ、みたいな(笑)
    >
    > ですよね。
    >
    >>ただ、最近、VR一元論みたいな考えに惹かれていて、ひょっとすると、これって強い独我論になるんじゃないかとも思うんですよね。
    >
    > なるほど。
    >
    >>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    >>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。
    >
    > 『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    > 彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?
    >

    え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか?
    私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。
    むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。
    いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。
    ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。

    ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、
    『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。
    しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。
    しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。
    世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。

引用返信/返信 削除キー/
■32854 / inTopicNo.28)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/04(Mon) 11:51:48)
    パニチェさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32834
    > なるほど、バクティですか。
    > ヨガ教室を主宰している私の友人もバクティでもって涅槃を目指してますが、まだ道半ばみたいです。
    > 言葉的にはリグ・ヴェーダ(ウパニシャッド)とかヒンドゥー教用語ですが時さんは仏教を学ばれる前はヴェーダーンタを学ばれてたのですか?

    > それとも用語的にはバクティという言葉が合致するが特定の宗教ということではなくて神(法あるいは最高神)への帰依、つまり信仰をお持ちだったということでしょうか?

    私の場合には、特定の宗教や信仰というよりも、インド聖者の悟りといったことに過去の一時期興味を持った時期がありまして、インドに渡り誰かに師事して弟子入りしてと言う経緯もなく、自己流で調べていき学んだのですね。ですので、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルバの4種類のヴエーダの中のどれですか?とか、誰の?どの教室で?とか言ったことにつきましては、分からないのですね。全て、自燈明での独学です。^^

    しかし今、少し調べてみますと、賛歌の詠唱こそしませんが、リグ・ヴェーダの中のベーダーンタにあたるように思います。

    簡単に表現しますと、バクティにより神に全ての運命をゆだねればアドヴァイタの境地に至るという事を2年間ほど実践してみたという事です。当時は、二元の現行世界と、一元のアドヴァイタの世界を行ったり来たりを独り繰り返していたように思います。その途中には、梵我一如と表現される境地の理解も起こりました。なぜインド聖者の悟りに興味を持ったかにつきましては、ご容赦いただければと思います・・

    ですので、その後にいろいろと知識を得られた結果、言っていたそれは梵我一如ではなくて不二一元の境地と言うのだなと理解が深まったという感じです。そしてその当時には、仏教の”ぶ”の字にも興味がありませんでした。^^

    > また原始仏典(私は全て読んでいるわけではないので分かりませんが)とバクティは反りが合わないとことはないですか?

    反りが合わないといえば合わないですし、合うといえば合いそうですね。

    私の理解では、当時も今もインドでは、その境地の違いこそあれ、それぞれが悟りだ涅槃だ、これ以上の境地はないのだと、主張しあっているようですので、ごちゃまぜ状態でしょうか。

    ですので、パニチェさんのご友人のヨガによる涅槃志向も分からなくもありませんが、その涅槃と表現されている境地と、私が原始で学んだ涅槃の境地では、どちらが正しいとか間違いとかではなく、違った境地になるかと思います。

    原始の中にも仏陀が苦の滅尽の境地を完成させる以前(修業中)には、恐らくは婆羅門だと思いますが、不二一元(無所有処)の境地の師である、アーラーラ・カーラーマや次の不一不二(非想非非想処)の境地の師である、ウダカ・ラーマプッタに師事したとありますが、これらをすぐにマスターして、最終の境地はこれらではないという事で、仏陀独自の四禅定の道へと進んでいくのですね。

    原始の中には、仏陀の弟子のサーリプッタが命終間近の人物に乞われて、その不二一元(無所有処)=梵天界への道を教示して、その人物は命終したというお話があるのですが、後日、そのお話を知った仏陀が、サーリプッタに「なぜ?そのような劣った境地への道を教示したのですか?」と単なる質問とも叱責とも取れるような言葉を語ります。

    教えを乞うたその人物が、梵天界に転生したにも関わらずです。・・という事は、梵天界=不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は仏陀の世界観では最高ではないという事になりますね。原始の内容とも矛盾はないようです。

    その不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は、仏陀の説いた九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の最後から3番目になりますので、仏陀の表現した”劣った境地”であるというのは、仏陀の世界観では間違いではないでしょう。

    ですので、最初インド聖者の悟りに興味を持ち、独自でアドヴァイタを知り、そこでしばらくそれが本当なのかを自身の外部である当時の他掲示板等で発信して、本当に問題が発生しないのかという事を試していました。試した結果、やはり問題は発生しないという事が確認できました。(ザビビのふくろうさんとは、この時期に知り合いましたので、問題ありませんという言葉を連呼していたことは、記憶にあると思います)

    ですので、バクティでのアドヴァイタの境地で留まれば、仏教とは相容れないでしょうし、バクティによるアドヴァイタの完成=原始で言う(恐らくの)無所有処の境地だという理解が起これば、原始で言う所の想受滅を目指せるように思います。要は、それぞれの処で無意識にでも執着しないことでしょうか。それ以前には、その無意識での取着に自らが気づく必要がありますね。そのためにも行われるのが、四念処という観瞑想で・・・とお話は延々と続きそうですので、この辺りで(笑)

    > すみません、あくまでも興味本位からの質問ですのでスルーしてもらっても構いません。^^

    いえいえ、とんでもありません。興味を持っていただけるのは、大変有難い事です。^^
    返信が遅くなり、すみません。
引用返信/返信 削除キー/
■32847 / inTopicNo.29)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/03(Sun) 16:22:20)
    2023/09/03(Sun) 16:30:28 編集(投稿者)

    ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32841
    > ちなみに時さんの公園でのボールのエピソードについては、私は次のように考えます。

    > 自分が無意識に(即自的に)行った意志行為(払った)を、後になって、自分が意識化(対自化)し主観記述した、というだけの話で、ここには錯覚も幻想も創作もなく、事実だけがあると思います。

    なるほど。ザビビのふくろうさんのご認識は、了解しました。^^

    繰り返しになるかとは思いますが、ここで疑問符が付くのは「自分が無意識に(即自的に)行った意志行為(払った)」というところですね。自分が?無意識に?行った?→意志行為??のところです。無意識の行為が意志の行為で?しかもそれが我が主体なのか?という所に独りで拘っていました(笑)現在の私の答えは、強いて表現するのであればですが、そこに「私」は存在しないというものですね。

    ですので、事実を客観記述するならば「ボールが払いのけられた」だけですね。(笑)そこには払いのけたはずの主体である我は存在しえません。なぜならば、無意識下での出来事だからです。

    まぁ、ここは見解の相違という事で^^

    > 創作・幻想なのは、その端的な事実を、デカルト的二元論のドグマを前提にして、意識(心的主体)である自分が自分の意志で、単なる物にすぎない身体をコントロールし(ボールをはらうという)動作をさせた、と考える哲学的解釈の方です。

    > ついでに言っておくと、
    > 前野さんは自分の立場を一元論と言ってるようですが、受動意識仮説は、明らかにデカルト的二元論のバリエーションです。

    > と私は思います(笑)

    了解しました^^

    > あとですね、哲学的には、意志による身体のコントロールを幻想とすれば、倫理的責任というものも幻想なのか?という問題が直ちに立ち上がるので、この問題も引き受ける必要が出てきます。
    > 私の場合は当然これも、間違った前提に基づく疑似問題に過ぎないと思いますが。
    > まあ、こちらの問題を時さんが気にされるかどうかはわかりませんけどね。

    はい。そうですね。

    こちらも学問的な哲学ではなく、ましてや各専門分野での正確なデータも持ち合わせていない、他を納得させられるだけのエビデンスのない、時の人生哲学=妄想哲学での自らへの理解、納得のさせ方ですが、仮にこれを今だけ、遺伝子と環境、意識妄想説と名付けてみましょう(笑)

    遺伝子と環境、意識妄想説とは、この世における動植物は、その遺伝子が周りの環境に単に反応しているだけであるという仮説です。そしてその遺伝子の中には、特に大きな脳を持つといわれるもの特有の意識を生み出すものもあります。(笑)

    人間は動物であるので、これは他の動植物と同じく、あるとき地球上で自然発生的に生じました。つまりは、人間は自然から生まれました。

    自然とは考えると不思議なもので、犬には犬のヒマワリにはヒマワリの、そして人間には人間の遺伝子が別々のものになりました。ですから、それぞれの遺伝子の設計通りの見た目や行いがその環境に合わせて自然に起こり続けます。

    そこで自然発生的に生じた遺伝子の中で、脳の大きな動物には、意識が生じるものも組み込まれていました。これは勿論、人間で言うところの「私の」という思いを生じさせる大元の意識と言われるものです。

    実際には、各遺伝子が環境に反応して(動いて)いるだけの昆虫や花等の草木、ミミズや人間の中で、自然から大きな脳を作り出す遺伝子を与えられた人間には、特に「私の」という意識(思い)が発達して、やがてはそれは、実際には単に自然から発生して周りの環境に反応しているだけのことなのに、私が行ったとか、私は〜ができるとか、私の努力が足りないとか・・と言う主体性という幻想を、あたかもそれが当然の事実かの様に錯覚しだしました。

    努力すれば、成功しますかね?成功しないのは、努力が足りないからですかね?
    頑張れば大リーグで活躍できますかね?何かの発想には、1%のひらめきが必要ではないのですかね?では、そのひらめき自体は、何を起因とするのですかね?そしてもしもそのひらめきが起こったとしても、それが成功するかなんてことは別問題ですね。では、そのひらめきがなく、単に努力だけで上手く事が進むでしょうか?なんて事を過去に”私は”考えていました。(笑)

    ここで通常の思考世界に戻して考えてみると、例えば何かの犯罪が起こったとします。倫理的責任も問われますね。自らの意思で起こしてしまった泥棒という犯罪で、警察官により逮捕されるでしょう。そこでいくらその泥棒が「私は存在しない!自由意志は幻想なんだ!いやいや、意志そのものが幻想だ!なぜならば私が盗もうとした0.4秒前には私の意志とは別に行動が開始されていたのだから!」なんて言っても警官に「はいはい。」で連行されるでしょう(笑)

    でも仮に意識の一切が幻想ならばと考えてみると、そこで起こったことを記述すると「泥棒をして捕まった」だけです。もう少し言えば「捕獲したら、捕獲された」そして「環境に対して反応が起こったら、その環境に対して反応が起こった」と言うだけです。(笑)

    A(泥棒)の遺伝子がその環境に反応して行為が起こった。それは盗みという行為だった。・・B(警官)の遺伝子がその環境に反応して行為が起こった。それは捕まえるという行為だった。と言うだけです。(笑)この世界観では、責任感や罪悪感、倫理観や正義や悪等はありません。だから楽になるのですね。(笑)やりたい放題の世界観です。ですが、やりたい放題といっても犯罪率等は今と同じになるでしょう。なぜならば、今言う泥棒や犯罪や逮捕や正義感や倫理観は、意識の中での出来事の分別表現だからです。ですので犯罪率等は、何も変わりません。変わるとすれば、気持ちが楽になるだけです。

    この仮説では、実際に起こっているのは、各人の各遺伝子がその各環境に応じて各反応(捕獲、捕獲)が起こるだけですが、倫理観だ正義だ悪だという認識機能、分別判断というものを生み出す意識の部分が、人間の遺伝子に組み込まれているのではないか?というものです。

    犯罪を犯してしまう警察官、定年間近で痴漢で捕まる大企業の役員、冤罪を生み出してしまう裁判官、そのそもそものシステム。文化財に落書きをする中学生。神を信じて拝み倒す人々。他でこれらの説明がつくでしょうか。倫理観の欠如?常識の欠如?倫理観の欠如した人に、倫理観を持たせる方法はないでしょう。まぁ、いいのですが。(笑)

    賛同を得られるかどうかは別にして、全てが、各遺伝子が周りの環境に反応しているだけだと考えると説明がつきそうです。恐らくは意識がないであろうカニや杉の木が、なぜ栄養を吸収して成長して、卵を産んだり木の実を落としたりして、やがてはそれぞれの死を迎えるのか?人間も同じでしょう。そこに意識というものがあるのかどうかの違いだけで(笑)

    人はなぜ人を殺してはいけないのか?という問いには、各人様々な思いが沸き起こるでしょう。しかし、その答えがどのようなものであれ、殺人を犯してしまう遺伝子の所有者は期せずして殺人を犯してしまい、その遺伝子がない人には、殺人は犯かせません。ただし、その遺伝子は現在の所、判別はできないのではないでしょうか。仮に遺伝子研究の学者が、その環境下でその遺伝子を発見したと思っても、それもその学者の意識のなかのできごとですので、実際には、どうにもなりません。つまりは、今まで通り、起こることは起こるべき時に起こるだけです。起こらないことは決して起こらないでしょう。なぜならば、殺人犯の遺伝子は、その殺人犯自らが持とうと思って持ったものではないからです。それはその環境条件がそろえば、突如としてその環境に反応するという事です。

    自分の寿命を少しでも延ばす事ができないのに、なぜ他の事を思いわずらうのですか?(イエス)

    それが、各人の自覚なき運命だと思います。

    > この自由意志の問題は、正真正銘の哲学的問題です。
    > 哲学的問題は、疑似問題であろうがなかろうが、自分が納得行くまで考えないと仕方ないですしね。頑張ってください。

    はい。ありがとうございます。一応は、上記で納得しています。^^

    > いつものようにエラそうにいろいろ述べましたが、言うまでもなく私見に過ぎません。
    > だけど私の方は、おかげで、あれっ?案外私の考え、行けるんじゃないの?って気がしてきました(笑)
    > ありがとうございましたm(_ _)m

    毎回、ザビビのふくろうさんにお話しいただくと、新たな知識や視点が獲得できますので、刺激的ですー。^^

    こちらこそ、ありがとうございました。m(__)m

    パニチェさんへ

    ディオニュソスホールという事で、ご容赦を^^
引用返信/返信 削除キー/
■32844 / inTopicNo.30)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/03(Sun) 14:30:00)
    2023/09/03(Sun) 16:49:56 編集(投稿者)

    こんにちは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No32842に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > え〜、前回少し触れましたが、
    > パニチェさんの学術用語の用法が一般と少しずれることがあるのと、こちらの理由がより大きいのですが、私の『論考』および映画『マトリックス』の解釈があまりに違うということもあって、ちょ〜どええ感じの刺激になるようなコメントをするのが、いろいろ考えたんですが難しいんですよね。

    ちょ〜どええ感じでなくても構いませんから、次の返信では忌憚なくお願いします。

    > それで今回は、主眼はパニチェさんの「弱い独我論」を理解することにおきます。
    > それでも、勘違いの可能性があると思いますので、違ってたらご指摘ください。

    了解しました。

    > その後、ひとつだけ、話を簡単にするため、永井の〈私〉=パニチェさんの〈私〉とあえて仮定して、私の疑念を述べます。ちょっとお茶を濁す感じになるかもしれませんがご容赦ください。

    大丈夫です。^^

    > 前に言っていた『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んでいれば、もっと共通の土台が得られて話をしやすかったかもしれませんが、まだ読めていないんで、すみません。
    > またVRについてももう少し勉強したいと思っているので、また機会があればそのときにお願いします。

    いつでもいいですから、もし飽きずに?呆れずに?(笑)完読できた際には、是非、ザビビのふくろうさんも感想をお聞かせ下さい。
    ちなみに私は『〈仏教3.0〉を哲学する』は6〜7割くらいしか消化?納得?できてません。

    > *****************
    > 「弱い独我論」をできるだけシンプルにとらえたいと思います。

    > 換骨奪胎して言うと、
    > 【弱い独我論】
    > 直接存在確信される、知覚の超越論的主体である〈私〉の存在と、世界内に存在し、知覚を通して間接認識される知覚対象(存在)の、両方の存在を認める。
    > しかし、
    > 知覚存在については思考実験(デカルト的懐疑、水槽の中の脳、『マトリックス』)の検証結果として実在性の確証が得られない(仮象)ので、
    >  実在性の確証が得られる〈私〉の存在のみを実在とみなす考え。

    一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。

    > 【引っ掛かる点】
    > 今回、私の質問に対して、
    > >自分の身体、眼、脳は(他者の身体、眼、脳と同じく)触覚(身根)や視覚(眼根)を通じてあることが分かりますから(2)ですね。

    > という回答ですので、眼、脳は、知覚存在であり、世界内部存在であるということになりますね。

    そうです。

    > ですが、パニチェさんは、〈私〉の存在を世界の内部にはない存在とされており、その説明モデルとして眼を用いて説明されます。ちなみに、永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きますが、これ、パニチェさんも同じですよね。

    あっ、少し違います。〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。

    「見られるもの」と「見るもの」があるとして、「見られるもの」は「見るもの」で見れますが、「見るもの」は「見るもの」では見れないように、「感覚」で「感覚の主体」であるところの〈私〉は捉えることができないという説明でしたが、あれだのレスではちょっと分かりにくかったですね。

    > この説明モデルでは、眼は世界の内部存在ではないように思います。

    あくまでも眼は世界内存在です。何故なら触覚でその存在を確認できる物質だからです。

    > これは、映画『マトリックス』の説明モデルにおける、脳についても同様に思います。
    > ここでも脳(としての〈私〉)は、仮想世界の外部存在=実在とされていると思います。

    まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。

    > つまり要は、世界外部(超越論的)存在の〈私〉の説明モデルとして、世界内部存在である眼や脳を用いるのは、私としてはやはり、語り得ぬものを語り得るものとして語って(描いて)しまっているのでは、という疑念を抱かざるを得ないわけです。

    脳と眼は上記の理由によって語りえる物質となります。

    > まあ、これはパニチェさんというより、正確には永井の『論考』解釈について私が思っていることで、今回は永井とパニチェさんの〈私〉を同じものとあえて仮定して述べましたが、パニチェさんは全く同じではないと言ってらっしゃるのは承知しています。ですので、的外れになっていたらすみません。そのへんは、また、ご指摘ください。

    大丈夫です。ちなみに永井氏やウィトゲンシュタインの眼の図も世界内に位置してますよね?
    下の図で言えば眼は世界内ですが〈私〉は眼のさらに左側、大きさを持たない点になると思います。

    > 【補足】
    >  あと、質問Bで、他人の心の存在を肯定されたことは、少し驚きました。

    そうですか。

    > >ちなみに強い独我論者ってほとんどいないと思うんですがザビビのふくろうさんはどう思われますか?
    > >強い独我論者なら(時さんのようなアドヴァイタ〔梵我一如の一元論〕を除いては)哲学を学んだり、議論したり、友人をもつことさえ意味をなさないと思うのですが。。。。
    > 普通にはそうだと私も思います。ある意味、論外、何言ってんのこいつ、みたいな(笑)

    ですよね。

    > ただ、最近、VR一元論みたいな考えに惹かれていて、ひょっとすると、これって強い独我論になるんじゃないかとも思うんですよね。

    なるほど。

    > このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    > あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。

    『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?

236×130

1693719000.jpg
/2KB
引用返信/返信 削除キー/
■32842 / inTopicNo.31)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/03(Sun) 12:31:31)
    パニチェさん、こんにちは。
    ご返答、ありがとうございました。

    え〜、前回少し触れましたが、
    パニチェさんの学術用語の用法が一般と少しずれることがあるのと、こちらの理由がより大きいのですが、私の『論考』および映画『マトリックス』の解釈があまりに違うということもあって、ちょ〜どええ感じの刺激になるようなコメントをするのが、いろいろ考えたんですが難しいんですよね。
    それで今回は、主眼はパニチェさんの「弱い独我論」を理解することにおきます。
    それでも、勘違いの可能性があると思いますので、違ってたらご指摘ください。

    その後、ひとつだけ、話を簡単にするため、永井の〈私〉=パニチェさんの〈私〉とあえて仮定して、私の疑念を述べます。ちょっとお茶を濁す感じになるかもしれませんがご容赦ください。
    前に言っていた『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んでいれば、もっと共通の土台が得られて話をしやすかったかもしれませんが、まだ読めていないんで、すみません。
    またVRについてももう少し勉強したいと思っているので、また機会があればそのときにお願いします。
    *****************
    「弱い独我論」をできるだけシンプルにとらえたいと思います。

    換骨奪胎して言うと、
    【弱い独我論】
    直接存在確信される、知覚の超越論的主体である〈私〉の存在と、世界内に存在し、知覚を通して間接認識される知覚対象(存在)の、両方の存在を認める。
    しかし、
    知覚存在については思考実験(デカルト的懐疑、水槽の中の脳、『マトリックス』)の検証結果として実在性の確証が得られない(仮象)ので、
     実在性の確証が得られる〈私〉の存在のみを実在とみなす考え。


    【引っ掛かる点】
    今回、私の質問に対して、

    >自分の身体、眼、脳は(他者の身体、眼、脳と同じく)触覚(身根)や視覚(眼根)を通じてあることが分かりますから(2)ですね。

    という回答ですので、眼、脳は、知覚存在であり、世界内部存在であるということになりますね。
    ですが、パニチェさんは、〈私〉の存在を世界の内部にはない存在とされており、その説明モデルとして眼を用いて説明されます。ちなみに、永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きますが、これ、パニチェさんも同じですよね。
    この説明モデルでは、眼は世界の内部存在ではないように思います。
    これは、映画『マトリックス』の説明モデルにおける、脳についても同様に思います。
    ここでも脳(としての〈私〉)は、仮想世界の外部存在=実在とされていると思います。
    つまり要は、世界外部(超越論的)存在の〈私〉の説明モデルとして、世界内部存在である眼や脳を用いるのは、私としてはやはり、語り得ぬものを語り得るものとして語って(描いて)しまっているのでは、という疑念を抱かざるを得ないわけです。
    まあ、これはパニチェさんというより、正確には永井の『論考』解釈について私が思っていることで、今回は永井とパニチェさんの〈私〉を同じものとあえて仮定して述べましたが、パニチェさんは全く同じではないと言ってらっしゃるのは承知しています。ですので、的外れになっていたらすみません。そのへんは、また、ご指摘ください。

    【補足】
     あと、質問Bで、他人の心の存在を肯定されたことは、少し驚きました。

    >ちなみに強い独我論者ってほとんどいないと思うんですがザビビのふくろうさんはどう思われますか?
    >強い独我論者なら(時さんのようなアドヴァイタ〔梵我一如の一元論〕を除いては)哲学を学んだり、議論したり、友人をもつことさえ意味をなさないと思うのですが。。。。

    普通にはそうだと私も思います。ある意味、論外、何言ってんのこいつ、みたいな(笑)
    ただ、最近、VR一元論みたいな考えに惹かれていて、ひょっとすると、これって強い独我論になるんじゃないかとも思うんですよね。
    このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。

引用返信/返信 削除キー/
■32841 / inTopicNo.32)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/03(Sun) 12:18:12)
    時さん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。
    また、受動意識仮説も、興味を持たれたようで、良かったです。

    ちなみに時さんの公園でのボールのエピソードについては、私は次のように考えます。

    自分が無意識に(即自的に)行った意志行為(払った)を、後になって、自分が意識化(対自化)し主観記述した、というだけの話で、ここには錯覚も幻想も創作もなく、事実だけがあると思います。

    創作・幻想なのは、その端的な事実を、デカルト的二元論のドグマを前提にして、意識(心的主体)である自分が自分の意志で、単なる物にすぎない身体をコントロールし(ボールをはらうという)動作をさせた、と考える哲学的解釈の方です。

    ついでに言っておくと、
    前野さんは自分の立場を一元論と言ってるようですが、受動意識仮説は、明らかにデカルト的二元論のバリエーションです。

    と私は思います(笑)

    あとですね、哲学的には、意志による身体のコントロールを幻想とすれば、倫理的責任というものも幻想なのか?という問題が直ちに立ち上がるので、この問題も引き受ける必要が出てきます。
    私の場合は当然これも、間違った前提に基づく疑似問題に過ぎないと思いますが。
    まあ、こちらの問題を時さんが気にされるかどうかはわかりませんけどね。
    ***********************
    この自由意志の問題は、正真正銘の哲学的問題です。
    哲学的問題は、疑似問題であろうがなかろうが、自分が納得行くまで考えないと仕方ないですしね。頑張ってください。

    いつものようにエラそうにいろいろ述べましたが、言うまでもなく私見に過ぎません。
    だけど私の方は、おかげで、あれっ?案外私の考え、行けるんじゃないの?って気がしてきました(笑)
    ありがとうございましたm(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■32836 / inTopicNo.33)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/03(Sun) 07:04:31)
    2023/09/03(Sun) 08:45:11 編集(投稿者)

    ザビビのふくろうさん、おはようございます。レスありがとうございます。

    No32808に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 実は、自分でも意外なくらい、パニチェさんの説明が理解しにくかったんです。
    > たぶん、パニチェさんの思考ロジックと私のそれが予想以上に異なるせいだと思います。
    > なので、感想を言うより先に、少し質問させてください。

    了解しました!

    > (1)>先のレスで用いた実在というのは(哲学用語から離れてしまうかもしれませんが)「私たちの感覚器官を要せず直接的に存在を確信できる存在様相」ってことになります。
    > (2)>これに対して他の存在は「私たちの感覚器官を通じて間接的に存在を知り得る存在様相」です。

    以下は「弱い人間原理」を前提として答えてみます。

    > 質問@
    > 自分の身体は、(1)(2)のどちらに属しますか?
    > 特に、「自分の眼」と「自分の脳」はどうですか?

    自分の身体、眼、脳は(他者の身体、眼、脳と同じく)触覚(身根)や視覚(眼根)を通じてあることが分かりますから(2)ですね。

    > 質問A
    > 自分の身体と、〈私〉との関係はどのようなものですか?

    厳密にはよく分かりませんが、空間的にはウィトゲンシュタインも述べる通り、自分の身体は世界内にありますが〈私〉は世界の限界(世界が開闢する世界との接点)にあります。

    > 質問B
    > 他者の心は存在しますか?

    意識(意根)を通じてあることが分かりますから(2)として存在します。

    > ******

    > 上の質問@A をするのは、
    > >電柱の存在を幻想であるかの如く疑っていても、電柱に頭突きをすれば、痛いし血も出ることで電柱の存在を確信する(転法祖師の例えを無断借用w)。
    > という中の、電柱の存在を疑い、しかし確信するのと、痛みを感じるのはたぶん〈私〉だと思いますが、頭突きをするのと、血を流すのは誰か?、どちら側の存在か?ということが気になるからです。

    痛みを感じる主体は〈私〉ですが、頭突きをするのと、血を流すのは世界内にある私の身体です。
    おそらくマトリックスの世界でも同じになると思います。


    ちなみに強い独我論者ってほとんどいないと思うんですがザビビのふくろうさんはどう思われますか?
    強い独我論者なら(時さんのようなアドヴァイタ〔梵我一如の一元論〕を除いては)哲学を学んだり、議論したり、友人をもつことさえ意味をなさないと思うのですが。。。。
引用返信/返信 削除キー/
■32834 / inTopicNo.34)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/03(Sun) 06:51:32)
    時さん、おはようございます。レスありがとうございます。

    No32804に返信(時さんの記事)
    > 私の場合には、独我の世界に入り込んだのは、仏教を学ぶ以前に行っていましたバクティでした。完全なる神への完全なる帰依という事での生活の中での実体験で身に付けられたと思っています。

    なるほど、バクティですか。
    ヨガ教室を主宰している私の友人もバクティでもって涅槃を目指してますが、まだ道半ばみたいです。
    言葉的にはリグ・ヴェーダ(ウパニシャッド)とかヒンドゥー教用語ですが時さんは仏教を学ばれる前はヴェーダーンタを学ばれてたのですか?

    それとも用語的にはバクティという言葉が合致するが特定の宗教ということではなくて神(法あるいは最高神)への帰依、つまり信仰をお持ちだったということでしょうか?

    また原始仏典(私は全て読んでいるわけではないので分かりませんが)とバクティは反りが合わないとことはないですか?
    すみません、あくまでも興味本位からの質問ですのでスルーしてもらっても構いません。^^

    > 簡単な表現では、実生活上で自らのエゴをも含めた全てを受け入れて運命に身を委ねるという事になるでしょうか(ですので過去にパニチェさんに教えていただきました、ニーチェの運命愛のお話も理解できているように感じているのですね。^^)。宗教的な行事は何もなく、特別な瞑想等でもなく、単に神への帰依です。そこでの運命的な出来事について、良いも悪いも全てを受け入れ全肯定しました。すると今から考えるとやはり不思議なことなのですが・・神しか存在しないといわれるアドヴァイタの世界にその心境が至ったという感覚ですかね。私が何も問題がないと表現している世界ですが、その世界観から少し次元が下がった感覚での世界観が、前回書きました独我の世界観で、この世はバーチャルだという映画マトリックスの世界観での視点になるでしょうか。

    はい。よく分かります。

    > はい。そのように思いますね。前回、ザビビのふくろうさんに・・はい、自由意志の問題です(笑)。仏教の学びに関しては、あるといえばある、無いといえば無いのですが(No32783)と返答しましたのは、パニチェさんのご指摘の通りの事(非我、無我)を思ったからなのですね。

    なるほど。

    > 勿論、仏典内では「自由意志は在ります・ありません」とは記載がないのですが、たぶん当時、仏陀はこの辺りの事を感じていたのではないかとも思えるのです。我に非ずで非我・・非我ゆえに無我・・そしてこの我に関する問いには無記としたと。しかし一つの仏典には、将来的に私は〜になるだろうと言うのは幻想ですよ。という一文がありますので、合わせて考えますと・・・もしかすると知っていたのかもですね(笑)

    そうですね。

    > 自由意志で指を動かそうと意図した時、その直前0.35秒前には筋肉への動かせという指令が脳内では発せられているという実験結果もあるそうで、これは、意志よりも前に動く準備が脳内で始まっているという事ですね。これはつまりは、自らの意識は自らの行動の追体験をあたかも”今”意識的に行ったと錯覚しているという事を意味していそうです。
    > ある瞬間に、脳内で電気が発生します。→0.35秒後に意識(自由意志)で指を曲げようと意識します。→0.2秒後に実際に指が曲がります。
    > 無意識下で脳内の電気の発生から指が曲がるまで、0.55秒。その間に「曲げよう」という意志があるだけのようです。やはり、通常で考えると不思議ですね。
    > これで思い出したのですが、とある動画で、ウーパールーパーだったかサンショウウオの幼体だったか定かではありませんが、水槽内のそれの目の前を餌がゆっくりと通過した瞬間から、約3秒後位に口を大きく開けてあたかも目の前の餌を食べるようなしぐさをするものを見た記憶があります。何かの実験とかのものではなく、単なるおもしろ動画だと思いますが、よくもまぁ、これで・・自然界で生き残れるものだ。と感じました。(笑)

    確かに。あとマンボウとか中途半端なシマウマ模様のある(笑)オカピとか、よく生き残ったな、と。^^

    > リベットの実験にしても受動意識仮説にしても、脳内信号と意識と実行動の間にはどうもタイムラグがあるようですね。そしてこれは我々が自由だと思っていることが、実は思いこみだったという可能性を秘めていそうです。
    > 後は、専門家の先生方にお任せすることしかできませんが、もしかすると今までの常識が覆るときが来るのかもしれません(笑)

    可能性としてはありますね。

引用返信/返信 削除キー/
■32808 / inTopicNo.35)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/02(Sat) 18:02:12)
    パニチェさん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。

    実は、自分でも意外なくらい、パニチェさんの説明が理解しにくかったんです。
    たぶん、パニチェさんの思考ロジックと私のそれが予想以上に異なるせいだと思います。
    なので、感想を言うより先に、少し質問させてください。

    (1)>先のレスで用いた実在というのは(哲学用語から離れてしまうかもしれませんが)「私たちの感覚器官を要せず直接的に存在を確信できる存在様相」ってことになります。

    (2)>これに対して他の存在は「私たちの感覚器官を通じて間接的に存在を知り得る存在様相」です。

    質問@
    自分の身体は、(1)(2)のどちらに属しますか?
    特に、「自分の眼」と「自分の脳」はどうですか?

    質問A
    自分の身体と、〈私〉との関係はどのようなものですか?

    質問B
    他者の心は存在しますか?

    ******
    上の質問@A をするのは、

    >電柱の存在を幻想であるかの如く疑っていても、電柱に頭突きをすれば、痛いし血も出ることで電柱の存在を確信する(転法祖師の例えを無断借用w)。

    という中の、電柱の存在を疑い、しかし確信するのと、痛みを感じるのはたぶん〈私〉だと思いますが、頭突きをするのと、血を流すのは誰か?、どちら側の存在か?ということが気になるからです。

    よろしくお願いします。




引用返信/返信 削除キー/
■32804 / inTopicNo.36)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/02(Sat) 12:48:42)
    パニチェさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32799
    > 言葉で説明するのが困難というのは分かります。
    > “我(パニチェは永井氏にならって〈私〉と表記しますが)”自体が語りえないです。
    > 独我の世界に入り込むのは禅定とか瞑想、あるいは内観に近いようなことをされるんでしょうか。

    私の場合には、独我の世界に入り込んだのは、仏教を学ぶ以前に行っていましたバクティでした。完全なる神への完全なる帰依という事での生活の中での実体験で身に付けられたと思っています。

    簡単な表現では、実生活上で自らのエゴをも含めた全てを受け入れて運命に身を委ねるという事になるでしょうか(ですので過去にパニチェさんに教えていただきました、ニーチェの運命愛のお話も理解できているように感じているのですね。^^)。宗教的な行事は何もなく、特別な瞑想等でもなく、単に神への帰依です。そこでの運命的な出来事について、良いも悪いも全てを受け入れ全肯定しました。すると今から考えるとやはり不思議なことなのですが・・神しか存在しないといわれるアドヴァイタの世界にその心境が至ったという感覚ですかね。私が何も問題がないと表現している世界ですが、その世界観から少し次元が下がった感覚での世界観が、前回書きました独我の世界観で、この世はバーチャルだという映画マトリックスの世界観での視点になるでしょうか。

    > > ところでパニチェさんは、自由意志のあるなし問題については、どのように思われるでしょうか?よろしければパニチェさんのご意見を教えて頂ければ有難いです。
    > > No32765の後半です。 私の場合には今現在の結論で、自由意思があろうとなかろうと、それは何ら日々の出来事に関与できない。よって、自由意志はないという方に傾く。というものです。

    > 以下、だらだらと書いてしますので興味のないところはスルーして下さい。
    > まずは結論から。。。

    > 自由意思があろうとなかろうと日々の暮らしや今の自分にとっては何も変わらないというのは時さんとほぼ同じです。
    > 自由意志の有無については今のところはペンディングというか、判断停止、または仏説にならって無記です。

    了解しました。^^

    > 理由は以下の通りです。

    > 自由意志の有無に関しては「リベットの実験」が有名です。
    > ある行動を行おうと意識した瞬間の0.35〜0.4秒前に(無意識下で)筋運動の際に発生する準備電位が生じているというものです。
    > さらに脳内ではこれらに要した時間を“なきもの”にし、時間を遡るように意識されるということです。
    > みのりさんが引用された「受動意識仮説」ともかぶりますが、私たちは脊髄反射と変わらないような動き(行動)をしているにもかかわらず、それを後付けで意志したかのような行動として捉えてる可能性もあるということです。

    > 「リベットの実験」に関しては未だにさまざまな議論や評価(批判)もあり、まだ定まった解釈があるわけではありませんが、私たちは外部刺激という人形師と脳という糸によって操られたマリオネットである可能性も払拭できません。
    > この場合、自由意志は幻想ってことになると思います。
    > また私たちにはそもそも個我なんてものは存在せず(無我)、全体運動の一部でるというアドヴァイタ的な発想で考えても上記と合致します。

    はい。そのように思いますね。前回、ザビビのふくろうさんに・・はい、自由意志の問題です(笑)。仏教の学びに関しては、あるといえばある、無いといえば無いのですが(No32783)と返答しましたのは、パニチェさんのご指摘の通りの事(非我、無我)を思ったからなのですね。勿論、仏典内では「自由意志は在ります・ありません」とは記載がないのですが、たぶん当時、仏陀はこの辺りの事を感じていたのではないかとも思えるのです。我に非ずで非我・・非我ゆえに無我・・そしてこの我に関する問いには無記としたと。しかし一つの仏典には、将来的に私は〜になるだろうと言うのは幻想ですよ。という一文がありますので、合わせて考えますと・・・もしかすると知っていたのかもですね(笑)

    > 意識にペンローズが提唱するような量子効果(マイクロチューブル)が関与しているなら機械論的なマリオネットから解放される可能性もあります。

    > 強いて現時点での私の考えを述べれば、おそらく自由意志があるにしても(行動の自由があっても機能的に人体では空を飛べないように)限定的な自由意志を有してるくらいではないかな?ってところです。

    ありがとうございます。了解しました。

    自由意志で指を動かそうと意図した時、その直前0.35秒前には筋肉への動かせという指令が脳内では発せられているという実験結果もあるそうで、これは、意志よりも前に動く準備が脳内で始まっているという事ですね。これはつまりは、自らの意識は自らの行動の追体験をあたかも”今”意識的に行ったと錯覚しているという事を意味していそうです。

    ある瞬間に、脳内で電気が発生します。→0.35秒後に意識(自由意志)で指を曲げようと意識します。→0.2秒後に実際に指が曲がります。

    無意識下で脳内の電気の発生から指が曲がるまで、0.55秒。その間に「曲げよう」という意志があるだけのようです。やはり、通常で考えると不思議ですね。

    これで思い出したのですが、とある動画で、ウーパールーパーだったかサンショウウオの幼体だったか定かではありませんが、水槽内のそれの目の前を餌がゆっくりと通過した瞬間から、約3秒後位に口を大きく開けてあたかも目の前の餌を食べるようなしぐさをするものを見た記憶があります。何かの実験とかのものではなく、単なるおもしろ動画だと思いますが、よくもまぁ、これで・・自然界で生き残れるものだ。と感じました。(笑)

    リベットの実験にしても受動意識仮説にしても、脳内信号と意識と実行動の間にはどうもタイムラグがあるようですね。そしてこれは我々が自由だと思っていることが、実は思いこみだったという可能性を秘めていそうです。

    後は、専門家の先生方にお任せすることしかできませんが、もしかすると今までの常識が覆るときが来るのかもしれません(笑)
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -