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■20608 / inTopicNo.13)  pipitさんへ
  
□投稿者/ うましか -(2022/01/30(Sun) 21:02:27)
    こんばんはー

    No.20598 (pipitさん)

    >黒崎政男先生の論文があって、また読み直そうと思ってますが、
    >『カントにおけるヒューム問題』

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1985/35/1985_35_130/_article/-char/ja/


    黒崎政男の論文ですね!(゚Д゚;)

    ご紹介ありがとうございます!

    黒崎論文の以下の引用元は、ラッセルの『西洋哲学史』ですね。

    市井三郎訳がみすず書房から出ています。
    これまでの三巻本が新装合本になったようですが(;´・ω・)

    https://www.msz.co.jp/news/topics/08957/

    >例えば、B ・ラッセルは「ヒュームは、因果性の概念の批判 によって、カントを独断のまどろみから目覚めさせた―― と、少なくとも カント自身はそう述べているのだが、―― が、この目覚めは一時的なものにすぎず、カントはすぐに睡眠薬を発明して、また眠り込んでしまった。 カントの思想は、合理主義の前ヒューム的考えであり、ヒューム の議論によって論駁され得るものである。」と述べているし

    市井三郎は、ラッセルによるヒュームの解説で、"succession"を「相互継起」と訳しているようですね。(旧版 3 近代哲学、p.659)

    ラッセル西洋哲学史の文章は、市井訳のおかげもあってか?、私うましかにとって読みやすいです(・ω・)ノ


引用返信/返信 削除キー/
■20598 / inTopicNo.14)  うましかさんへ Σ(・□・;)
□投稿者/ pipit -(2022/01/30(Sun) 15:00:19)
    うましかさん、こんにちは!

    No20597
    > 私もカントの"Aufeinanderfolgen"の背景について「ヒュームの因果性」から調べてみました。
    >
    > そしたら、こんな論文を発見しましたー(゚д゚)!
    >
    > https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/39663#/.YfXyQJrP3IV
    >
    > 「知覚の<主観的継起>の非独立性 : カントの因果論とヒューム批判」
    > 遠藤千晶という方の論文です。<


    私の力量のせいで正確に読めてるわけでは確実にないですが、、、
    めちゃくちゃ遠藤千晶さんの視点をおもしろく感じます!!(驚)

    考え方、捉え方が、わたしにはすごく新鮮です。

    この[船の喩え]の箇所とかって、私の気になってる『原則論』にあるものと思ってるんですけど、勉強する時この論文を絶対再度読むと思います。

    論文のご紹介ありがとうございます!!


    > カントの"Aufeinanderfolgen"の元ネタ的なものかどうかはまだ調べていませんが、ヒュームの因果性の議論で同じく「継起」と訳されている概念は、"succession"のようです。<

    あ!successionの方がしっくりくるかも??


    > ご紹介の翻訳アプリDeepLの翻訳でも出てきました。
    >
    > https://www.deepl.com/translator#de/en/Aufeinanderfolgen<

    田秋さんが、いいよーとご紹介してくださいました。
    感謝です!
    田秋さんも、大学の先生がいいよとおっしゃられてた的に書かれてた覚えがあるし、
    ふくろうさんも使ってられた覚えがあります。
    とても評判がいいアプリなのかもしれませんね。


    > 考えるきっかけを与えてくださって、ありがとうございます!m(__)m
    >  
    >
    > 感謝沼です! (・∀・)<

    こちらこそー (^人^)

    > 【追記】
    >
    > ヒュームの因果性についての論文を追加しておきます(;´・ω・)
    >
    > 「カントの因果律理論 : ヒュームの因果律批判との対比を通じて」
    > 堂囿俊彦という方の論文です。
    >
    > https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/?page_id=30
    >
    > で論文名を入れて検索してくださいませm(__)m<

    検索したら、ページを表示することができました!
    読ませていただきますね (^_^)

    カントは、オイラは偉大な哲学者ヒュームを乗り越えたぜぃ、って自分では言ってるかもだけど、実際はわからないですよね。
    黒崎政男先生の論文があって、また読み直そうと思ってますが、
    『カントにおけるヒューム問題』

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1985/35/1985_35_130/_article/-char/ja/

    の中には、
    『例えば、B ・ラ ッセルは 「ヒ ュームは、因果 性 の概念 の批判 によ って、 カ ントを独断 のまど ろみから目覚 めさせた―― と、少なく とも カ ント自身はそう述 べているの だが、―― が、 この目覚 めは 一時的なも のにすぎず、 カ ント はすぐ に睡眠薬 を発明 して、また眠り込んでしま った。 カン トの思想は、合理主義の前 ヒューム的考えであり、ヒューム の議論 によ って論駁され得るも のであ る。」と述べて いるし』
    という文章も載っていますし。
    (^◇^;)

    カントにとって、ヒュームはものすごく大きな存在だったのでしょうね。

    カント事典には、
    『いずれにせよ、カントはヒュームを理性批判の真の先駆者として、『純粋理性批判』においても『実践理性批判』においても最大の評価を下している。』p445
    という一文もありました。

    不思議だなー

    ヒュームもカントも、生きてた人間なんだなー

    と、何故か今、思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■20597 / inTopicNo.15)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/01/30(Sun) 11:31:16)
    2022/01/30(Sun) 12:07:10 編集(投稿者)
    2022/01/30(Sun) 11:32:32 編集(投稿者)

    おはようございますー

    pipitさんからの話題提供( No.20569 )をいただき、 No.20578  で「継起」と訳された"Aufeinanderfolgen"についてふれましたが、pipitさん、英訳を調べてくださったんですね(*‘∀‘)

    *******

    No.20582(pipitさん)

    >英語に訳したら、シークエンス的な単語が出たような?
    >Sequence

    私もカントの"Aufeinanderfolgen"の背景について「ヒュームの因果性」から調べてみました。

    そしたら、こんな論文を発見しましたー(゚д゚)!

    https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/39663#/.YfXyQJrP3IV

    「知覚の<主観的継起>の非独立性 : カントの因果論とヒューム批判」
    遠藤千晶という方の論文です。

    カントの"Aufeinanderfolgen"の元ネタ的なものかどうかはまだ調べていませんが、ヒュームの因果性の議論で同じく「継起」と訳されている概念は、"succession"のようです。

    ご紹介の翻訳アプリDeepLの翻訳でも出てきました。

    https://www.deepl.com/translator#de/en/Aufeinanderfolgen


    考えるきっかけを与えてくださって、ありがとうございます!m(__)m
     

    感謝沼です! (・∀・)

    【追記】

    ヒュームの因果性についての論文を追加しておきます(;´・ω・)

    「カントの因果律理論 : ヒュームの因果律批判との対比を通じて」
    堂囿俊彦という方の論文です。

    https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/?page_id=30

    で論文名を入れて検索してくださいませm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■20596 / inTopicNo.16)  パラロギスムス
□投稿者/ pipit -(2022/01/30(Sun) 10:26:20)
    No20590
    >p42で、山下先生は、
    純粋統覚の「私は・・・と考える」の「私」は何なのか?
    と問いかけ、続いて、カントの第二版でのパラロギスムスに出てくる規定を引用されます。
    パラロギスムスって?
    また明日カント事典でも見てみます。。。(ー ー;)<

    おはようございます(^○^)

    カント事典を見てみると、

    『パラロギスムス →純粋理性の誤謬推理』p417

    とありまして、

    『純粋理性批判の誤謬推理[(独)Paralogismen der reinen Vernunft]』p244
    という項目に、丸々1ページ分の説明がありまして、その関連項目として
    『我思う』p557の項目紹介もありまして、

    カントの理解について、役に立つ気がしたので、解説文章を引用しながら、内容を理解していきたいと今考えています。

    山下先生の本はもともと論文を集めたもののようで、カント事典にあるような事柄は基礎知識として習得済みの方が対象のところもあるのかな、と、思いました。
    だからpipitには時に謎謎謎森文章に思えたりするのかな、って。

    まぁ、カント事典の解説文章、引用予定の最後らへんに、
    『さまざまな解釈が可能であろう。』の一文がまたまた差し込まれてますが。。。

    カント先生ー (T ^ T)

    でも、言葉は空(くう)を、天然で行ってるのかもしれないですしね
    カント先生 ♪
    (#^.^#) カントセンセノブンショウダイスキー(二律背反的気持ち…)
引用返信/返信 削除キー/
■20590 / inTopicNo.17)  Re[29]: (私は、、、考える)と(存在)
□投稿者/ pipit -(2022/01/29(Sat) 23:28:16)
    なんか構成がわたしには把握しずらいんだよね。。。
    そのうち慣れてくるかな??(期待)

    p42で、山下先生は、
    純粋統覚の「私は・・・と考える」の「私」は何なのか?
    と問いかけ、続いて、カントの第二版でのパラロギスムスに出てくる規定を引用されます。
    パラロギスムスって?
    また明日カント事典でも見てみます。。。(ー ー;)

    んー、わからん。
    とりあえず引用だけでもしておきます。

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p 43
    『この純粋統覚における私について、第二版のパラロギスムスは次のような規定を与えている。
    「1.私が考える。2.主観として。3.単純な主観として。4.私の思惟の全ての状態において同一的主観として」(B419)。
    この私は、私の思惟のすべての状態において同一的な、単純な主観として思惟する私である。
    もちろん、こうした規定からこの私が独立した実体であると結論するような推論はパラロギスムスであって許されない。
    しかしながら、カントの与えている規定だけですでに十分である。
    カントはこの規定をどこから得たのだろうか?
    それについてカントは何も述べていない。
    それは「単純な自己意識によって」(B420)と言われるにとどまっている。
    その上、そうでありながらも、我々はカントのこの議論を否定できない。
    それはなぜなのだろうか?』

    で、次の『第三節 現象と物自体を区別する者』に続いていきます。

    どのような道筋で記述されていくのかなー?

引用返信/返信 削除キー/
■20589 / inTopicNo.18)  Re[28]: (私は、、、考える)と(存在)
□投稿者/ pipit -(2022/01/29(Sat) 23:02:01)
    不十分かもしれませんが、とりあえずB157を見ただけで、山下先生の記述に戻ってみます。

    読んでた箇所↓


    No20540に返信(pipitさんの記事)
    > No20533
    > p41-42
    >
    > カントは
    > 「私は・・・と考える」を「私は存在する(Ich bin)」と等値している、と。
    > でも、
    > 『純粋理性批判』の根源的前提から言えば、カントはこう言うことはできないのでは?
    > と山下先生からの問いかけ。
    >
    > 純理では、
    > 『感性なしに我々には対象は与えられず、悟性なしにはいかなる対象も思惟されない』
    > 『悟性は何も直観せず、感官は何も思惟しない。両者が結合することによってのみ、認識が生じうる』
    > (B75)
    > が前提となっている。
    >
    > ※※※※※※※※※
    >
    > 以上の前提(pipitの理解としては→→→認識の成立は、感性による直観と、悟性による思惟の両者を必要条件とする)を頭の片隅に置きまして、、、
    >
    > >「私は・・・と考える」を「私は存在する(Ich bin)」と等値している<
    >
    > に、踏み込んでみましょう。ということで、、、
    >
    > ※※※※※※※※※
    >
    > B157 あたりを見てみればいいのかな?
    > 明日以降、山下先生の引用や解説の理解にチャレンジしていこうと思います。
    >
    > みなさま、おやすみなさいませ
    > (^O^) ☆彡
    >
引用返信/返信 削除キー/
■20588 / inTopicNo.19)  Re[31]: 感想
□投稿者/ pipit -(2022/01/29(Sat) 22:55:13)
    No20555
    引用の読解チャレンジを続けます。

    (続き)
    >わたしが自分とは異なる客体を認識するときには、客体そのものについての(カテゴリーによる)思考のほかに、
    さらに直観を必要とするのであり、この直観をつうじて普遍的な概念を規定するのである。<

    自分ではない客体の【認識】とは、直観をつうじて普遍的な概念を規定すること。


    >それと同じように わたしは自分自身を認識するときにも、
    [わたしが存在するという]意識のほかに、
    そして〈わたしが自分のことを考える〉ということのほかに、
    わたしのうちにおける多様なものの直観を必要とするのであり、
    この直観によってわたしはこの思考を規定するのである。<

    わたし を 【認識】 するには、
    内における多様な直観 によって 〈わたしが自分のことを考える〉 を規定する。

    〈わたしが自分のことを考える〉を 規定するのが、内における多様な直観。

    >たしかにわたしは叡智的な主体として存在しているのであり、この叡智的な主体はみずからの結合能力を意識している。
    しかしこの叡智的な主体も、[自己の認識において]みずから結合する多様なものについては、内的な感覚能力と呼ばれるある制約にしたがうのである。<


    システム的主体を、直知によりシステム的主体の実在と為し、

    システム自身の結合能力を反省的に意識してるが、

    それ自身の【認識】は、内的な感覚能力により現れた直観内容により規定される。


    >そしてこの結合を意識するときには、ほんらいの知性の概念の外部にある時間の関係にしたがって直観するしかないのである。<

    異なる時間に現れる直観を総合して、一つの対象の意識となす。
    心の形式の時間に沿った形で直観する。


    >だからこの叡智的なものが自己を認識するのは直観によってであって(この直観は叡智的直観ではないことに注意しよう。これは知性がみずからもたらす直観ではないからである)、みずからにたんに現れるかぎりにおいて認識するのである。
    そしてこの直観が叡智的直観であった場合に認識するようには、みずからを認識することができないのである。』
    引用終了<

    感性の形式は時間である。
    心に現れるものによって、わたしは、対象を認識する。
引用返信/返信 削除キー/
■20582 / inTopicNo.20)  Re[7]: 超越論的感性論 第四項:X−2
□投稿者/ pipit -(2022/01/29(Sat) 20:21:31)
    うましかさん、こんばんは!
    No20578
    Aufeinanderfolgen を、Deepl という翻訳アプリで訳したら、
    『連続』とでました!

    個人的に、おもしろいなぁ! と よろこびました
    (o^^o)♪

    あと、どっかで(いいかげん!)、英語に訳したら、シークエンス的な単語が出たような?

    Sequence シーケンス制御 うーん、おもしろい
    フィードバック制御、(о´∀`о) ♪ 連想ゲームー

    カント的時間については、いろんな解釈があるとは思うのですが、
    読んだ時におもしろいなと思った解説を引用します。

    石川輝吉さん『カント 信じるための哲学 「わたし」から「世界」を考える』p124
    『さて、カントは、時間はまずもって心の状態を規定する原理だと言う。
    カントによれば、時間とは「継起」であり、さまざまな心の状態があらわれる土台となるようなものだ。
    (略)
    カントが言いたい時間とは、こうしたさまざまな心のあらわれの土台となるようなひとつの継起や流れのことで、この流れを経験が可能となる形式として取りだしている。(略)』

    いつもいろいろありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■20578 / inTopicNo.21)  超越論的感性論 第四項:X−2
□投稿者/ うましか -(2022/01/29(Sat) 17:57:10)
    2022/01/29(Sat) 18:02:24 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    No.20569 (pipitさん)

    >継起は、時間について考える時、よくセットで思い浮かぶ概念です。
    >記憶ということも、時間との関係で時々考えてます。
    >記憶を、像を作ることとすると、想像力、あるいは構想力となるのかな、とか。

    なるほどー(゚Д゚;)

    うましかな私は「継起」と訳された"Aufeinanderfolgen"についてとくに考えていませんでした(;´・ω・)。

    「継起」について、先ずヒュームの因果性を調べてみました。ヒュームによれば、「因果性とは,空間に隣接し時間的に継起する二つの種類の出来事の間の,人間が想像する必然的結合(necessary connection)の関係である.」(岩波哲学・思想事典、p.103「因果性」、田村 均による解説)


    (;´・ω・)沼の香りがしてきた…



    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について 〔Von der Zeit〕 
     第四項 時間概念の形而上学的論究 〔§4 Metaphysische Eroerterung des Begriffs der Zeit〕

    ◆〔1 *1〕 時間は、 1  何らかの経験から抽出されたいかなる経験的な概念でもない。なぜならば、同時存在〔Zugleichsein〕ないしは継起〔Aufeinanderfolgen〕は、時間の表象が、ア・プリオリにその根底に置かれていないならば、それ自身、知覚の内へと入り込んでこないであろうからである〔*2〕。時間の表象を前提してのみ、人は、いくつかのものが同一の時間に(同時的に〔zugleich〕)、ないしは異なった時間に(継起的に〔nach einander *3〕)存在するということを表象し得るのである。

     *1 第一版では冒頭に番号付け
     *2 石川文康訳(上巻)では次のように訳される。「なぜなら、時間の観念がアプリオリに根底にないとしたなら、同時に存在することやあいついで起こることが知覚されることさえないだろうからである。」(p.86) ちなみに、石川は“Vorstellung“を「観念、イメージ、思い、思い浮かべられるもの、想像」と訳す。石川の訳語についての考えは、上巻のp.x〜p.xviiを参照。
     *3 “nach einander”を石川訳では「あいついで」と訳す。

    ◆2 時間は、全ての直観の根底にある一つの必然的な表象である。人は、たとえ諸現象を時間の内から除き去ることを十分にできるにせよ、諸現象一般に関して時間自身を廃棄することはできない。それゆえ、時間はア・プリオリに与えられている。時間においてのみ、諸現象の全ての現実性は可能である。現象はことごとく無くなることはあり得るが、時間自身は(現象の可能性の普遍的な条件として)廃棄されることはあり得ない。

    --- No.20568 からの続き ---

    ◇ 3 このア・プリオリな必然性に、時間の諸関係についての確然的な諸原則の、或いは時間一般についての諸公理の可能性もまた根拠付けられている。時間は一次元だけを持っている。様々の諸時間は同時的にではなく、継起的に存在する(様々の諸空間が継起的にではなく、同時的に存在するのと同様である)。

     ※1 時間はあいついで起こるように存在し、空間は同時に存在する?(;´・ω・)

    ◇これらの諸原則は経験からは引きだされ得ない。なぜなら経験は、厳密な普遍性をも、確然的な確実性をも与えるはずがないからである。

    ◇私たちは普通の知覚がそのように教えると言い得るだけであって、そのようになっていなければならないと言うことはできないであろう。これらの諸原則は、総じて経験がそのもとでのみ可能であるという規則とみなされ、だから私たちに経験に先立って〔vor〕教えるのであって、経験を通じて〔durch〕教えるのではない。


    † 原佑訳上巻、p.160〜p.161参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    X−1 No.20568、X−2 No.20578
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578

引用返信/返信 削除キー/
■20570 / inTopicNo.22)  時間・日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/28(Fri) 23:51:37)
    仏教のアビダンマ論の影響で、
    刹那の生滅的世界観が、ものの見方としてインストールされてるかもだから(希望)、
    継起、という概念が気になるのかも。

    まだ未勉強だけど、カントの、図式論や、原則論のあたりは、わたしにはとてもおもしろそうな気がしてる。

    カントの引用文を読解したかったけど、眠くて、、、
    (´-`).。oO ヨメナイ

    おやすみなさーい ☆彡


引用返信/返信 削除キー/
■20569 / inTopicNo.23)  Re[6]: 超越論的感性論 第四項:X−1
□投稿者/ pipit -(2022/01/28(Fri) 23:41:34)
    うましかさん、こんばんはー
    (^_^)

    No20568
    継起は、時間について考える時、よくセットで思い浮かぶ概念です。
    記憶ということも、時間との関係で時々考えてます。
    記憶を、像を作ることとすると、想像力、あるいは構想力となるのかな、とか。
    カントの認識論も、初版は、悟性、感性の2分割ではなく、悟性、感性、構想力の3分割かもみたいな(黒崎先生本の記憶で書いてるので違ったらすみません)

    時間の謎、体得的に?解ける時が、来てくれるかなー?
    (・・?)


引用返信/返信 削除キー/
■20568 / inTopicNo.24)  超越論的感性論 第四項:X−1
□投稿者/ うましか -(2022/01/28(Fri) 19:38:24)
    2022/01/28(Fri) 19:39:12 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    やっと感性論の時間についての節にはいることができました(;´・ω・)

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について 〔Von der Zeit〕 
     第四項 時間概念の形而上学的論究 〔§4 Metaphysische Eroerterung des Begriffs der Zeit〕

    ◇ 時間は、 1  何らかの経験〔einer Erfahrung〕から抽出されたいかなる経験的な概念〔empirischer Begriff〕でもない。なぜならば、同時存在〔Zugleichsein〕ないしは継起〔Aufeinanderfolgen〕は、時間の表象が、ア・プリオリにその根底に置かれていないならば、それ自身、知覚の内へと入り込んでこないであろうからである。時間の表象を前提してのみ、人は、いくつかのものが同一の時間に(同時的に〔zugleich〕)、ないしは異なった時間に(継起的に〔nach einander〕)存在するということを表象し得るのである。

     ※1 時間(の表象)は 経験に先立ち(経験の)根底に置かれている。

    ◇ 2 時間は、全ての直観の根底にある一つの必然的な表象である。人は、たとえ諸現象を時間の内から除き去ることを十分にできるにせよ、諸現象一般に関して時間自身を廃棄することはできない。それゆえ、時間はア・プリオリに与えられている。時間においてのみ、諸現象の全ての現実性は可能である。現象はことごとく無くなることはあり得るが、時間自身は(現象の可能性の普遍的な条件として)廃棄されることはあり得ない。

     ※2 時間はア・プリオリに与えられている。 
     ※3 現象は無くなっても時間自身が廃棄されることない。それは全ての直観の根底にある一つの必然的な表象である。



    † 原佑訳上巻、p.160参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    X−1 No.20568
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568

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