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■20445 / inTopicNo.73)  Re[13]: 日記
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/16(Sun) 20:17:03)
    >コードはいつでもオートポイエーシスな面があるかも?<
    オートポイエーシスを知らない人がこんなこと言っていいのかしら?

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■20444 / inTopicNo.74)  Re[12]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/16(Sun) 20:11:19)
    表象の置き方は、自然因果か、自由か。
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■20443 / inTopicNo.75)  Re[11]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/16(Sun) 20:09:22)
    イチゴの次に、なんの表象を置く(自発)?それとも置かれる(受動)?

    イチゴ→好き ?
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■20442 / inTopicNo.76)  (削除)
□投稿者/ -(2022/01/16(Sun) 20:07:22)
    この記事は(投稿者)削除されました
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■20439 / inTopicNo.77)  Re[9]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/16(Sun) 19:34:31)
    科学者が言う認知症、

    不潔行為、って知ってる?

    トイレで自分の糞を壁とかいたるところに擦り付けるのよ。

    遊んでるのかもね?
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■20438 / inTopicNo.78)  Re[8]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/16(Sun) 17:54:13)
    山下先生的な記述概念でいうと、
    認知症になって、ハサミだしても鉛筆みたいに使うなら、
    その人の中では、その物体の姿の概念コードが『鉛筆』になってるのかなぁ。

    私、思い出すのは、カント先生が死ぬ2か月前くらいに、急に起き上がり、私はまだ人間に対する感情を忘れていません!ってお医者様に言った、みたいな話。

    人間、が、キラキラした生命、に含意(コード)されてたのかなぁ。(pipitの想像)

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■20437 / inTopicNo.79)  Re[7]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/16(Sun) 16:58:33)
    刻々かぁ。

    カントは、継起する性質を、時間としてるのかなあ


    記憶力がないと、少なくとも主観にとって、概念としての「時間」は生まれない

    構想力(想像力)とよばれる、像を作る能力の取り扱い、ここら辺ややこしいのかもしれないなぁ。
引用返信/返信 削除キー/
■20436 / inTopicNo.80)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/16(Sun) 16:47:04)
    コードも刻々と破壊変形的生滅して
    コードにも歴史が埋もれてて
    だから、産出される表象も、
    刻々と新しいものとなるのかな

    悪魔ちゃんが、まーえに、フッサールさんの幼児のハサミの例出してた記憶があるんだけど、
    コードが変化して産出される概念(コード表象、と山下先生は呼ぶのかな?違うかな?)も刻々と新概念になるのかもだなぁ。
    新概念でも、同じ含意ということはあるかもだけど。

    時 を入れると、刻々それぞれの産出概念になるのかな。
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■20435 / inTopicNo.81)  Re[5]: 超越論的感性論 第三項:W−10
□投稿者/ pipit -(2022/01/16(Sun) 16:35:03)
    うましかさん、こんにちは!

    No20434
    わーーーい、カント先生の文意がモフモフ泉に見えるー
    (相対効果。。。?) 

    > すなわち、その警告とは、空間において直観されるものは、総じて何一つとして事象自体ではなく、また、空間は、ひょっとすると諸物自体そのものに固有であるかもしれないような諸物の一つの形式ではなく、むしろ、対象はそれ自体では私たちには全然未知である、というものであり、
    だから、私たちが外的な対象と名づけるものは私たちの感性の単なる表象以外の何ものでもなく、この感性の形式が空間であるが、しかしこの感性の真の相関者、言い換えれば物自体そのものは、空間というこの形式を通じては全然認識されもしなければ、全然認識されることもできず、しかもそうした物自体は経験において決して問題とはならないという、警告なのである。<

    山下先生の対応箇所の一部分を引用します。

    『見たように、カントは感性を対象の触発による直観の受容性としているわけであるが、これを本当に受容と見てよいのであろうか?
    直観は心性の規定であり、私の内的状態であって、直観の受容とはその変化に他ならない。
    外官を感覚器官と捉えるなら、これは生命システムの構成素の攪乱による意識システムの表象産出に相当するのではないだろうか?
    だとすると、直観形式としての空間と時間は表象のもつ基礎的性質であることになろう。』
    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p28より引用。

    pipit自身の見てるものなどを観察しようとおもうのですが、
    どの時点で対象としてみてるのか、自分では判断できてないです。
    うーん。。。
    自分のことなのに。。。

    うましかさん、書き込みありがとうございます!
    (^○^)

引用返信/返信 削除キー/
■20434 / inTopicNo.82)  超越論的感性論 第三項:W−10
□投稿者/ うましか -(2022/01/16(Sun) 13:46:12)
    2022/01/16(Sun) 13:48:06 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    山下本の読解、おつかれさまです!m(__)m

    なかなか投稿できませんが、pipitさんの考察は楽しみにしてますよー(/・ω・)/



    うましかは、久しぶりのカント沼です!


    *******

    ◆ しかしこの空間以外には、ア・プリオリに客観的と呼ばれ得るでもあろうような、主観的な、しかし何か外的なもの≠ニ連関づけられたいかなる他の表象もない。{だから、すべての外的現象のこの主観的条件はいかなる他の表象とも比較されえない。酒の美味は、その酒の客観的な諸規定の一つではなく、したがって現象とすらみなされた客観の諸規定の一つではなく、その酒を味わう主観がもつ感官の特殊な性質に属する。物体の直観にはその諸性質が結びついているが、いろいろな色は物体のそうした諸性質ではなく、光によって或る仕方で触発される視覚の感官の変様でしかない。これに反して空間は、外的な諸客観の条件として、必然的にこれらの外的な諸客観の現象ないしは直観に属している。味や色は、諸対象がそのものでのみ私たちにとって感官の客観となり得る必然的な条件では全然ない。それらは、特殊な有機的組織の偶然的に付加された結果としてのみ、現象として結合しているに過ぎない。だからそれらは、いかなるア・プリオリな表象でもなく感覚に根拠付けられているのであり、しかもそのうえ美味は感覚の結果としての感情(快と不快の)にすら根拠付けられている。また誰一人としてア・プリオリには、色の表象をも、何らかの味の表象をも、もつことはできない。しかし空間は直観の純粋な形式にのみ関わり、それゆえ、いかなる感覚(なんらの経験的なもの)をも、それ自身のうちに全然含んでおらず、だから空間の全ての様式と規定は、形態ならびに関係の概念が成立すべきであるときにはア・プリオリにすら表象され得るし、また表象され得なければならない。空間を通じてのみ、諸物が私たちにとって外的な対象であるということが可能なのである。}〔なぜなら、人は、空間以外のいかなる表象からも、空間における直観からのようにはア・プリオリな諸綜合的命題を導き出し得ないからである(第三項)。だからそうした表象には、精確に言うと、いかなる観念性も全然帰属しないのであって、たとえそうした表象が、たとえば、色、音、温かさの感覚をつうじての、視覚、聴覚、触覚という感官様式の主観的性質にのみ属するという点では、空間の表象と一致するにせよ、そうであり、しかも、色、音、温かさは、たんに感覚であって直観ではないので、それ自体ではいかなる客観をも、少なくともア・プリオリには認識せしめはしないのである。〕

     ※1 { }内は第一版のみ
     ※2 〔 〕内は第二版のみ

    --- No.20168 からの続き ---

    ◇このようなことを注意した意図は、人がいま主張された空間の観念性をはるかに不十分な実例によって解明しようと思いつくことを予防するためである。つまり、それというのも、例えば色や味などは、当然諸物の性質として考察されるのではなく、私たちの主観の変化、そのうえ異なった人間にあっては異なり得る変化として考察されるからに他ならない。なぜなら、この場合には、もともとそれ自身現象に過ぎないものが、例えばバラが、経験的な意味において物自体そのものとみなされているが、それでもこの物自体そのものは色に関してはあらゆる人々の眼に別様に現象し得るからである。

    ◇これに反して、空間における現象という超越論的概念は、次のような一つの批判的警告なのである〔*1〕。
    すなわち、その警告とは、空間において直観されるものは、総じて何一つとして事象自体ではなく、また、空間は、ひょっとすると諸物自体そのものに固有であるかもしれないような諸物の一つの形式ではなく、むしろ、対象はそれ自体では私たちには全然未知である、というものであり、
    だから、私たちが外的な対象と名づけるものは私たちの感性の単なる表象以外の何ものでもなく、この感性の形式が空間であるが、しかしこの感性の真の相関者、言い換えれば物自体そのものは、空間というこの形式を通じては全然認識されもしなければ、全然認識されることもできず、しかもそうした物自体は経験において決して問題とはならないという、警告なのである。

     *1 以下の訳は、有福孝岳訳(岩波,全集4)、p.105〜p.106も参考にした。

    † 原佑訳上巻、p.159参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434

引用返信/返信 削除キー/
■20430 / inTopicNo.83)  第三章 批判と二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/01/15(Sat) 20:43:18)
    2022/01/15(Sat) 20:47:33 編集(投稿者)

    第三章 批判と二つの視点 第四節 『純粋理性批判』における二つの視点
    に進みます!

    『ジョナサン・ベネットは、カントには観察者の視点とヌーメナ的視点の対比があると言い、これを観察者と感情的応答者および行為者の対比に対応させる(略)。後者がおよそシステムそのものにとっての視点に相当するだろう。』
    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p46より引用

    ヌーメナ?

    検索すると、wikiのヌーメノンの項目にでてきたけど、この意味でいいのかな?

    wikiより(ギリシア語を略します)
    「ヌーメノン」(希: 、noumenon)、あるいは、その複数形の「ヌーメナ」(希: 、noumena)とは、ギリシャ語の「ヌース」(希: , nous、精神)に由来する、「考えられたもの」「仮想物」を意味する語。「フェノメノン」(phenomenon)や「フェノメナ」(phenomena)、すなわち「現象」と対照を成す語であり、ちょうどプラトンが言うところの「イデア」に相当する[1]。
    イマヌエル・カントの哲学においては、「物自体」とほぼ同義で用いられる。

    ん?

    純粋理性が純粋理性を超越論的に反省する、とするとき、
    この反省する、は、
    純理で言われる『認識』ではない。 
    認識するシステムの認識システムそのものにとっての視点となる。。。

    ん?

    山下先生の文章を引用します。

    『『純粋理性批判』が何をしているかをオートポイエーシス論的に言うなば、認識システムがシステムそのものにとっての視点から認識表象の産出という自身の作動形式を記述している、ということになる。
    『純粋理性批判』の言う直観と概念による認識は、オートポイエーシス論の術語で言えば観察に相当する。
    認識システムによる、何かの現れを現す認識表象の産出である。』p47

    ↑多分だけど、一行目と二行目は視点の位置が異なってるって言ってるんだと思っています。

    『先に見た統覚の単純性は、認識システムの単位性と考えられる。チャーマーズの言う意識体験とは、まさに認識システムの表象産出という作動の自覚そのものであるがゆえに、「何ものにも媒介されていない」(チャーマーズ:二四九)のである。』p47

    んー、ちょっとややこしくなっていくのかなぁ

    またここらへんを読んでいきたいと思います。



引用返信/返信 削除キー/
■20425 / inTopicNo.84)  Re[11]: 大外れしてるかもの日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/15(Sat) 08:48:49)
    No20414
    で引用した箇所も、昨日読んだ時よりは、pipitが間違ってる可能性は常にあるもののイメージ形成できるかな。
    昨日は、ほんとに、え?何言ってるのか全然わかりません、とイメージもできなかったから。

    >『とするならカントの言う悟性とは、意識システムにおけるコードに応じた表象産出とコード創発およびコード連鎖の能力と考えることができる。
    (略)
    ただし注意しておかなければならないが、意識システムのレベルのコードは本来コード表象化されていない。
    つまり認知科学で言う、言語化以前の「名無しの概念」である。
    カントは本を書いている関係上、概念に言語で名称をつけねばならないのであるが。
    (略)
    それでも、このコード表象なきコードのみによる思惟は、脳をもつ脊椎動物になら可能と思われる。
    認知科学では「非言語化思考」と呼ばれるこの思惟は、(略)』p30.31<
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