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■20524 / inTopicNo.37)  批判と二つの視点
  
□投稿者/ pipit -(2022/01/25(Tue) 21:51:02)
    批判と二つの視点の章は続きますが、ここで
    第二節として『カント認識論の構図』p40が挿入されますね。

    第三節は『現象と物自体を区別するもの』p43

    で、第四節で、『『純粋理性批判』における二つの視点』! p46

    読んでいきたいと思います
     o(・x・)/

    が、今日はおやすみなさーい ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■20523 / inTopicNo.38)  オートポイエーシス論の二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/01/25(Tue) 21:45:27)
    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p39より引用
    『したがって観察者の視点からだけでは、そもそもオートポイエーシス論を語ることは不可能であり、どうしてもシステムそのものにとっての視点と、そこからの直接知が必要となる。
    特に、観察者の視点に現れるものと、システムそのものにとっての視点から捉えられるものの間に変換関係が一切存在しないので、この区別は決定的なのである。』 

    今の時点での感想ですが、
    オートポイエーシス論としては、物はあるという前提で、物質と非物質の二元論で、ものごとを捉えていく理論なのかなーと思いました。

    山下和也先生的には、
    『オートポイエーシス論は自然科学の枠からはみ出すものではない。』p6
    なんですね。
    _φ(・_・ フムフムー
引用返信/返信 削除キー/
■20521 / inTopicNo.39)  純粋理性は有機体のごとく
□投稿者/ pipit -(2022/01/25(Tue) 17:16:48)
    2022/01/25(Tue) 17:17:29 編集(投稿者)

    No20518
    >すなわち、カントは認識する純粋理性をシステムとして理解しているのである。』
    p41より引用<

    上記記述箇所で山下先生が引用されてるカント文章の一部を引用します。

    山下和也先生訳
    『「それ[純粋思弁的理性]は、まったく独立した、それ自身で存在する統一体であり、そこでは、おのおのの部分が有機体におけるがごとく、他のすべての部分のために存在し、すべての部分は一つの部分のために存在する」(B]]V)。』
    『カントとオートポイエーシス』p40、41

    同箇所の中山元先生訳
    『(略)、思考する純粋な理性はその認識原理については完全に独立し、自存する統一体であるからである。[たとえば]生物の身体のように、それぞれの器官は他の器官のために存在し、反対に全体の統一体はそれぞれの器官のために存在する。』
    『純粋理性批判1』p167
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■20518 / inTopicNo.40)  Re[20]: 観察者
□投稿者/ pipit -(2022/01/25(Tue) 00:05:35)
    みなさまこんばんは
    No20513の続きです。p39


    システムがシステム自体を見えないといっても、システムとシステムからの視点という前提があるもとでは、その視点の現れはシステムの実在の証となってしまう、ということなのかな??

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生p39より引用
    『ただしそれにもかかわらず、システムそのものにとっての視点はシステム自身の実在を知っている。
    なぜなら、この視点の絶対的前提条件はシステムの実在であり、かつ、この視点はまさに実在するシステムそれ自身の視点だからである。システムが実在しないなら、システムそのものにとっての視点も存在しえない。
    また環境の実在を把捉するのも、この視点である。
    オートポイエーシスの本性上、環境なくしてシステムは実在しえないのであるから。と言っても、把捉できるのは実在だけで、その具体的なあり方までもわかるわけではない。
    こうした把捉の仕方は無論、観察ではなく、何かの現れを現す表象の産出とは異なる。
    それは否定しようのない直接性をもった把捉である。
    こうした把捉の仕方を「直接知」と名付けてみた(山下二〇一〇:一八三)』
    引用終了

    pipitの感想
    システムによって『観察』という行為が成り立つとき、
    『観察』という行為によってシステムの実在を【知る】。
    この時の【知る】は、システムによる観察という行為ではなく、行為を通して行為するシステムの自体の実在を把捉している、ということかなと思いました。

    今日思ってたことは、オートポイエーシス論が、システム自身の視点と、観察者の視点の両方を使うが、システム自身の内側からの視点がメインとなるなら、
    例えばわたしが、細胞の内側からの視点、とか言っても推測でしかなく、細胞にとっては観察者・の擬似体験、想像となるだろうから、
    本当の意味で、オートポイエーシス的な内側の視点というのは、この今直接経験している視点しかオートポイエーシス論の体験としては記せないのではないか、ということです。

    この表象がシステムによる結果として出てるなら、この表象の現れはなんらかのシステムの実在を意味する。
    なんかちょっと自己循環的な感じもしちゃいますが、
    なにかの前提(の仮置き)から出発しないと、論というものはたてれないものなのかもな、と、思ったり。

    ちなみに、システム、は、pipitのイメージとしては、いろんなものの組み合わせで動くもの、かな。

    山下先生の本では、システムの説明が出てくる一文としては、例えば
    『こうした記述は、一般システム理論の提唱者であるルードヴィッヒ・フォン・ベルタランフィ(一九〇一-一九七二)によるシステムの定義、「交互作用しあう要素の複合体」(ベルタランフィ:三一)と一致している。
    すなわち、カントは認識する純粋理性をシステムとして理解しているのである。』
    p41より引用
    という箇所がありました。

    では、おやすみなさーい ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■20513 / inTopicNo.41)  Re[19]: 観察者
□投稿者/ pipit -(2022/01/24(Mon) 14:36:36)
    みなさま、こんばんは(^ ^)
    No20486の続きです。

    p38から。

    うぅうぅべんきょういやだ。

    (T ^ T)(^ ^)(T ^ T)(^_^)
    二律背反を表現してみました。。。


    山下和也先生『カントとオートポイエーシス』p38より引用
    『しかも、観察者としての認識システムにはオートポイエーシス・システムである自分自身すら観察できない。
    できるのは、みずから産出する認識表象へ自分自身と見なす現れを現すことだけである。』
    引用終了

    時々、目は目を見られない、という例えを見ますね。
    そのように、観察システムが、自らは観察できない、ということですね(多分)。

    カントの認識論も、少なくとも純理では、その路線で行ってるっぽいですよね。
    (あ、山下先生は重ねられて考えられてるのだから、重なってるのはあたりまえなのかな)

    久々にカント文章引用しますか!

    沼、、、B153あたり(中山先生訳本第2巻p150、独自番号164ー)から読んだら、今の私には、めっちゃ沼でした
    _| ̄|○

    いろいろややこしそうなのですが、ごく一部分を引用します。

    カントの文章、中山元先生訳、第二巻p155より引用
    『外的な感覚能力については、わたしたちが外的に触発されなければ客体を認識できない。
    それと同じように、内的な感覚能力についても、わたしたち自身によって内的に触発されなければ、みずからを直観できないことを認めねばならない。
    すなわち内的な感覚能力については、わたしたちはみずからの主観をそれ自体として〈あるがままに〉認識するのではなく、たんに〈現象として〉認識することを認めざるをえないのである』
    引用終了

    ということで、山下先生本に戻りまして、
    次はp39から。

    p39には、上記にも関わらず、それでも、システムはシステム自身の実在を知っている、と言うことっぽいことが書かれてるっぽいです。

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■20511 / inTopicNo.42)  Re[27]: 思い出す日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/24(Mon) 10:23:13)
    前にね、指に生肉っぽいのまとって、ミニアメリカンドッグみたいな感じにして、ワンくんに、「ホイ。」ってあげたことあるねん。
    アホやね。
    パウチから全然でてこーへん、もったいないやん、って、残ってる中身を指ですくってあげたんやけど、

    ワンくんが、がーーーーっと、食いつきにきた瞬間に、自分の指もっていかれる!!
    可能性に気づいて(アホやわー)

    ワンくん、わたしの指に歯があたるかあたらないかの直前で、ぺろぺろ肉を舐めることに切り替えてくれて。ホッ。

    やさしいワンくん、ありがとう!

    ・・・・

    ちなみに、悪いことしたらあかんね日記

    堤防を散歩してて、ワンくんがうんこして、うんこ袋に入れて持って帰るんだけど、その場所は、下が雑草の森みたいになってて、全く人も入らないようなとこだったので、傾斜60度越えのような斜面にうんこさんをコロコロと転がしたら、ワンくん、ボール的に思ったのか猛ダッシュで追いかけて、、、
    引きずられ、うわぁー!下まで転がり落ちるかと思いました。。。




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■20510 / inTopicNo.43)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/24(Mon) 06:51:22)
    前に悪魔ちゃんが、思考を分けて考えてるって言ってて、
    pipitはきちんとその意味を理解できてないかもだけど、
    その自分勝手なpipit製造イメージからpipitが、今朝思ってたアイデアは、


    思われたものが、表象で、
    考えるものが、関係づくり、で、

    思考で、【表象と表象の関係】。それがまた思われたもの(表象)になるかもだけど。

    オートポイエーシス論の場合、あるサークルの内で思われたもの、が、生滅して、それがきっかけとなり、また別の思われたものが生滅する、その生滅縁起の連鎖

    などとイメージしてました。が、全然違うかもで、

    いやだけどまた勉強するかぁ (´;ω;`)

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■20508 / inTopicNo.44)  思考?
□投稿者/ pipit -(2022/01/23(Sun) 17:01:34)
    動物 思考 で検索したら、
    魚が論理的思考してる可能性あるとするページがでてきました。

    ほんとのこと、は、まだまだ 謎 なんでしょうけどね

    https://www.osaka-cu.ac.jp/ja/news/2015/uybs1u
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■20497 / inTopicNo.45)  Re[24]: 観察者
□投稿者/ pipit -(2022/01/22(Sat) 19:21:41)
    No20496
    悪魔ちゃん、いろいろ答えてくれてありがとう!

    >観察者は「おのれ」を”外から見る”のであって、”そのもののうちで”見ようとしない立場なんじゃないかしら?<

    うん、わたしも、今のところそう思ってるんよ。

    オートポイエーシスをきちんと知らないpipitが勝手に述べると、
    オートポイエーシス論は、どちらの立場も使うかもだけど。

    どこからの視点かをその場その場でわきまえて(把握して)、組み合わせて使うのかな???
    (違ったらごめん)

    わりかし?おもしろいよ。
    目に見えるもの、と、見えないもの、の区別とかもあるかもしれないなぁ。
    なんか今、宿題姉様のこと思い浮かべたよ。。。

    ありがとうね!



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■20496 / inTopicNo.46)  Re[23]: 観察者
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/22(Sat) 18:59:36)
    ■20494、pipitさま、

    >「知る」って、なんだろう、って時々考えるんよ<
    わたしも。
    ふつう、「本当のことを知る」とか「それが嘘であったということ知った」みたいに使われるじゃん。「知る」=「認知」、あるいは「認識」(認識活動とその結果の知識)ともわたし見てる。一般的に〈本当のことことを知りたい〉って思ってるんじゃないかしら?だから「知ること」と「知られたもの」(認識活動とその結果の知識)は本当のことであることが望ましいって。だってわたしの知ってることが嘘だったらイヤじゃん。

    >『おのれ』って、悪魔ちゃん、それぞれのおのれに、英訳当てれる?<
    「おのれ」を英語で言ったら、っていうこと?
    ハイデガーの『存在と時間』の訳本では「おのれ」ってひらがなで訳される。原本ではどういう外国語が使われてるのかわかんない(わたしそれを調べるだけの能なし〜。だれか知ってる人がいたら教えて)。

    わたしの勝手な「おのれ」について書いて見るね。
    @ABCすべて同じ意味だと思ってる。だって、もしそれぞれ異なる外国語だったら訳者も別々の日本語を当てたはず、って思ってるから。

    でね、英語で言うのよね。わたし外国語得意じゃないからネットで少し調べて見たのね。

    私自身→I myself
    自分自身→myself←自分→oneself
    己→self

    こんな感じのみたいなんがあった。なんかよくわかんなかったんだけど。
    で、どうしようかな〜って、「おのれ」っていうのは”人の”だけに限ってないって見て、「self」ってすることにしたよ。

    カントの「物自体」っていうのあるじゃん。これも「おのれ」「self」に入るのかな?

    「現象学」とは、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせること。」
    って言ってるけど、これってけっこう難しいこと(不可能に近い)なんだとわたし見てる。でも、現象学はその難問に挑んでるようにもわたし思えるね。ん〜ん、語りえぬものには沈黙しちゃう人とは違ってね。

    観察者は「おのれ」を”外から見る”のであって、”そのもののうちで”見ようとしない立場なんじゃないかしら?

    な〜んか、コロナで引きもっちゃってお喋りしちゃった。






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■20494 / inTopicNo.47)  Re[22]: 観察者
□投稿者/ pipit -(2022/01/22(Sat) 16:47:37)
    No20492
    悪魔ちゃん、返信ありがとう!

    >生物学っていう科学者の、生命体が世界をどのように認知観察しているかについての、見方なのかな?<

    pipitの中で勝手に変換されてる感覚で言うね。

    「知る」って、なんだろう、って時々考えるんよ。

    本来のオートポイエーシス論は難しくてわたしにはわからないけど、
    山下先生の考え方の枠組みは、わたしにはおもしろく思えてて。

    > 「現象学」とは、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせること。」<

    【おのれ@を示す当のものを、そのものがおのれAをおのれB自身のほうから示すとおりに、おのれC自身の方から見えるようにさせること。】

    この、『おのれ』って、悪魔ちゃん、それぞれのおのれに、英訳当てれる?
    悪魔ちゃんの中で思ってるものでいいから、対応させてもらってもいい?

    pipitには、なんの意味の『おのれ』か、わからなくて。




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■20492 / inTopicNo.48)  Re[21]: 観察者
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/22(Sat) 15:07:59)
    ■20488、pipitさま、

    >わたし、というシステムの働き方、の見方の一つ<
    了解しときま〜す。
    pipitさまに紹介してもらったのから、
    ・生物学者ウンベルト・マトゥラーナとその弟子のフランシスコ・ヴァレラによって提唱された。
    ・オートポイエーシスとは、生命体がいかに世界を認知観察しているかという生命の本質を考察するための理論に由来するもの。
    これが「オートポイエーシス」の端緒みたいね。
    生物学っていう科学者の、生命体が世界をどのように認知観察しているかについての、見方なのかな?

    >悪魔ちゃん、「現象学」ってなあに ?<
    「現象学」っていうのはね、『存在と時間』のなかでハイデガーが言ってるのをそうしてる。

    「現象学」で言う「現象」ギリシア語phainomenon(ファイノメノン)とは、「おのれを示す当のもの」。
    そして、
    「現象学」とは、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせること。」

    こういうことにしてる。

    ドイツ語にErscheinungっていうのがあってこれも「現象」って訳されているみたいだけど、こっちじゃなくてphainomenonの方の。

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