□投稿者/ pipit -(2022/01/21(Fri) 17:09:02)
| みなさま、こんにちは。
No20485 山下先生の言う「観察者」とは、何者でしょうか?
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24254/1/Yamashita.pdf 『システム論的自我論 ―カントとオートポイエーシス―』 山下和也先生 に、以下の記述があり、ここから考えていきます。
引用開始 『先にシステムの自己はシステムの外から観察できないと述べた。 先に挙げた例では、 化学反応そのものは我々には見えず、見えるのは産出される化学物質だけである。 そ れではオートポイエーシス論はいかにして論じることができるのだろうか。 簡単に言 えば、システム自身の視点を取り、システムの作動を「それ自体で内的に直観するよ うに」xi描き出すのである。 マトゥラーナはしばしばオートポイエーシス・システムを 潜水艦に喩える。 潜水艦の中で起きていることは、潜水艦の外から見たこととは、ま ったく異なっている。外から見れば、潜水艦の乗員は潜水艦を操縦しているのだが、 潜水艦の乗員自身はそこにある装置を一定の手順で操作しているに過ぎない。このよ うにシステムの内部の、システムにとっての視点から、システムの作動をいわば追体 験するように記述していくのがオートポイエーシス論なのである。』 引用終了
上記引用文の例で言えば、 【潜水艦を外から見てる者】が、観察者ではないかと、pipitは思いました。 ※オートポイエーシス論自体は、『システムの内部の、システムにとっての視点から、システムの作動をいわば追体 験するように記述していくのがオートポイエーシス論』がメインとなるのかもですが。
No20485に戻りまして、 >p37 山下和也先生『カントとオートポイエーシス』より引用
『上述した認識システムが観察者であり、その認識表象における現れの産出が観察である。 観察の対象とは現れである何かを指す。 具体的には見えているリンゴであったり、本であったりするわけである。 つまり、対象もまた認識表象において存する。 したがって、観察は認識表象の内部で完結している。』 引用終了<
これがわかるようでいまいちわからない。
あ、 ちょっと、つながっていくかも?、、、
No20430 >純粋理性が純粋理性を超越論的に反省する、とするとき、 この反省する、は、 純理で言われる『認識』ではない。 認識するシステムの認識システムそのものにとっての視点となる。。。 ん? 山下先生の文章を引用します。 『『純粋理性批判』が何をしているかをオートポイエーシス論的に言うなば、認識システムがシステムそのものにとっての視点から認識表象の産出という自身の作動形式を記述している、ということになる。 『純粋理性批判』の言う直観と概念による認識は、オートポイエーシス論の術語で言えば観察に相当する。 認識システムによる、何かの現れを現す認識表象の産出である。』p47 ↑多分だけど、一行目と二行目は視点の位置が異なってるって言ってるんだと思っています。<
んー、p47かぁ、まだ先だなぁ。
純理においては、認識には感性も悟性も両方必要、ってことになってると思うけど、 それは、観察者にとっての認識の条件ということで、 純理の記述自体は純理の視点からの記述になってて、 その区別を頭に置いて、カントの文章を読んでみると、わかりやすくなるってかんじなのかな??
とりあえず『観察者』についての記述続きます。p38より
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