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No20430 の記事


■20430 / )  第三章 批判と二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/01/15(Sat) 20:43:18)
    2022/01/15(Sat) 20:47:33 編集(投稿者)

    第三章 批判と二つの視点 第四節 『純粋理性批判』における二つの視点
    に進みます!

    『ジョナサン・ベネットは、カントには観察者の視点とヌーメナ的視点の対比があると言い、これを観察者と感情的応答者および行為者の対比に対応させる(略)。後者がおよそシステムそのものにとっての視点に相当するだろう。』
    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p46より引用

    ヌーメナ?

    検索すると、wikiのヌーメノンの項目にでてきたけど、この意味でいいのかな?

    wikiより(ギリシア語を略します)
    「ヌーメノン」(希: 、noumenon)、あるいは、その複数形の「ヌーメナ」(希: 、noumena)とは、ギリシャ語の「ヌース」(希: , nous、精神)に由来する、「考えられたもの」「仮想物」を意味する語。「フェノメノン」(phenomenon)や「フェノメナ」(phenomena)、すなわち「現象」と対照を成す語であり、ちょうどプラトンが言うところの「イデア」に相当する[1]。
    イマヌエル・カントの哲学においては、「物自体」とほぼ同義で用いられる。

    ん?

    純粋理性が純粋理性を超越論的に反省する、とするとき、
    この反省する、は、
    純理で言われる『認識』ではない。 
    認識するシステムの認識システムそのものにとっての視点となる。。。

    ん?

    山下先生の文章を引用します。

    『『純粋理性批判』が何をしているかをオートポイエーシス論的に言うなば、認識システムがシステムそのものにとっての視点から認識表象の産出という自身の作動形式を記述している、ということになる。
    『純粋理性批判』の言う直観と概念による認識は、オートポイエーシス論の術語で言えば観察に相当する。
    認識システムによる、何かの現れを現す認識表象の産出である。』p47

    ↑多分だけど、一行目と二行目は視点の位置が異なってるって言ってるんだと思っています。

    『先に見た統覚の単純性は、認識システムの単位性と考えられる。チャーマーズの言う意識体験とは、まさに認識システムの表象産出という作動の自覚そのものであるがゆえに、「何ものにも媒介されていない」(チャーマーズ:二四九)のである。』p47

    んー、ちょっとややこしくなっていくのかなぁ

    またここらへんを読んでいきたいと思います。



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