□投稿者/ pipit -(2022/01/25(Tue) 00:05:35)
| みなさまこんばんは No20513の続きです。p39
システムがシステム自体を見えないといっても、システムとシステムからの視点という前提があるもとでは、その視点の現れはシステムの実在の証となってしまう、ということなのかな??
『カントとオートポイエーシス』山下和也先生p39より引用 『ただしそれにもかかわらず、システムそのものにとっての視点はシステム自身の実在を知っている。 なぜなら、この視点の絶対的前提条件はシステムの実在であり、かつ、この視点はまさに実在するシステムそれ自身の視点だからである。システムが実在しないなら、システムそのものにとっての視点も存在しえない。 また環境の実在を把捉するのも、この視点である。 オートポイエーシスの本性上、環境なくしてシステムは実在しえないのであるから。と言っても、把捉できるのは実在だけで、その具体的なあり方までもわかるわけではない。 こうした把捉の仕方は無論、観察ではなく、何かの現れを現す表象の産出とは異なる。 それは否定しようのない直接性をもった把捉である。 こうした把捉の仕方を「直接知」と名付けてみた(山下二〇一〇:一八三)』 引用終了
pipitの感想 システムによって『観察』という行為が成り立つとき、 『観察』という行為によってシステムの実在を【知る】。 この時の【知る】は、システムによる観察という行為ではなく、行為を通して行為するシステムの自体の実在を把捉している、ということかなと思いました。
今日思ってたことは、オートポイエーシス論が、システム自身の視点と、観察者の視点の両方を使うが、システム自身の内側からの視点がメインとなるなら、 例えばわたしが、細胞の内側からの視点、とか言っても推測でしかなく、細胞にとっては観察者・の擬似体験、想像となるだろうから、 本当の意味で、オートポイエーシス的な内側の視点というのは、この今直接経験している視点しかオートポイエーシス論の体験としては記せないのではないか、ということです。
この表象がシステムによる結果として出てるなら、この表象の現れはなんらかのシステムの実在を意味する。 なんかちょっと自己循環的な感じもしちゃいますが、 なにかの前提(の仮置き)から出発しないと、論というものはたてれないものなのかもな、と、思ったり。
ちなみに、システム、は、pipitのイメージとしては、いろんなものの組み合わせで動くもの、かな。
山下先生の本では、システムの説明が出てくる一文としては、例えば 『こうした記述は、一般システム理論の提唱者であるルードヴィッヒ・フォン・ベルタランフィ(一九〇一-一九七二)によるシステムの定義、「交互作用しあう要素の複合体」(ベルタランフィ:三一)と一致している。 すなわち、カントは認識する純粋理性をシステムとして理解しているのである。』 p41より引用 という箇所がありました。
では、おやすみなさーい ☆彡
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