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No17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764 の記事


■17515 / )  超越論的感性論 第二項:V−1
□投稿者/ うましか -(2021/10/14(Thu) 00:32:45)
    2021/11/13(Sat) 15:46:31 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー
    おじゃまします。

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第一節 空間について 〔Von den Raume〕 
     第二項 空間概念の形而上学的論究 〔§2 Metaphysische Eroerterung dieses Begriffs〕

    ◇外的感官〔aeusseren Sinnes〕(私たちの心の一つの固有性〔einer Eigenschaft unseres Gemuets〕)を介して私たちは、諸対象〔Gegenstaende〕を私たちの外なるものとして表象し、だからこれらの諸対象をことこどく空間において表象する。この空間において、それらの形態、大きさ、相互関係が規定されているか、あるいは規定されうる。

     ※1 外的感官を介して、諸対象は私たちの外なるものとして表象される。
     ※2 外的感官を介して、諸対象は空間において表象され、形態、大きさ、相互関係が規定される。
     ※3 外的感官は、私たちの心の性質の一つである。

    ◇内的感官〔innere Sinn〕は、心がそれを介して自分自身を、或いは自分の内的状態〔innern Zustandes〕を直観するもので、なるほど一つの客観〔Objekt〕としての魂自身〔Seele selbst〕についていかなる直観も与えはしないが、しかしながらやはり、魂の内的状態の直観がそのもとでのみ可能である一定の形式であり、それゆえ内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。

     ※4 内的感官を介して、心は自分自身か内的状態を直観する。
     ※5 内的感官を介しては、一つの客観としての魂の内的状態のいかなる直観も与えられないが、にもかかわらず、それが可能になる一定の形式である。
     ※6 それゆえ?内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。(;´・ω・)?
     ※7 心〔Gemuet〕、魂〔Seele〕、これらの相違は?

    ◇外的には時間が直観されえないのは、空間が私たちの内なる或るものとして直観されえないのと同様である。

     ※8 外的感官を介して、空間は直観されるが、時間は直観されえない?
     ※9 内的感官を介して、時間は直観されるが、空間は直観されえない?



    † 原佑訳上巻、p.149参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

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■17588 / )  超越論的感性論 第二項:V−2
□投稿者/ うましか -(2021/10/15(Fri) 19:55:53)
    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    ◇ところで空間と時間とはなんであろうか?それらは現実に存在するものであろうか?

    ◇それらは、なるほど諸物〔Dinge〕の規定あるいはまた関係に過ぎないものではあるが、しかしやはり、たとえ諸物自体は直観されるわけがないにせよ、諸物自体にも帰属すべきはずのものであろうか、

    ◇それとも、それらは単に直観の形式にのみ付着するものであって、したがって空間と時間というこれらの述語がそれなくしてはいかなる物にも付加されえないところの私たちの心の主観的性質にのみ付着するものであろうか?

    ◇この点を明らかにするために、私たちはまず空間の概念を論究〔eroertern〕しようと〔*1〕思う。

     *1 「空間の概念を論究しようと…」は、第一版では「空間を考察しようと…」

    ◇しかし私は、論究〔Eroerterung〕(expositio)≠ニいうことを或る概念に属する判明な(たとえ詳細ではないにせよ)表象と理解する。

    ◇だが論究は、それがその概念をア・プリオリに与えられたものとして〔als a priori gegeben〕¥柾qする〔darstellt〕ものを含んでいるときには、形而上学的〔metaphysisch〕≠ナある。


    † 原佑訳上巻、p.149〜p.150参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    V−1 No.17515
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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■17841 / )  超越論的感性論 第二項:V−3
□投稿者/ うましか -(2021/10/21(Thu) 19:15:30)
    pipitさん、こんばんはー

    *******

    ◆外的感官(私たちの心の一つの固有性を介して私たちは、諸対象〔Gegenstaende〕を私たちの外なるものとして表象し、だからこれらの諸対象をことこどく空間において表象する。この空間において、それらの形態、大きさ、相互関係が規定されているか、あるいは規定されうる。内的感官は、心がそれを介して自分自身を、或いは自分の内的状態を直観するもので、なるほど一つの客観〔Objekt〕としての魂自身についていかなる直観も与えはしないが、しかしながらやはり、魂の内的状態の直観がそのもとでのみ可能である一定の形式であり、それゆえ内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。外的には時間が直観されえないのは、空間が私たちの内なる或るものとして直観されえないのと同様である。ところで空間と時間とはなんであろうか?それらは現実に存在するものであろうか?それらは、なるほど諸物〔Dinge〕の規定あるいはまた関係に過ぎないものではあるが、しかしやはり、たとえ諸物自体は直観されるわけがないにせよ、諸物自体にも帰属すべきはずのものであろうか、それとも、それらは単に直観の形式にのみ付着するものであって、したがって空間と時間というこれらの述語がそれなくしてはいかなる物にも付加されえないところの私たちの心の主観的性質にのみ付着するものであろうか?この点を明らかにするために、私たちはまず空間の概念を論究しようと思う。しかし私は、論究〔Eroerterung〕(expositio)≠ニいうことを或る概念に属する判明な(たとえ詳細ではないにせよ)表象と理解する。だが論究は、それがその概念をア・プリオリに与えられたものとして¥柾qするものを含んでいるときには、形而上学的≠ナある。

    --- No17515,17588 からの続き ---

    ◇ 1 空間は、外的な諸経験〔aeusseren Erfarungen〕から抽象されたいかなる経験的概念〔empirischer Begriff〕でもない。

    ◇なぜなら、或る種の諸感覚が私の外なる或るものと(言いかえれば、私が現にしめている場所とは別の空間の場所をしめている或るものと)連関づけられるためには、
    また同じく、私がそれらの諸感覚を、たがいに分離しかつ並存し〔*1〕ているものとして、したがって異なっているのではなく、異なった場所にあるものとして表象しうるためには、
    空間の表象がすでにその根底になければならないからである。

    *1 第一版では「たがいに分離し」とある。

    ◇したがって空間の表象は外的現象〔aeussern Erscheinung〕の諸関係から経験をつうじて借りてこられたものではなく、この外的経験がそれ自身前記の空間という表象によってのみはじめて可能である。


    † 原佑訳上巻、p.149〜p.150参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    V−1 No.17515、V−2 No.17588
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588

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■17945 / )  超越論的感性論 第二項:V−4
□投稿者/ うましか -(2021/10/24(Sun) 09:39:53)
    2021/10/24(Sun) 16:00:46 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、おはようございますー

    *******

    ◆ 1 空間は、外的な諸経験〔aeusseren Erfarungen〕から抽象されたいかなる経験的な概念〔empirischer Begriff〕でもない。なぜなら、或る種の諸感覚が私の外なる或るものと(言いかえれば、私が現にしめている場所とは別の空間の場所をしめている或るものと)連関づけられるためには、また同じく、私がそれらの諸感覚を、たがいに分離しかつ並存しているものとして、したがって異なっているのではなく、異なった場所にあるものとして表象しうるためには、空間の表象がすでにその根底になければならないからである。したがって空間の表象は外的な現象〔aeussern Erscheinung〕の諸関係から経験をつうじて借りてこられたものではなく、この外的経験がそれ自身前記の空間という表象によってのみはじめて可能である。

    --- No.17841 からの続き ---

    ◇ 2 空間は、全ての外的な直観の根底にある一つのア・プリオリで必然的な表象である。

     ※1 外的と内的、その区別の導入。何を境界とする、内・外か?
     ※2 外的な経験と内的な経験。「人間の認識構造」(黒崎〔『純理』入門〕, p.75)における位置づけ

    ◇人はたとえ空間のうちにいかなる対象も見いだされないということを十分考え得るにしても、いかなる空間も存在しないということについては決して表象することはできない。

    ◇それゆえ空間は諸現象の可能性の条件とみなされるものであり、諸現象に依存する一つの規定とみなされるものではなく、だから外的な諸現象の根底に必然的にある一つのア・プリオリな表象である。

     ※3 空間とは、諸現象の可能性の条件である。



    † 原佑訳上巻、p.150〜p.151参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841

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■18058 / )  超越論的感性論 第二項:V−5
□投稿者/ うましか -(2021/10/29(Fri) 07:54:59)
    2021/10/29(Fri) 07:56:45 編集(投稿者)

    pipitさん、おくたがわさん、皆さん、おはようございますー

    いつもコメントをくださりありがとうございます!

    私の力不足でちゃんと返信できませんが(´;ω;`)ウッ…、沼で溺れかけている私にとっては貴重な刺激です。ありがとうございますm(__)m

    *******

    ◆ 2 空間は、全ての外的な直観の根底にある一つのア・プリオリで必然的な表象である。人はたとえ空間のうちにいかなる対象も見いだされないということを十分考え得るにしても、いかなる空間も存在しないということについては決して表象することはできない。それゆえ空間は諸現象の可能性の条件とみなされるものであり、諸現象に依存する一つの規定とみなされるものではなく、だから外的な諸現象の根底に必然的にある一つのア・プリオリな表象である。

    --- No.17945 からの続き ---

    ◇3 このア・プリオリな必然性に、全ての幾何学的な諸原則の確然的な確実性と、それらの諸原則のア・プリオリな構成の可能性とが根拠づけられている。

    ◇すなわち空間というこの表象が、一般的で外的な経験から得られた一つのア・ポステリオリに獲得された概念であるとすれば、数学的規定の最初の諸原則は知覚以外の何ものでもなくなるだろう。

    ◇それゆえ、それらの諸原則は知覚のあらゆる偶然性をもつことになり、だから二点間にはただ一つの直線があるということも、必ずしも必然的ではなくなり、経験がこのことをそのようにいつでも教えるということになるであろう。

    ◇経験から借用してきているものは比較的な普遍性、つまり帰納による普遍性しかもってはいない。それゆえ人が言いうるのは、いままで認められたかぎりでは三次元以上をもついかなる空間も見いだされていないということだけであろう。


    † 原佑訳上巻、p.151参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−4 No.17945、V−5 No.18058
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841,17945,18058

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■18323 / )  超越論的感性論 第二項:V−6
□投稿者/ うましか -(2021/11/04(Thu) 20:58:50)
    2021/11/04(Thu) 20:59:58 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    ◆ 3 このア・プリオリな必然性に、全ての幾何学的な諸原則の確然的な確実性と、それらの諸原則のア・プリオリな構成の可能性とが根拠づけられている。すなわち空間というこの表象が、一般的で外的な経験から得られた一つのア・ポステリオリに獲得された概念であるとすれば、数学的規定の最初の諸原則は知覚以外の何ものでもなくなるだろう。それゆえ、それらの諸原則は知覚のあらゆる偶然性をもつことになり、だから二点間にはただ一つの直線があるということも、必ずしも必然的ではなくなり、経験がこのことをそのようにいつでも教えるということになるであろう。経験から借用してきているものは比較的な普遍性、つまり帰納による普遍性しかもってはいない。それゆえ人が言いうるのは、いままで認められたかぎりでは三次元以上をもついかなる空間も見いだされていないということだけであろう。

    --- No.18058 からの続き ---

    ◇ 4〔*1〕 空間は、諸物一般の諸関係についてのいかなる論弁的な〔diskursiver〕概念ないしは、よく言われるように、一般的な〔allgemainer〕概念ではなく、一つの純粋な直観である。なぜなら、第一に、人は唯一の空間〔einigen Raum〕を表象し得るに過ぎず、だから多くの諸空間についての語るときには、それらを同一の唯一の空間の諸部分と解しているに過ぎないからである。

     *1 第二版では3

     ※1 空間とは諸物一般の諸関係についての一つの純粋な直観である(;´・ω・)?
     ※2 なぜなら、人は唯一の空間を表象し得るに過ぎないからである。

    ◇これらの諸部分もまた、すべてを包括する唯一の空間のいわば諸構成要素(それからこの空間の合成が可能であるような)として、この唯一の空間に先行するのではなく、この唯一の空間のうちで≠フみ、思考されるに過ぎない。

     ※3 全てを包括する唯一の空間(;゚Д゚)

    † 原佑訳上巻、p.151〜p.152参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841,17945,18058,18323

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■18378 / )  超越論的感性論 第二項:V−7
□投稿者/ うましか -(2021/11/05(Fri) 21:24:45)
    2021/11/05(Fri) 21:25:55 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    ◇ 4 〔第二版では3〕 空間は、諸物一般の諸関係についてのいかなる論弁的な概念ないしは、よく言われるように、一般的な〔allgemainer〕概念ではなく、一つの純粋な直観である。なぜなら、第一に、人は唯一の空間〔einigen Raum〕を表象し得るに過ぎず、だから多くの諸空間についての語るときには、それらを同一の唯一の空間の諸部分と解しているに過ぎないからである。

    ◇これらの諸部分もまた、すべてを包括する唯一の空間のいわば諸構成要素(それからこの空間の合成が可能であるような)として、この唯一の空間に先行するのではなく、この唯一の空間のうちで≠フみ、思考されるに過ぎない。

    --- No.18323 からの続き ---

    ◇ 空間は本質的に唯一であり、空間における多様なもの、したがって諸空間一般についての一般的な概念もまた、もっぱらこの唯一の空間の制限〔Einschraenkung〕に基づいている。このことから生ずるのは、空間に関しては一つのア・プリオリな直観(経験的ではない直観〔die nicht empirisch ist〕)が空間についての全ての概念の根底にあるということである。

    ◇ そこで、全ての幾何学的な原則も、例えば、三角形における二辺の和は他の一辺のよりも大きいという原則も、決して線と三角形とについての一般的な概念から導出されるのではなく、直観から、しかもア・プリオリに確然的な〔apodiktischer〕確実性をもって導出されるのである。


    † 原佑訳上巻、p.152参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−7 No.18378
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378

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■18764 / )  超越論的感性論 第二項:V−8
□投稿者/ うましか -(2021/11/13(Sat) 11:04:41)
    2021/11/13(Sat) 22:11:28 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんにちはー(/・ω・)/ 

    *******

    ◆ 4 〔第二版では3〕 空間は、諸物一般の諸関係についてのいかなる論弁的な概念ないしは、よく言われるように、一般的な〔allgemainer〕概念ではなく、一つの純粋な直観である。なぜなら、第一に、人は唯一の空間〔einigen Raum〕を表象し得るに過ぎず、だから多くの諸空間についての語るときには、それらを同一の唯一の空間の諸部分と解しているに過ぎないからである。これらの諸部分もまた、すべてを包括する唯一の空間のいわば諸構成要素(それからこの空間の合成が可能であるような)として、この唯一の空間に先行するのではなく、この唯一の空間のうちで≠フみ、思考されるに過ぎない。空間は本質的に唯一であり、空間における多様なもの、したがって諸空間一般についての一般的な概念もまた、もっぱらこの唯一の空間の制限〔Einschraenkung〕に基づいている。このことから生ずるのは、空間に関しては一つのア・プリオリな直観(経験的ではない直観〔die nicht empirisch ist〕)が空間についての全ての概念の根底にあるということである。そこで、全ての幾何学的な原則も、例えば、三角形における二辺の和は他の一辺のよりも大きいという原則も、決して線と三角形とについての一般的な概念から導出されるのではなく、直観から、しかもア・プリオリに確然的な〔apodiktischer〕確実性をもって導出されるのである。

    --- No.18323,18378 からの続き ---

    ◆ 5 空間は与えられた無限の大きさ〔eine unendliche Groesse〕として表象される。空間の一般的な概念は(これは1フィートにおいても、1エレ〔*1〕においても、共通して含まれているが)、大きさに関しては何ものをも規定し得ない。

    *1 エレ(Elle)は、ドイツの昔の尺度で55〜85cmとのこと〔原訳上巻,p.542〕

    ◇ 直観の進行において無際限〔Grenzenlosigkeit〕ということがなかったなら、諸関係についてのいかなる概念も無限性〔Unendlichkeit〕という原理をおびることはないであろう。

    ◆ 4〔*2〕 空間は無限の与えられた¢蛯ォさとして表象される。
    ところで、人はなるほどそれぞれの概念を、無数のさまざまの可能的な諸表象のうちに(それらの共通的徴表として)含まれているところの、
    したがってそれらの無数の諸表象をおのれ自身のもとに♀ワむところの、
    一つの表象として思考するに違いない。

    *2 第二版による。

    ◇ しかしいかなる概念も、一つの概念としては、あたかも無数の諸表象もおのれ自身のうちに♀ワむかのように思考されることはできない。ところが、それにもかかわらず、空間はそのように思考されるのである。(なぜなら、無限に分割された空間のすべての諸部分は同時に存在するからである)。

    ◇ それゆえ空間についての根源的な表象はア・プリオリな直観≠ナあって、だから概念≠ナはない。

    † 原佑訳上巻、p.152〜p.153参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764

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