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No16454 の記事


■16454 / )  超越論的感性論 第一項:T−2
□投稿者/ うましか -(2021/09/18(Sat) 21:38:25)
    続きです(・ω・)ノ

    *******

    ◇たとえどのような仕方で、またどのような手段によって認識〔Erkenntnis〕が対象〔Gegenstaende〕と連関するにせよ、認識がそれを通じて対象と直接的に連関し、また手段としての全ての思考〔alles Denken〕がそれを目標にして追い求めるものは直観〔Anschauung〕≠ナある。

    ◇しかしこの直観は、私たちに対象が与えられる限りにおいて生ずるものである。だが、このことはこれまた、少なくとも私たち人間には、その対象が心〔Gemuat〕を或る種の仕方で触発する〔affiziere〕ことによってのみ可能である。

    --- No.16440 からの続き ----

    ◇私たちが対象によって触発される仕方によって、表象〔Vorstellungen〕を得る性能(受容性〔Rezeptivitaet〕)は、感性〔Sinnlichkeit〕≠ニ呼ばれる。それゆえ、感性を介して私たちには対象が与えられ〔gegeben〕=Aだから感性のみが私たちに直観≠提供する。しかし悟性をよって対象は思考され=Aだから悟性から概念〔Begriffe〕≠ェ生ずる。

     ※1 私たちに対象が与えられ、私たちの心が対象に触発されることで直観が生ずる。
     ※2 私たちは感性を介して対象を与えられる。
     ※3 感性とは表象を得る性能(受容性)である。
     ※4 悟性によって対象は思考され、悟性から概念が生ずる。
     ※5 No.16076 >私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考される< → 原佑訳上巻、p.141(序論)

    ◇しかし、すべての思考は、まっすぐに(直接的に)であろうと、回り道して(間接的に)であろうと、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、結局は直観と、したがって、私たちにあっては、感性と連関せざるを得ない。というのは私たちは別の仕方ではいかなる対象も与えられ得ないからである。

     ※6 「認識の二つの幹」(序論)、感性と悟性の連関。悟性によって対象は思考されるが、思考は直接的であれ間接的であれ、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、直観と、そしてそれを提供する感性と連関する。
     ※7 「或る種の徴表〔Merkmale〕」とは何か(;´・ω・)?

    →原佑訳上巻、p.145〜p.146参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。今後、文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします(後に訂正、削除、修正等することがあります。)。また≠ナ囲まれた言葉は文中で強調されたものとします。

    *******

    T−1 No.16440

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