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No16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588 の記事


■16440 / )  超越論的感性論 第一項:T−1 
□投稿者/ うましか -(2021/09/18(Sat) 13:55:01)
    T 超越論的原理論 〔Der Transzendentalen Elementarlehre〕

    第一部門 超越論的感性論 〔Erster Teil  Die Transzendentale Aesthetik〕
     第一項 〔§1〕

    ◇たとえどのような仕方で、またどのような手段によって認識〔Erkenntnis〕が対象〔Gegenstaende〕と連関するにせよ、認識がそれを通じて対象と直接的に連関し、また手段としての全ての思考〔alles Denken〕がそれを目標にして追い求めるものは直観〔Anschauung〕≠ナある。

     ※1 認識は対象と連関する。
     ※2 認識は直観を通じて対象と直接に連関する。
     ※3 認識が対象に連関する際の手段としての思考が目標として追求するのは直観。

    ◇しかしこの直観は、私たちに対象が与えられる限りにおいて生ずるものである。だが、このことはこれまた、少なくとも私たち人間には、その対象が心〔Gemuat〕を或る種の仕方で触発する〔affiziere〕ことによってのみ可能である。

     ※4 直観は、対象が私たちに与えられると生ずる。
     ※5 ↑は対象が心を触発することによってのみ可能。
     ※6 はじめに対象ありき?対象無しでは思考、認識はじまらない?
     ※7 心〔the mind〕は、対象と独立して存在し、それに触発される。


    →原佑訳上巻、p.145参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。今後、文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします(後に訂正、削除、修正等することがあります。)。また≠ナ囲まれた言葉は文中で強調されたものとします。
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■16454 / )  超越論的感性論 第一項:T−2
□投稿者/ うましか -(2021/09/18(Sat) 21:38:25)
    続きです(・ω・)ノ

    *******

    ◇たとえどのような仕方で、またどのような手段によって認識〔Erkenntnis〕が対象〔Gegenstaende〕と連関するにせよ、認識がそれを通じて対象と直接的に連関し、また手段としての全ての思考〔alles Denken〕がそれを目標にして追い求めるものは直観〔Anschauung〕≠ナある。

    ◇しかしこの直観は、私たちに対象が与えられる限りにおいて生ずるものである。だが、このことはこれまた、少なくとも私たち人間には、その対象が心〔Gemuat〕を或る種の仕方で触発する〔affiziere〕ことによってのみ可能である。

    --- No.16440 からの続き ----

    ◇私たちが対象によって触発される仕方によって、表象〔Vorstellungen〕を得る性能(受容性〔Rezeptivitaet〕)は、感性〔Sinnlichkeit〕≠ニ呼ばれる。それゆえ、感性を介して私たちには対象が与えられ〔gegeben〕=Aだから感性のみが私たちに直観≠提供する。しかし悟性をよって対象は思考され=Aだから悟性から概念〔Begriffe〕≠ェ生ずる。

     ※1 私たちに対象が与えられ、私たちの心が対象に触発されることで直観が生ずる。
     ※2 私たちは感性を介して対象を与えられる。
     ※3 感性とは表象を得る性能(受容性)である。
     ※4 悟性によって対象は思考され、悟性から概念が生ずる。
     ※5 No.16076 >私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考される< → 原佑訳上巻、p.141(序論)

    ◇しかし、すべての思考は、まっすぐに(直接的に)であろうと、回り道して(間接的に)であろうと、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、結局は直観と、したがって、私たちにあっては、感性と連関せざるを得ない。というのは私たちは別の仕方ではいかなる対象も与えられ得ないからである。

     ※6 「認識の二つの幹」(序論)、感性と悟性の連関。悟性によって対象は思考されるが、思考は直接的であれ間接的であれ、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、直観と、そしてそれを提供する感性と連関する。
     ※7 「或る種の徴表〔Merkmale〕」とは何か(;´・ω・)?

    →原佑訳上巻、p.145〜p.146参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。今後、文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします(後に訂正、削除、修正等することがあります。)。また≠ナ囲まれた言葉は文中で強調されたものとします。

    *******

    T−1 No.16440

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■16495 / )  超越論的感性論 第一項:T−3
□投稿者/ うましか -(2021/09/20(Mon) 15:57:42)
    pipitさん、皆さん、こんにちはー

    *******

    ◇たとえどのような仕方で、またどのような手段によって認識〔Erkenntnis〕が対象〔Gegenstaende〕と連関するにせよ、認識がそれを通じて対象と直接的に連関し、また手段としての全ての思考がそれを目標にして追い求めるものは直観〔Anschauung〕≠ナある。

    ◇しかしこの直観は、私たちに対象が与えられる限りにおいて生ずるものである。だが、このことはこれまた、少なくとも私たち人間には、その対象が心〔Gemuat〕を或る種の仕方で触発する〔affiziere〕ことによってのみ可能である。

    ◇私たちが対象によって触発される仕方によって、表象〔Vorstellungen〕を得る性能(受容性)は、感性〔Sinnlichkeit〕≠ニ呼ばれる。それゆえ、感性を介して私たちには対象が与えられ〔gegeben〕=Aだから感性のみが私たちに直観≠提供する。しかし悟性をよって対象は思考され=Aだから悟性から概念〔Begriffe〕≠ェ生ずる。

    ◇しかし、すべての思考は、まっすぐに(直接的に)であろうと、回り道して(間接的に)であろうと、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、結局は直観と、したがって、私たちにあっては、感性と連関せざるを得ない。というのは私たちは別の仕方ではいかなる対象も与えられ得ないからである。

    --- No.16454 からの続き ----

    ◇私たちが或る対象によって触発される〔affiziert werden〕限り、その対象が表象能力〔Vorstellungsfaehigkeit〕へと働きかけた結果は感覚〔Empfindung〕≠ナある。感覚を通じて、その対象と連関するそのような直観は経験的〔empirisch〕≠ニ呼ばれる。経験的な直観〔empirischen Anschauung〕の、規定されていない対象は現象〔Erscheinung〕≠ニ呼ばれる。
     
     ※1 「感覚 Empfindung」という言葉は「生理学的あるいは心理学的な事象」ではない(『カント事典』,p.77、植村恒一郎の説明による)とのことだが、よく分からない。植村によれば、「感覚」とは「知覚から空間的な広がりと時間的な持続を取り去ったもの」らしい。(-_-;)…??
     ※2 「規定されていない対象 Der bestimmte Gegenstand」、何に規定されていないのか分からない… (-_-;)??

    ◇現象において、私は、感覚に対応するものを現象の実質〔Materie〕と名づけるが、現象の多様なものが或る種の関係において秩序づけられ得る〔*1〕ようにするようなものを、私は現象の形式〔Form〕と名づける。

     *1「秩序づけられ得る」は、 第一版では「秩序づけられて、直観される」とされる。

    ◇諸感覚がそのうちのみ秩序づけられ、よって或る種の形式において配置され得るものは、それ自身これまた感覚ではあり得ないから、私たちにはなるほど全ての現象の実質はア・ポステリオリにのみ与えられてはいるが、しかし全ての現象の形式はことごとく心のうちにア・プリオリに感覚のために既に用意されていなければならず、だから全ての感覚とは別個に考察され得るのでなければならない。

     ※3 秩序付けられ、或る種の?形式において配置された諸々の感覚は、それ自身感覚ではない…(-_-;)??
     ※4 全ての現象の実質はア・ポステリオリに与えられている。
     ※5 現象の形式(ア・プリオリ)→感覚→(ア・ポステリオリ)現象の実質? これらの関係がいまいちスッキリしない。


    →原佑訳上巻、p.146参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。今後、文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします(後に訂正、削除、修正等することがあります。)。また≠ナ囲まれた言葉は文中で強調されたものとします。

    *******

    T−1 No.16440、T−2 No.16454





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■16741 / )  超越論的感性論 第一項:U−1
□投稿者/ うましか -(2021/09/25(Sat) 02:45:42)
    2021/09/25(Sat) 10:12:40 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    ◆ たとえどのような仕方で、またどのような手段によって認識〔Erkenntnis〕が対象〔Gegenstaende〕と連関するにせよ、認識がそれを通じて対象と直接的に連関し、また手段としての全ての思考がそれを目標にして追い求めるものは直観〔Anschauung〕≠ナある。しかしこの直観は、私たちに対象が与えられる限りにおいて生ずるものである。だが、このことはこれまた、少なくとも私たち人間には、その対象が心〔Gemuat〕を或る種の仕方で触発する〔affiziere〕ことによってのみ可能である。私たちが対象によって触発される仕方によって、表象を得る性能(受容性)を、感性〔Sinnlichkeit〕≠ニ呼ぶ。それゆえ、感性を介して私たちには対象が与えられ=Aだから感性のみが私たちに直観≠提供する。しかし悟性をよって対象は思考され=Aだから悟性から概念〔Begriffe〕≠ェ生ずる。しかし、すべての思考は、まっすぐに(直接的に)であろうと、回り道して(間接的に)であろうと、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、結局は直観と、したがって、私たちにあっては、感性と連関せざるを得ない。というのは私たちは別の仕方ではいかなる対象も与えられ得ないからである。私たちが或る対象によって触発される限り、その対象が表象能力へと働きかけた結果は感覚〔Empfindung〕≠ナある。感覚を通じて、その対象と連関するそのような直観を経験的〔empirisch〕≠ニ呼ぶ。経験的な直観〔empirischen Anschauung〕の、規定されていない対象を現象〔Erscheinung〕≠ニ呼ぶ。

    ◆ 現象において、私は、感覚に対応するものを現象の実質〔Materie〕と名づけるが、現象の多様なものが或る種の関係において秩序づけられ得るようにするようなものを、私は現象の形式〔Form〕と名づける。諸感覚がそのうちのみ秩序づけられ、よって或る種の形式において配置され得るものは、それ自身これまた感覚ではあり得ないから、私たちにはなるほど全ての現象の実質はア・ポステリオリにのみ与えられてはいるが、しかし全ての現象の形式はことごとく心のうちにア・プリオリに感覚のために既に用意されていなければならず、だから全ての感覚とは別個に考察され得るのでなければならない。

    --- No.16495 からの続き ---

    ◇私は、感覚に属するものがそこでは何ひとつとして見いだされない全ての表象を(超越論的な意味において〔im transzendentalen Verstande*1 〕)純粋な〔rein〕≠ニ呼ぶ。そうすると、感性的な直観一般〔sinnlicher Anschauung ueberhaupt〕の純粋な形式〔rein Form〕は、心のうちでア・プリオリに見いだされるであろうが、現象の全ての多様なものは、この純粋な形式のうちで、或る種の関係において直観されるのである。感性のこの純粋な形式はそれ自身も純粋な直観〔reine Anschauung〕≠ニ呼ばれるだろう。

     *1 この"Verstand"は、ここでは意味(sense)と訳される。

    ◇それで、私が物体の表象から、悟性が物体について思考する、たとえば実体〔Substanz〕、力〔Kraft〕、分割可能性〔Teilbarkeit〕などを分離し、同様に、物体のうち感覚に属するもの、たとえば不可入性〔Undurchdringlichkeit〕、硬さ〔Haerte〕、色〔Farbe〕などを分離しても、こうした経験的な直観のうちからなお或るものが、すなわち拡がりと形態が、私に残存する。これらの拡がりと形態は純粋な直観に属するのであって、この純粋な直観は、ア・プリオリに、感官〔Sinne〕ないしは感覚の現実の対象がなくとも、感性の単なる形式として心のうちに生ずるのである。


    →原佑訳上巻、p.146〜p.147参照(※翻訳は参照するが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。◆〜は原典における段落とします。
    →今後、文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします(後に訂正、削除、修正等することがあります。)。また≠ナ囲まれた言葉は文中で強調されたものとします。


    *******

    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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■16783 / )  超越論的感性論 第一項:U−2
□投稿者/ うましか -(2021/09/25(Sat) 17:02:43)
    続きです(・ω・)ノ

    *******

    ◆私は、感覚に属するものがそこでは何ひとつとして見いだされない全ての表象を(超越論的な意味において)純粋な≠ニ名づける〔nenne〕。そうすると、感性的な直観一般の純粋な形式は、心のうちでア・プリオリに見いだされるであろうが、現象の全ての多様なものは、この純粋な形式のうちで、或る種の関係において直観されるのである。感性のこの純粋な形式はそれ自身も純粋な直観≠ニ呼ばれる〔heissen〕だろう。それで、私が物体の表象から、悟性が物体について思考する、たとえば実体、力、分割可能性などを分離し、同様に、物体のうち感覚に属するもの、たとえば不可入性、硬さ、色などを分離しても、こうした経験的な直観のうちからなお或るものが、すなわち拡がりと形態が、私に残存する。これらの拡がりと形態は純粋な直観に属するのであって、この純粋な直観は、ア・プリオリに、感官ないしは感覚の現実の対象がなくとも、感性の単なる形式として心のうちに生ずるのである。

    --- No.16741からの続き ---

    ◇感性のア・プリオリな全ての原理についての学〔Wissenschaft〕を、私は超越論的感性論〔transzendentale Aesthetik〕≠ニ名づける。そのような学は、それゆえ超越論的原理論の第一部門をなす〔ausmacht〕が、純粋な思考〔reinen Denkens〕の諸原理を含み、超越論的論理学〔transzendentale Logik〕と名づけられる部門と対立する〔im Gegensatz〕。

    ◇それゆえ超越論的感性論において、私たちは第一に感性を孤立化させるであろうが、それは経験的な直観以外の何ものかを残存せしめないため、悟性が己の概念を通じてその際思考する全てのものを私たちが分離することによってである。

    ◇第二に、私たちはこの経験的な直観からさらに感覚に属する全てのものを分離するが、それは純粋な直観、つまり現象の単なる形式以外の何ものをも残存させないためである。このものこそ感性がア・プリオリに提供し得る唯一のものである。

    ◇この研究の場合には、ア・プリオリな認識の原理としての感性的な直観の二つの純粋な形式、すなわち空間〔Raum〕と時間〔Zeit〕とかあることが分かるであろうが、私は今やこの空間と時間の吟味にたずさわるであろう。


    →原佑訳上巻、p.147〜p.148参照(※翻訳は参照するが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。◆〜は原典における段落とします。
    →今後、文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします(後に訂正、削除、修正等することがあります。)。また≠ナ囲まれた言葉は文中で強調されたものとします。


    *******

    U−1 No.16741
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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■17515 / )  超越論的感性論 第二項:V−1
□投稿者/ うましか -(2021/10/14(Thu) 00:32:45)
    2021/11/13(Sat) 15:46:31 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー
    おじゃまします。

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第一節 空間について 〔Von den Raume〕 
     第二項 空間概念の形而上学的論究 〔§2 Metaphysische Eroerterung dieses Begriffs〕

    ◇外的感官〔aeusseren Sinnes〕(私たちの心の一つの固有性〔einer Eigenschaft unseres Gemuets〕)を介して私たちは、諸対象〔Gegenstaende〕を私たちの外なるものとして表象し、だからこれらの諸対象をことこどく空間において表象する。この空間において、それらの形態、大きさ、相互関係が規定されているか、あるいは規定されうる。

     ※1 外的感官を介して、諸対象は私たちの外なるものとして表象される。
     ※2 外的感官を介して、諸対象は空間において表象され、形態、大きさ、相互関係が規定される。
     ※3 外的感官は、私たちの心の性質の一つである。

    ◇内的感官〔innere Sinn〕は、心がそれを介して自分自身を、或いは自分の内的状態〔innern Zustandes〕を直観するもので、なるほど一つの客観〔Objekt〕としての魂自身〔Seele selbst〕についていかなる直観も与えはしないが、しかしながらやはり、魂の内的状態の直観がそのもとでのみ可能である一定の形式であり、それゆえ内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。

     ※4 内的感官を介して、心は自分自身か内的状態を直観する。
     ※5 内的感官を介しては、一つの客観としての魂の内的状態のいかなる直観も与えられないが、にもかかわらず、それが可能になる一定の形式である。
     ※6 それゆえ?内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。(;´・ω・)?
     ※7 心〔Gemuet〕、魂〔Seele〕、これらの相違は?

    ◇外的には時間が直観されえないのは、空間が私たちの内なる或るものとして直観されえないのと同様である。

     ※8 外的感官を介して、空間は直観されるが、時間は直観されえない?
     ※9 内的感官を介して、時間は直観されるが、空間は直観されえない?



    † 原佑訳上巻、p.149参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

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■17588 / )  超越論的感性論 第二項:V−2
□投稿者/ うましか -(2021/10/15(Fri) 19:55:53)
    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    ◇ところで空間と時間とはなんであろうか?それらは現実に存在するものであろうか?

    ◇それらは、なるほど諸物〔Dinge〕の規定あるいはまた関係に過ぎないものではあるが、しかしやはり、たとえ諸物自体は直観されるわけがないにせよ、諸物自体にも帰属すべきはずのものであろうか、

    ◇それとも、それらは単に直観の形式にのみ付着するものであって、したがって空間と時間というこれらの述語がそれなくしてはいかなる物にも付加されえないところの私たちの心の主観的性質にのみ付着するものであろうか?

    ◇この点を明らかにするために、私たちはまず空間の概念を論究〔eroertern〕しようと〔*1〕思う。

     *1 「空間の概念を論究しようと…」は、第一版では「空間を考察しようと…」

    ◇しかし私は、論究〔Eroerterung〕(expositio)≠ニいうことを或る概念に属する判明な(たとえ詳細ではないにせよ)表象と理解する。

    ◇だが論究は、それがその概念をア・プリオリに与えられたものとして〔als a priori gegeben〕¥柾qする〔darstellt〕ものを含んでいるときには、形而上学的〔metaphysisch〕≠ナある。


    † 原佑訳上巻、p.149〜p.150参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    V−1 No.17515
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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