□投稿者/ pipit -(2022/01/26(Wed) 16:38:17)
| 2022/01/26(Wed) 17:48:57 編集(投稿者)
No20524 > 第二節として『カント認識論の構図』p40<
クレメの言葉を借りれば『認識する主観の自己主題化』
山下先生の考え 『『純粋理性批判』において純粋理性の批判を行うのは著者であるカント自身の純粋理性である。』p40
※※※※※※ 以上のp40から41の中頃までの、山下先生の記述はわかると思う。 この中頃から、なんでいきなり、統覚の話に切り替わる(ように、pipitには思える)のだろう??? それがよくわからない。
p41中頃から先を読みます。
「私は、、、と考える」の表象とそれを産出する純粋統覚のことがでてきて、 それは、全ての意識において同一であることにおいて、根源的統覚とも名付けられ、 (カントの文章) 「その統一を、そこからのアプリオリな認識の可能性を表示するために、自己意識の超越論的統一」(ibid.)と名付ける...
超越論的とは、
「対象にではなく、 それがアプリオリに可能な限りで、 対象についての我々の認識のあり方にそもそも従事すべき全ての認識を 超越論的と名付ける」(B25) 山下和也先生訳
だから、
うん、 超越論的というタームをつけることで、 統一のアプリオリ性への眼差しを向ける、と。
とりあえずここまではぼやぼやとでもわかる。 次は、p41の最終2行から読み続けます。
※※※※※※※※※
pipitの、勝手な感想
山下先生の文章って、一見はわかりやすい雰囲気なのに、謎森になっていくんだよね。
ここはわかる、と思ってても、すぐ自己の現在位置さえ見失ってしまうような、カント先生の記述を思い出すよ ( ̄▽ ̄;) ココドコー!?
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