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Re[29]: (私は、、、考える)と(存在)
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□投稿者/ pipit -(2022/01/29(Sat) 23:28:16)
| なんか構成がわたしには把握しずらいんだよね。。。 そのうち慣れてくるかな??(期待)
p42で、山下先生は、 純粋統覚の「私は・・・と考える」の「私」は何なのか? と問いかけ、続いて、カントの第二版でのパラロギスムスに出てくる規定を引用されます。 パラロギスムスって? また明日カント事典でも見てみます。。。(ー ー;)
んー、わからん。 とりあえず引用だけでもしておきます。
『カントとオートポイエーシス』山下和也先生、p 43 『この純粋統覚における私について、第二版のパラロギスムスは次のような規定を与えている。 「1.私が考える。2.主観として。3.単純な主観として。4.私の思惟の全ての状態において同一的主観として」(B419)。 この私は、私の思惟のすべての状態において同一的な、単純な主観として思惟する私である。 もちろん、こうした規定からこの私が独立した実体であると結論するような推論はパラロギスムスであって許されない。 しかしながら、カントの与えている規定だけですでに十分である。 カントはこの規定をどこから得たのだろうか? それについてカントは何も述べていない。 それは「単純な自己意識によって」(B420)と言われるにとどまっている。 その上、そうでありながらも、我々はカントのこの議論を否定できない。 それはなぜなのだろうか?』
で、次の『第三節 現象と物自体を区別する者』に続いていきます。
どのような道筋で記述されていくのかなー?
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