(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■20190 / inTopicNo.49)  うましかさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/12/31(Fri) 18:11:54)
    うましかさん、こんばんは!
    あらー?今年最後にウィトさんの沼土産がー


    No20181に返信
    > *******
    >
    > ウィトゲンシュタインの哲学的考察の覚書を編集したもののなかに『原因と結果:哲学』という本があります。晃洋書房より、羽地亮 訳。
    >
    > 以下は1937年9月24日の記述です(一部引用、〔〕内の英訳はうましかによる挿入)。
    >
    > >われわれは原因に反応する。〔We react to the cause.〕
    > 何かを「原因 〔the cause〕」と呼ぶことは、指をさして「こいつのせいだ!〔 He's to blame!〕」と言うことに似ている。
    >
    > もしわれわれが結果を求めていないならば、われわれは、本能的に原因を取り除く。<

    無人の車がゆっくり坂道を走り出したら、サイドブレーキ止めに行くかんじ??


    >われわれは当てられたもの(結果)から当たったもの(原因)へと本能的に目をやる。(われわれはそうしていると私は仮定している。)<

    本能的に因果関係を何かに見ようとすることかな?


    > さて、われわれが原因と結果について語るとき、われわれはすべてのことを衝突〔impact〕の場合と比較しているともし私が言うとしたら、どうであろうか。衝突は、結果に対する原因の原型である。<


    何かと何かが触れ合うことと思ってもいいのかな、だめかな?


    >そのときわれわれは、衝突を原因として認識していたのであろうか。「原因」の代わりにいつも「衝突」と言われるような言語を考えよ。<

    衝突はその時は衝突そのものとして認識する。
    原因、は、もう目の前にない過去、っていうことなんだろうか。
    目の前に実際出てくるのは、衝突の現場ばかり。
    ってことを言ってるのかな???

    でも、推測働かして、人は作業することもありますよね。
    トラブル起こったら、トラブルの原因を探したり。



    > →ウィトゲンシュタイン『原因と結果:哲学』、p.11〜p.12
    >
    > ウィトゲンシュタインのおもしろさって、書かれていることが理解できるかどうかはさておき(;´・ω・)、日頃からこういうことを考えている怪しいおっちゃんだってことが、私うましかのような素人にも伝わってしまうところだとおもいます。<

    > われらが泥沼文の名手?カントとはまたちがう魅力ですね。<


    ウィトゲンシュタインさんって、いろんなとこで褒められてて、
    人気あるなーと思っています。

    カントなんて、カントなんて、、、
    ( ; ; )ヨヨヨ



    > それでは、沼柱pipitさん、よいお年を〜 (・ω・)ノ <

    決して柱ではありませんので、沼に溺れまくりなのですが、
    ・:*(( °ω° ))/.:+ シ、シズムワー

    うましかさん、よいお年をー (^_^)v


引用返信/返信 削除キー/
■20181 / inTopicNo.50)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/12/31(Fri) 11:30:15)
    No.20177 (pipitさん)

    >今朝思ったんですけど、身体って因果関係を理解してるのかな、って。昨日、猫ちゃんがお皿をたたく音を聞いたら、餌がもらえる場所に戻る映像をテレビでみました。

    (*‘∀‘) ピピッと☆ゲンシュタイン作動 (゚Д゚;)!?

    *******

    ウィトゲンシュタインの哲学的考察の覚書を編集したもののなかに『原因と結果:哲学』という本があります。晃洋書房より、羽地亮 訳。

    以下は1937年9月24日の記述です(一部引用、〔〕内の英訳はうましかによる挿入)。

    >われわれは原因に反応する。〔We react to the cause.〕
    何かを「原因 〔the cause〕」と呼ぶことは、指をさして「こいつのせいだ!〔 He's to blame!〕」と言うことに似ている。

    もしわれわれが結果を求めていないならば、われわれは、本能的に原因を取り除く。われわれは当てられたもの(結果)から当たったもの(原因)へと本能的に目をやる。(われわれはそうしていると私は仮定している。)

    さて、われわれが原因と結果について語るとき、われわれはすべてのことを衝突〔impact〕の場合と比較しているともし私が言うとしたら、どうであろうか。衝突は、結果に対する原因の原型である。そのときわれわれは、衝突を原因として認識していたのであろうか。「原因」の代わりにいつも「衝突」と言われるような言語を考えよ。<

    →ウィトゲンシュタイン『原因と結果:哲学』、p.11〜p.12

    ウィトゲンシュタインのおもしろさって、書かれていることが理解できるかどうかはさておき(;´・ω・)、日頃からこういうことを考えている怪しいおっちゃんだってことが、私うましかのような素人にも伝わってしまうところだとおもいます。


    われらが泥沼文の名手?カントとはまたちがう魅力ですね。



    それでは、沼柱pipitさん、よいお年を〜 (・ω・)ノ





引用返信/返信 削除キー/
■20180 / inTopicNo.51)  Re[10]: 大みそか日記
□投稿者/ pipit -(2021/12/31(Fri) 11:10:42)
    No20176

    お皿を洗ってる時に、あ!って思った。

    もしかしたら、カント先生の文章は、超越論的な解明という章での文章だろうか、って。

    それで確認したら、やっぱり
    『第三項 空間の概念の超越論的な解明』での記述やった。。。

    ごめんなさい、カント先生。。。

    それで中山先生は、、、やっぱり補足けっこう入ってた(^◇^;)

    [イデア的な]観念性、と補足されてました。(中山先生独自段落052)
    また時間ができたら、引用するかも?

    オートポイエーシスもちょっとでも今年中に書きたいな!

    無理かなー?とりあえず家事をレッツゴー 
引用返信/返信 削除キー/
■20178 / inTopicNo.52)  Re[11]: 日記
□投稿者/ pipit -(2021/12/31(Fri) 09:42:08)
    生存に有利なためには、因果関係は法則的に実在してるということ???

    ????
引用返信/返信 削除キー/
■20177 / inTopicNo.53)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/12/31(Fri) 09:40:34)
    今朝思ったんですけど、

    身体って因果関係を理解してるのかな、って。

    昨日、猫ちゃんがお皿をたたく音を聞いたら、餌がもらえる場所に戻る映像をテレビでみました。

    脳の神経回路ができてる、ってことかもだけど、
    身体は因果関係を理解して、神経回路を創造したということ?

    ふむー。。。?????


引用返信/返信 削除キー/
■20176 / inTopicNo.54)  大みそか日記
□投稿者/ pipit -(2021/12/31(Fri) 09:32:49)
    No20173

    しかしですね、カント先生。 
    > だからそうした表象には、精確に言うと、いかなる観念性も全然帰属しないのであって、<


    対象を可能にする観念性のもとに、対象に付属する実在性があるとするとですね、

    うーん、

    その実在性は、

    No19495
    > 『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用
    としては、
    観念の系に入れられてしまうんですよね。

    うーん、、、
    カントを盲目的に擁護するために、あるいは、カントの考え方を真に理解するために、とか動機はいろいろあるだろうけど、
    いろいろ整合的に文章の解釈をととのえるためには、
    いろんな用語の補足を(たとえば、超越論的と経験的などの区別を補足するとか。空間もそれ以外の表象も経験的にはともに実在性があるけど、超越論的に観念性をもつものは空間だけ、とか。。。)

    円谷先生の補足を思い出しましたよ。。。

    No.19981
    >
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1982/32/1982_32_116/_article/-char/ja/

    円谷裕ニ先生の論文『経験的実在論と超越論的観念論』を読んでるけど、私にとっては新しい考え方なので理解が難しいけど、別の意味で(?)ちょっとおもしろかったところを。。。

    『確かに、第 一版には、外的対象と か表象と いう概念 の用法 に関して、第 二版 より曖昧な点があ るのは事実 である。 しかしそ の曖昧さ はあくま でも、補足す べき言葉を欠くた めであ って、決して内容上 のも の で は な い。それを内容 上 のも のと見なし、第 一版と第 二版 に相違を 認 めようとする のは、カ ント の経験的実在論と超越論的観念 論の二元論という根本思想 の含蓄を捉え損 った解 釈 と 言 え る。と いう のは、こ の二元論 のも つ内容 を踏まえて、先程 の 引用文 に次 の如く言葉を補う こと によ って、第 二版 と内容上 の差異のな いものと解しうるからであ る。即ち、「外的対象 は 〔超越論的 に見れば〕表象 に他ならず 、〔そ の 超越論的 に 見られ た〕表象 〔は経験的 には外的対象 であ り、そ の外的対 象〕の直接的知覚は、同時に、〔超越 論 的 に 見 れ ば〕表象 〔であるところの、経験的な外的対象〕の現実性の十分 な 証 明である。」こ の注釈文中の超越論的表象と経験的外的対象 は、存在的に異な った二つの物ではなく、同 一の物が、その 物の認識の可能性を超越論的に問う時に表象と呼ばれ、その 物の存在が問題 になる時に外的対象と呼ばれているにすぎない。』

    、、、、

    【「外的対象 は 〔超越論的 に見れば〕表象 に他ならず 、〔そ の 超越論的 に 見られ た〕表象 〔は経験的 には外的対象 であ り、そ の外的対 象〕の直接的知覚は、同時に、〔超越 論 的 に 見 れ ば〕表象 〔であるところの、経験的な外的対象〕の現実性の十分 な 証 明である。」】

    円谷先生、〔補足〕をめっっちゃされてますね。。。
    カント先生のせい。。。。

    <


    カント先生。。。。(-.-;)
引用返信/返信 削除キー/
■20173 / inTopicNo.55)  Re[8]: 超越論的感性論 第三項:W−9
□投稿者/ pipit -(2021/12/31(Fri) 08:47:04)
    うましかさん、こんにちは!
    うましかさんの投稿のおかげで、きちんとカントの文章に丁寧に向き合えます。
    とてもありがたく感じています。(^人^)

    ==========

    No.20168
    で、個人的に、ん?と思ったとこを今から調べます。

    > ◇〔以降、第二版のみ→〕なぜなら、人は、空間以外のいかなる表象からも、空間における直観からのようにはア・プリオリな諸綜合的命題を導き出し得ないからである(第三項)。だからそうした表象には、精確に言うと、いかなる観念性も全然帰属しないのであって、たとえそうした表象が、たとえば、色、音、温かさの感覚をつうじての、視覚、聴覚、触覚という感官様式の主観的性質にのみ属するという点では、空間の表象と一致するにせよ、そうであり、しかも、色、音、温かさは、たんに感覚であって直観ではないので、それ自体ではいかなる客観をも、少なくともア・プリオリには認識せしめはしないのである。〔以上、第二版のみ〕<

    > だからそうした表象には、<

    空間以外の(感性系の)表象には、

    > いかなる観念性も全然帰属しないのであって<

    そこにあるものだけがその表象に帰属してるということ?

    > しかも、色、音、温かさは、たんに感覚であって直観ではないので、<

    ここにひっかかった。理解したかった。
    No19495
    > 『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用
    『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。
    まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、
    この類の下に、
    意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
    この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。
    また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。
    認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。
    直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。<


    感覚と直観を異なるものと区別してる。

    観念

    知覚(意識を伴う観念) / 意識を伴わない観念

    知覚のうち主体の変容にのみ関わる知覚(感覚) / 知覚のうち客観的な知覚(認識=直観系認識or概念系認識)





    客観的でない知覚(感覚)/ 客観的な知覚(直観)





    (感覚)
    >たとえば、色、音、温かさの感覚をつうじての、視覚、聴覚、触覚という感官様式の主観的性質にのみ属するという点では、空間の表象と一致するにせよ、そうであり、しかも、色、音、温かさは、たんに感覚であって直観ではないので、(感覚)



    (直観)
    >それ自体ではいかなる客観をも、少なくともア・プリオリには認識せしめはしないのである。<を反対にすると、
    (それ自体で客観を、あるときにはア・プリオリさえ認識せしめる)客観的な知覚(直観)


    ふーむ、、、物自体の現象の論争で、もしかしたら、二重触発の問題があるのかもと思ってるのだけど(現象が現象を触発して現象を生む)

    色や音などは、
    現象としての物が、現象としての身体を触発して、現象としての主体の変容、が、感覚である、と、思ってる可能性もあるのかなぁ
    (pipitの捉え方は、大外れかもだけど)

    ふーむ。。。

    やっぱり、わたしは、パユットー師さま著でみた十二因縁の解説の一パターンを思い出すなぁ。。。

    ===========

    うましかさんのおかげで、普段なら考えないことを考えられてると思います。
    本当に感謝です。

    よいお年を!
    o(・x・)/

引用返信/返信 削除キー/
■20168 / inTopicNo.56)  超越論的感性論 第三項:W−9
□投稿者/ うましか -(2021/12/31(Fri) 00:16:18)
    2021/12/31(Fri) 00:17:30 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー
    今年も残すところ今日一日となりました。

    pipitさんのカント沼のおかげで、ようやくカントを読みはじめることができました。ありがとうございましたm(__)m

    私の不味い投稿を読み込んで返信してくださる、管理人のパニチェさん、おくたがわさんにも感謝ですm(__)m

    皆さん、よいお年を! (/・ω・)/


    *******

    ◇しかしこの空間以外には、ア・プリオリに客観的と呼ばれ得るでもあろうような、主観的な、しかし何か外的なもの≠ニ連関づけられたいかなる他の表象もない。

    ◇{以降、第一版のみ →}だから、すべての外的現象のこの主観的条件はいかなる他の表象とも比較されえない。酒の美味は、その酒の客観的な諸規定の一つではなく、したがって現象とすらみなされた客観の諸規定の一つではなく、その酒を味わう主観がもつ感官の特殊な性質に属する。物体の直観にはその諸性質が結びついているが、いろいろな色は物体のそうした諸性質ではなく、光によって或る仕方で触発される視覚の感官の変様でしかない。これに反して空間は、外的な諸客観の条件として、必然的にこれらの外的な諸客観の現象ないしは直観に属している。味や色は、諸対象がそのものでのみ私たちにとって感官の客観となり得る必然的な条件では全然ない。それらは、特殊な有機的組織の偶然的に付加された結果としてのみ、現象として結合しているに過ぎない。だからそれらは、いかなるア・プリオリな表象でもなく感覚に根拠付けられているのであり、しかもそのうえ美味は感覚の結果としての感情(快と不快の)にすら根拠付けられている。また誰一人としてア・プリオリには、色の表象をも、何らかの味の表象をも、もつことはできない。{→ 続く}

    --- No. 20105 からの続き---

    ◇しかし空間は直観の純粋な形式にのみ関わり、それゆえ、いかなる感覚(なんらの経験的なもの)をも、それ自身のうちに全然含んでおらず、だから空間の全ての様式と規定は、形態ならびに関係の概念が成立すべきであるときにはア・プリオリにすら表象され得るし、また表象され得なければならない。空間を通じてのみ、諸物が私たちにとって外的な対象であるということが可能なのである。{以上、第一版のみ }

    ◇〔以降、第二版のみ→〕なぜなら、人は、空間以外のいかなる表象からも、空間における直観からのようにはア・プリオリな諸綜合的命題を導き出し得ないからである(第三項)。だからそうした表象には、精確に言うと、いかなる観念性も全然帰属しないのであって、たとえそうした表象が、たとえば、色、音、温かさの感覚をつうじての、視覚、聴覚、触覚という感官様式の主観的性質にのみ属するという点では、空間の表象と一致するにせよ、そうであり、しかも、色、音、温かさは、たんに感覚であって直観ではないので、それ自体ではいかなる客観をも、少なくともア・プリオリには認識せしめはしないのである。〔以上、第二版のみ〕


    † 原佑訳上巻、p.158〜p.159参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168

引用返信/返信 削除キー/
■20142 / inTopicNo.57)  うましかさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/26(Sun) 19:46:11)
    こんばんは、うましかさん。レスありがとうございます。

    No20134に返信(うましかさんの記事)

    > >100年経っても未だ結論の出ていない書籍なんでしょうね。
    > そうですね! (゚д゚)
    > 書いた本人さんは「結論」(TLP.7)を出して終わりにしましたが、それを読む人の解釈や、細部や全体への異論反論はさまざまなのでしょうね。
    > 書いた本人が、後にそれを批判して哲学的考察を再出発したというケチがついた本なのに、おもしろいですねー

    ほんとですね。

    > >永井氏や野矢氏が主題にしているような哲学はまだまだマイナーというかインディーだと思います。
    > なるほど、まだまだマイナー、インディーということなのか。。。
    > 私としては、もうテーマとしての「他者」には世間の関心(言いかえれば流行り)が薄くなったのかな、と単純におもっていました。
    > さて「他者」は何処にいったのか?

    自己を知ることは他者を知ることでもあると思いますが、個々の人間は(究極的には)絶対的に孤独なんでしょうね。

    > >永井均さんご自身も坐禅や瞑想をされるらしいですね。
    > → No.20127 (pipitさん)
    > 座禅し瞑想する永井、、、?!

    永井氏は「〈仏教3.0〉を哲学する」で坐禅は趣味程度と述べています。
    もともと睡眠障害があるらしく、眠る前に坐禅をすると眠くならないなら修行になるし、眠くなれば睡眠は成功するからどっち転んでもいいらしく、眠りについても2〜3時間で覚醒するのでその時は寝禅をしているとのことでした。坐禅は一人でやってると見性と野狐禅や魔境の区別が分からなくなることから、やはり正式な修行には見性に導いてくれる師家が必要だと思います。

    > そういえば野矢も座禅すると何かで読んだことがあります。

    大森荘蔵を師と仰いだみたいですからなんとなく分かります。

    > 謎が謎をよぶ! 調べてみよう(゚Д゚;)
    > (;゚Д゚)お〜い沼

    はははは。^^

引用返信/返信 削除キー/
■20134 / inTopicNo.58)  パニチェさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/12/26(Sun) 10:42:41)
    2021/12/26(Sun) 18:02:41 編集(投稿者)

    おはようございますー

    底なし沼(/・ω・)/ ← 検索用キーワード(;´・ω・)

    *******

    No.20131 (パニチェさん)

    >100年経っても未だ結論の出ていない書籍なんでしょうね。

    そうですね! (゚д゚)

    書いた本人さんは「結論」(TLP.7)を出して終わりにしましたが、それを読む人の解釈や、細部や全体への異論反論はさまざまなのでしょうね。

    書いた本人が、後にそれを批判して哲学的考察を再出発したというケチがついた本なのに、おもしろいですねー

    >永井氏や野矢氏が主題にしているような哲学はまだまだマイナーというかインディーだと思います。

    なるほど、まだまだマイナー、インディーということなのか。。。

    私としては、もうテーマとしての「他者」には世間の関心(言いかえれば流行り)が薄くなったのかな、と単純におもっていました。


    さて「他者」は何処にいったのか?


    >永井均さんご自身も坐禅や瞑想をされるらしいですね。
    No.20127 (pipitさん)

    座禅し瞑想する永井、、、?!
    そういえば野矢も座禅すると何かで読んだことがあります。


    謎が謎をよぶ! 調べてみよう(゚Д゚;)




    (;゚Д゚)お〜い沼






    *******

    底なし沼シリーズ
    No.18341,18382,18440,18490,19701,19720,19763,19807,20134

    私うましかの「底なし沼」に返信くださった投稿につきましては、「検索」ボタンに「底なし沼」と記入していただくと表示されます(・ω・)ノ

引用返信/返信 削除キー/
■20131 / inTopicNo.59)  >なんと!(;゚Д゚)現代思想1月臨時増刊は
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/26(Sun) 09:01:11)
    2021/12/26(Sun) 09:08:07 編集(投稿者)

    No20122に返信(うましかさんの記事)
    > 『論理哲学論考』100年だった!
    > もうパニチェさんはチェック済みかなあ(;´・ω・)

    いえ、読んでないですね。
    それにしてもうましかさんはいろいろ持ってられますねぇ〜。^^

    > (あたまにhttpつけてください)

    > →

    > ://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3645
    >
    > *******
    >
    > ◇『論理哲学論考』100年
    > ・飯田 隆 『論理哲学論考』五〇周年から一〇〇周年へ
    > ・吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年
    > ・野家啓一 日本におけるウィトゲンシュタイン受容・補遺

    > ◇論理と世界
    > ・C・ダイアモンド 次田瞬+大谷弘[訳] はしごを投げ捨てる
    > ・荒畑靖宏 世界が存在するのにどうして論理がありえようか?――論理学をめぐるラッセル・フレーゲとウィトゲンシュタイン
    > ・槇野沙央理 『論考』を意味あることとして取り扱おうとした主体は本当にあなた自身であるか

    > ◇倫理と生
    > ・古田徹也 前期ウィトゲンシュタインにおける「意志」とは何か
    > ・大谷 弘 「倫理学講話」と倫理的言語使用

    > ◇戦争と祈り
    > ・小泉義之 兵士ウィトゲンシュタイン――言語の省察
    > ・田中祐理子 同時代人たちの「世界」――ウィトゲンシュタインとアラン
    > ・鈴木祐丞 ウィトゲンシュタインの「宗教的観点」――『論考』とトルストイ、『探究』とキェルケゴール

    > ◇哲学者とその弟子
    > ・G・E・M・アンスコム 吉田 廉+京念屋隆史[訳] ウィトゲンシュタインは誰のための哲学者か
    > ・吉田 廉 我々はみなどこか愚かである――アンスコムとウィトゲンシュタイン 

    > ◇ことばとかたち
    > ・山田圭一 見ることの日常性と非日常性――アスペクト論の展開と誤解と新たな展開可能性
    > ・谷田雄毅 ポイント(Witz)とアスペクト(Aspekt)――言語ゲームの意味を問うとはどのようなことか

    > ◇心と他者
    > ・菅崎香乃 『哲学探究』第二部は何を目指したのか――草稿から推測する
    > ・鈴木崇志 自分に向けて話すこと、他者に向けて話すこと――ウィトゲンシュタインとフッサール

    > ◇おとなと子ども
    > ・齋藤直子+P・スタンディッシュ 正しく目を閉じること――ウィトゲンシュタインとおとなの教育
    > ・杉田浩崇 ウィトゲンシュタインと子ども――言語ゲームの習得/刷新モデルを超えて、その機微へ

    > ◇懐疑と治療
    > ・野上志学 蝶番認識論、とりわけそのウィトゲンシュタイン的反懐疑論について
    > ・白川晋太郎 なぜ懐疑論者は懐疑論者でないのか?――ブランダムの推論主義を「治療」に活用

    > *******

    > 先ほどちょっとだけ開いてみたんですが、

    > >・吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年
    >
    > は『論理哲学論考』の「解釈」史がまとめてあって、お得(*‘∀‘)

    > それにしても、執筆者の顔ぶれをみると、飯田隆とか野家啓一はともかく、永井均とか野矢茂樹は出てこないんですね(´;ω;`)ウゥゥ

    100年経っても未だ結論の出ていない書籍なんでしょうね。
    永井氏や野矢氏が主題にしているような哲学はまだまだマイナーというかインディーだと思います。

    西洋哲学を批判的に述べれば有神論(特に一神教)の影響で自己探究をおざなりにしてきたせいだと思います。
    インドを起点とした東洋哲学の主題は自己探究ですからこの違いは大きいですね。
    西洋哲学は自己探究においては開発途上国みたいなものです。
引用返信/返信 削除キー/
■20127 / inTopicNo.60)  Re[10]: 精神科医と哲学者の対談(;゚Д゚)
□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 23:16:25)
    うましかさん、もう一個こんばんはー ♪
    ( ^ω^ )v


    No20123に返信(うましかさんの記事)
    > pipitさん、こんばんはー
    >
    > No.20113 (pipitさん)
    >
    > >『マインドフルネス最前線』(サンガ新書)という本で、香山リカさんがいろいろな立場の方と対談をしてる本です。
    >
    >
    > なんかこれ以前に立ち読みしたかもしれないです、、、(◎_◎;)
    >
    >
    >      なんとなーく記憶の彼方に、、、ね?(;゚Д゚)(゚Д゚; )な?<


    出版社のサンガは倒産してしまいました。。。
    諸行無常ですぅー
    元社員の方がサンガ新社を立ち上げて、クラウドファンディングなども利用しながら、元気に頑張っておられるようです。
    来月、紙の新刊が出版予定で予約済みなので、楽しみです
    (●´ω`●)
    (しかも、題名が『サンユッタニカーヤ 女神との対話 第一巻』スマナサーラ長老著、

    釈尊と女神さまの対話。。。

    |・ω・*)チラ )



    > そうそう、うましかは以前、こんな投稿してました。
    >
    > No.14660
    >
    > 精神科医と哲学者をむすぶものは、「マインドフルネス」なんですねー(;´・ω・)
    >
    >
    >
    > 謎沼〜(/・ω・)/ <

    永井均さんご自身も坐禅や瞑想をされるらしいですね。
    精神、かぁ
    ほんとに謎すぎて、底なし沼の気持ちが生じてきますね
    (^^;;

    他人、とかも、
    幸せ、とかも、
    考え出すと、
    なんでも難しい気持ちになりそうです。

    謎謎沼〜(/・ω・)/ オヤスミナサイ☆彡

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -