■19495 / ) |
うましかさんの勉強ノートを読んでのー
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□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 18:29:35)
| もう一つ、思ったことをー (o^^o)v
No19480 > ・カントはロックとヒュームが主張した感覚の主観性を否定していない。 ・感覚の主観性が主題となるのが、『プロレゴメナ』における「知覚判断」についての議論 ・カント曰く「すべての経験判断は経験的である、・・・ それでも逆にすべての経験的判断が(それゆえに)経験判断であるわけではない。」 ・カントによれば、経験的な判断は、@客観的な妥当性をもつ経験判断 A主観的にしか妥当しない知覚判断に区分される。 ・フリーマンによる感覚sensationと知覚perceptionの区別は、カントの議論におそらく対応している。 ・意識において綜合された感覚が知覚である。(山下)〔p.78〕<
わたし、↓以下のカントの文章が前から気になってるんですよねー。 そのうち、わかるようになるかなー。
No18867より一部再掲 > 『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用
『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。
まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、
この類の下に、
意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。
また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。
認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。
直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。
概念は多くのものに共通な特徴によって、対象と間接的にかかわる。
概念は経験的な概念であるか、純粋な概念であるかのどちらかである。
純粋な概念が(純粋な感性的な形象においてではなく)知性だけを起源とするときは、それは知性の概念(ノティオ)と呼ばれる。
知性の概念から生まれたものではあるが、経験の可能性を越え出た概念は、理念あるいは理性の概念と呼ばれる。』<
おつかれさまです ☆彡
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