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No18341,18382,18440,18490,19701,19720,19763,19807,20134 の記事


■18341 / )  うましか沼日記
□投稿者/ うましか -(2021/11/05(Fri) 07:44:55)
    pipitさん、おはようございますー

    最近、じょじょに管理人パニチェさんの"〈私〉"論に惹かれつつある自分を感じます。

    自我という底なし沼、、、いや「自我」、「論」というのも適切ではないかもしれないけど。



    沼〜(/・ω・)/




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■18382 / )  底なし沼探検隊(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2021/11/05(Fri) 22:12:02)
    入隊志願! (`・ω・´)ゞ

    というほど、私うましかは勇敢ではないのですが… (´;ω;`)ウッ…


    パニチェさん、返信いただきありがとうございます。




    >それは言語化できない底です。


    とりあえず、目を閉じ、耳を塞ぎ、沈黙してみます! (;゚Д゚)


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■18440 / )  底なし沼探査レポ(/・ω・)/
□投稿者/ うましか -(2021/11/06(Sat) 11:35:47)
    2021/11/06(Sat) 12:22:04 編集(投稿者)

    映画なんてほとんど観ない私うましかが、もう随分昔に観て今でもときどき思い出す映画があるんですが、

    ジョディ・フォスターが主演した『コンタクト』(1997年)って作品です。

    強引にまとめると、人間の営みの一つとしての科学と宗教が、「宇宙(生命体)」?と思しき彼岸的なものからのコンタクトをめぐって、ときに相克しときに共(依)存するドラマを描いているように思えるのですが、

    私としては、それら科学と宗教(というか、超越者で何であれ、懐疑を超えて何かを"信ずる〔全体ととして受容すること〕"こと? (;´・ω・))が、主人公のいわばミクロコスモスにおいて収斂する"一瞬"、それが描かれる"時間帯"が印象的でした。


    pipitさんは観たことありますかー



    今の私が観るとしたら、この映画の最初だけでお腹いっぱいです。

    ジョディ・フォスターにメタモルフォーゼ後は別腹に余裕があるときいいかな〜
    (;´・ω・)





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■18490 / )  底なし沼探査レポ(/・ω・)/ その二
□投稿者/ うましか -(2021/11/07(Sun) 13:17:47)
    pipitさん、パニチェさん、皆さん、こんにちはー

    昨日ご紹介した『コンタクト』はフィクションでしたが、本日の底なし沼探査レポはドキュメンタリー、それは或る若い兵士が戦場で書き綴った日記。

    この日記他から作り上げられた作品が、この掲示板で最近話題にあがっている『論理哲学論考』です。

    もちろん、或る兵士とはウィトゲンシュタイン。以下は1916年6月4日に始まる、いわゆる「ブルシーロフ攻勢」で死の危機に瀕する最中書かれた言葉です。

    あ、パニチェさんは、きっとこれらにも造詣が深いですよね(・∀・)

    *******

    1916年6月11日

     神と生の目的との関して私は何を知るか。
     私は知る、この世界があることを。
     私の眼が眼の視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。
     世界についての問題となるものを、我々が世界の意義と称することを。
     世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にあることを。
     生が世界であることを。
     私の意志が世界にあまねく浸透していることを。
     私の意志が善か悪かであることを。
     従って善と悪は世界の意義と何らかの連関があることを。
     生の意義、即ち世界の意義を我々は神と称することができるのである。
     そして父としての神という比喩をこれに結びつけること。
     祈りとは世界の意義についての思想である。
     世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。
     私は出来事への影響を専ら断念することによって、自分を世界から独立させることができ、従って世界をやはり或る意味で支配しうるのである。

    →ウィトゲンシュタイン「草稿1914-1916」,奥雅博 訳、大修館書店 ウィトゲンシュタイン全集1、p.253-p.254

    *******

    『論理哲学論考』は単純ウマシカな私にとって、単純?過ぎて全然分からず即サヨナラしたほろ苦い想い出があります(´;ω;`)ウッ…

    なんでいきなり、"Die Welt ist alles, …"なの?とか。開口一番「世界とは〜」とほぼ結論めいた口調で始まり、結びは、テツガクシャ諸君、退路は断たれた!後はゴチャゴチャ言うな!みたいなノリ(;゚Д゚)マジマッチョ

    でもですねー(;´・ω・)

    もしこれから『論理哲学論考』に挑んでやろうという勇猛なお方がおられるようでしたら、私は『論理哲学論考』だけではなく、その日記草稿(「秘密の日記」もね)もそっと覗くことをおすすめしたいです。大修館書店から出ている全集の第一巻に収められています。『秘密の日記』(丸山空大 訳)は春秋社から。


    上の日記に書かれた「私(の)」は、後年の私たち読者に理解をもとめている「私」ではないとおもいました。



    「自我〔Das Ich〕。自我とは深い秘密に満ちたものである!」(1916年8月5日、同書p.267より)


    (/・ω・)/沼〜 
    そろそろカント沼に戻らねば…




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■19701 / )  底なし沼探査レポ(/・ω・)/ 隊長降臨!!
□投稿者/ うましか -(2021/12/05(Sun) 20:24:44)
    パニチェさん、こんばんはー

    勝手に「底なし沼探査」の隊長さんにしてしまってすみませんですm(__)m

    ちょっとうれしくて(・∀・)

    >うましかさんは大修館書店『 ウィトゲンシュタイン全集1』持ってられるんですね。

    はい、というか全集を持っております。
    大昔お小遣いためて買いました。

    >ウィトゲンシュタインが難解なのは前期と後期があること、これを繋ぐ青色本・茶色本、で哲学探究以降、最期の1年半に綴られた草稿(確実性の問題)と断片もあるからでしょうね。これに加えて1993年に発見された哲学宗教日記まであります。

    そうなんですね!(◎_◎;)
    私の場合そもそも理解できる素養などないので、マンガ感覚で拾い読みして楽しんでいました。

    永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』はたしか持っています。これも懐かしいですねー。もう内容は思い出せませんが、お世話になった本のひとつです。

    >以下の草稿も含め、パニチェは永井均氏と同じく前期後期を通じて語りえぬ〈私〉を指し示していると読解しています。

    なるほどー

    永井はパニチェさんの語りえぬ〈私〉と同じことを指し示していると、パニチェさんは考えているということですね!
    でも私は永井の方は知らないからなー(;´・ω・)

    でも引用してくださった『私はこう言おう。…』はとても興味深い言葉ですね!
    ただ私にはそれをどう解釈してよいか分かりません(´;ω;`)ウゥゥ

    >もの凄く乱暴に言うと。語りえないということは前期・後期にわたり共通するが、言語の写像理論によって形而上学的主体としたものを言語ゲームでもって形而下に引きずりおろそうとした試みでもある。

    うーん。。。

    私の場合は印象に過ぎないのですが、形而上学的な主体というのはあくまでも彼のその時の哲学的探求における要請として出てきた観念であって、当の哲学(『論考』)の一部が崩壊してしまった?以上、御本体を「獄舎」(『倫理学講話』全集5、p.394参照)の中に置き去りにし、何処かに霧散してしまったんじゃないかと。

    では何処に?(;・∀・)

    私はパニチェさんの「〈私〉」が、それを知るヒントになるかもしれないと、現時点ではおもっています、、、的外れかもしれないけど。永井の「独在論」については、全く知りませんので、すみませんです。






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■19720 / )  底なし沼探査レポ(/・ω・)/ その三
□投稿者/ うましか -(2021/12/06(Mon) 21:52:28)
    2021/12/06(Mon) 22:03:39 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんはー

    No.19704 (パニチェさん)

    >>私の場合は印象に過ぎないのですが、形而上学的な主体というのはあくまでも彼のその時の哲学的探求における要請として出てきた観念であって、当の哲学(『論考』)の一部が崩壊してしまった?以上、御本体を「獄舎」(『倫理学講話』全集5、p.394参照)の中に置き去りにし、何処かに霧散してしまったんじゃないかと。<<
    → うましか No.19701より

    >はい。霧散してしまったという解釈も十分あると思います。全集5、p.394参照を引用してもらえると有難いです。お手間ならスルーしてもらってもいっこうに構いません。<

    *******

    実は今日、パニチェさんが、ウィトゲンシュタイン全集の「1・6・8・9巻の4冊」をお持ちだという情報をいただいたことをおもいだして、あーこれは5巻(「ウィトゲンシュタインとウィーン学団」・『倫理学講話』を所収)をおすすめしたほうがよいのかなーとボンヤリ考えていました(;´・ω・)

    ほんとうは下の引用より前のp.393の最後あたりから読むといいのだけど、p.394の該当箇所だけを引用してみます。

    なお注意したいのは『論考』(1918年脱稿)が思考されたものの表現、つまり言語に限界設定することを目的に、主に有意義な命題について考察したのに対し、『倫講』(1929年)は倫理的ないしは宗教的言明(価値言明)について批判的に考察しているという点です。

    興味深いことに『倫講』の彼の主張はそれらの言明について、いわばその無意義さゆえの意義を認めるというものでした。しかも彼がそうした言語表現をすることによってしたいことは、「ただ、世界を越えてゆくこと=v「有意義な言語を超えてゆくこと」なのだと。

    にもかかわらず、『倫講』の結論部分でウィトゲンシュタインは次のように言います。

    >私の全傾向、そして私の信ずる所では、およそ倫理とか宗教について書きあるいは語ろうとしたすべての人の傾向は、言語の限界にさからって進むということでありました。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るということは、まったく、そして絶対に望みのないことであります。<
    →『倫理学講話』(全集5)、杖下隆英訳、p.394

    さて、『論考』の「形而上学的な主体」という言葉の出自は1916年の日記草稿にあるのではないかとおもいますが、この頃のウィトゲンシュタインの思索には、それ以前の記述とは異なり倫理的な主題が頻出します。後に「倫理の担い手」とされる意志は「完成したものとしての世界に、全く外側から近づく」のだと記されていますし、「永遠の相の下での」考察は、世界内の対象、「それらを外側から見る」ととも記されています。

    まとめになっているかどうかわかりませんが、お腹が減ったのでまとめます(;´・ω・)
    『論考』では、そのベースとなる思索の発展過程で、限界づけられた「世界」を、その外側から見ることを可能とする「主体」を要請したのだとおもいますが、『倫講』では、その「主体」の本体について、言語という「獄舎」(つまり「世界」)に囚われているという何とも悲しい罪人像を描いたという点で区別できるかな、と。

    囚人が牢獄の檻から外を飛翔する自分を想像し、そこからの眺望(もちろん想像)に満足していたのに、一片の綻びがもとでそれを眺める自分もろとも全て(もちろん想像)が霧散してしまい、後に残るのはそこから出られるよう祈る自分だけだった、、、みたいな( ノД`)シクシク…

    以上は久しぶりに拾い読みしてパッチワークした粗く不味い解釈ですので、詳しい方々からはトンチンカンと笑われる代物であろうとおもいますが。。。



    さあ、カント沼に戻らねば(;´・ω・)




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■19763 / )  底なし沼探査レポ(/・ω・)/ その四
□投稿者/ うましか -(2021/12/09(Thu) 01:20:01)
    2021/12/09(Thu) 07:46:41 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    パニチェさん、私の不味い感想文を評価していただいてありがとうございました。

    私も、No.19691でパニチェさんが引用してくださった『「個人的経験」および「感覚与件」について』(全集6に所収)をみていますが、目にとまった文章を引用してみます。(カント沼で疲れた頭の再起動には好い?刺激 (゚Д゚;))

    *******

    >「彼が自分が何を見ているのか、我々に教えてくれるだろう」、と我々が言うのは、彼は、我々が彼に教えたことのない言語を使う[ことができる]だろうというように聞こえる。

    また、[彼がそれを教えてくれれば、]我々がこれまで外側からだけしか見ることができなかった何かの内観(インサイト)が得られる、というように聞こえる。

    内側と外側 ! <

    →『「個人的経験」および「感覚与件」について』、大森荘蔵訳、全集6、p.314

    >何を自分が見ているのかを人に告げるのは、自分の内側を外にひっくり返すようなことであるのか。そして、何を自分が見ているのかを言う言い方を習うのは、他人に自分の内側を見させることを習うことであるのか。

    「我々は彼に、彼が見ているものを我々に見させることを教える。」[こう言うのは、]彼は、自分の見ている対象=A自分の心眼の前にある対象を間接的な仕方で我々に見せているように思っている[からなのだ]。「我々はそれを[直接]見ることはできない。それは彼の内部にあるのだから。」

    視覚の私的対象の観念。見え、感覚与件。

    感覚与件の私的性格(プライバシー)の観念はどこから[生じたのか]。<

    →同書、p.315

    *******

    「独我論」Solipsismusと、「個人的経験」あるいは「感覚与件」とはどう関係しているのだろう(;´・ω・)。

    ウィトゲンシュタインは上の引用で内側と外側という対になる概念をもちいていますが、これはさしあたり「(個人的)経験」を語る自分の内側と、その外側という意味で使用しているようにもおもえます。

    経験とはすぐれて自分の(個人的)経験である、とするならば、それを自分の外側に、まさに「自分の内側を外にひっくり返す」ことで、自分の内面世界が全てを包み込むことになる、、、とはあまりにも独我論者風でしょうか。

    こんな言葉を思い出しました。

    「建物は外に向かっては沈黙を守り、これに対して内部においては豊饒な世界が展開するようにしたい。」(アドルフ・ロース『装飾と犯罪』「郷土芸術について」(1914年)、p.152)


    (;´・ω・)。。。沈  黙  




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■19807 / )  底なし沼探査メモ(;´・ω・)2
□投稿者/ うましか -(2021/12/10(Fri) 21:23:58)
    2021/12/10(Fri) 21:41:53 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    No.19771(pipitさん)

    >たくさんの方がウィトゲンシュタインさんご本人の思索に惹かれて探求されていること、すごいことだなあと思いました。

    そういわれてみればそんな気がしますねー(;´・ω・)

    でもウィトゲンシュタインに限らず、本人の思索に触れるときが一番刺激的ですよね!


    恐るべしカント沼…(゚Д゚;)

    ******

    そういえば、"Tractatus logico-philosophicus"といえば、結語TLP.7の「沈黙」があまりに有名?ですが、Wikipediaの「神秘主義」の説明〔*〕にもあるように「沈黙」とは古代ギリシャ語では「myein(眼や口を閉じる)」で、これを語源とするのが、神秘主義mysticism らしいと何かで読んだことがあります。

    6.522 Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies zeigt sich, es ist das Mystische.

    (だがしかし表明できないものが存在する。それは自らを示す=Bそれは神秘的なものである。)

    https://www.gutenberg.org/files/5740/5740-pdf.pdf
    → 全集1、p.119

    以下はWikipediaの「神秘主義」より。

    * >英語: mysticism などが「神秘主義」と訳されている[1]。この mysticism の語源をたどると ギリシア語: myein(眼や口を閉じる)に由来するとされており[1]、こうした表現が選ばれたことにより、すでに通常の表現が許されない経験が示唆されている[1]。<

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9

    自らを示す「表明できないもの」を神秘的なものとするならば、彼がそれを黙するものと読み換えた?としても、私としてはあまり違和感がないような…(;´・ω・)

    ちなみに彼の元師匠のラッセルも『神秘主義と論理』なる論文を1914年に発表しています。『論考』よりも前の話しですね。


    (゚Д゚;) 。。。

    【追記】

    No.19800 は作成途中、操作ミスで投稿してしまったため削除しましたー(´;ω;`)ウッ…


    すみませんでしたm(__)m
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■20134 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/12/26(Sun) 10:42:41)
    2021/12/26(Sun) 18:02:41 編集(投稿者)

    おはようございますー

    底なし沼(/・ω・)/ ← 検索用キーワード(;´・ω・)

    *******

    No.20131 (パニチェさん)

    >100年経っても未だ結論の出ていない書籍なんでしょうね。

    そうですね! (゚д゚)

    書いた本人さんは「結論」(TLP.7)を出して終わりにしましたが、それを読む人の解釈や、細部や全体への異論反論はさまざまなのでしょうね。

    書いた本人が、後にそれを批判して哲学的考察を再出発したというケチがついた本なのに、おもしろいですねー

    >永井氏や野矢氏が主題にしているような哲学はまだまだマイナーというかインディーだと思います。

    なるほど、まだまだマイナー、インディーということなのか。。。

    私としては、もうテーマとしての「他者」には世間の関心(言いかえれば流行り)が薄くなったのかな、と単純におもっていました。


    さて「他者」は何処にいったのか?


    >永井均さんご自身も坐禅や瞑想をされるらしいですね。
    No.20127 (pipitさん)

    座禅し瞑想する永井、、、?!
    そういえば野矢も座禅すると何かで読んだことがあります。


    謎が謎をよぶ! 調べてみよう(゚Д゚;)




    (;゚Д゚)お〜い沼






    *******

    底なし沼シリーズ
    No.18341,18382,18440,18490,19701,19720,19763,19807,20134

    私うましかの「底なし沼」に返信くださった投稿につきましては、「検索」ボタンに「底なし沼」と記入していただくと表示されます(・ω・)ノ

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