■20131 / ) |
>なんと!(;゚Д゚)現代思想1月臨時増刊は
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□投稿者/ パニチェ -(2021/12/26(Sun) 09:01:11)
| 2021/12/26(Sun) 09:08:07 編集(投稿者)
■No20122に返信(うましかさんの記事) > 『論理哲学論考』100年だった! > もうパニチェさんはチェック済みかなあ(;´・ω・)
いえ、読んでないですね。 それにしてもうましかさんはいろいろ持ってられますねぇ〜。^^
> (あたまにhttpつけてください) > → > ://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3645 > > ******* > > ◇『論理哲学論考』100年 > ・飯田 隆 『論理哲学論考』五〇周年から一〇〇周年へ > ・吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年 > ・野家啓一 日本におけるウィトゲンシュタイン受容・補遺 > ◇論理と世界 > ・C・ダイアモンド 次田瞬+大谷弘[訳] はしごを投げ捨てる > ・荒畑靖宏 世界が存在するのにどうして論理がありえようか?――論理学をめぐるラッセル・フレーゲとウィトゲンシュタイン > ・槇野沙央理 『論考』を意味あることとして取り扱おうとした主体は本当にあなた自身であるか > ◇倫理と生 > ・古田徹也 前期ウィトゲンシュタインにおける「意志」とは何か > ・大谷 弘 「倫理学講話」と倫理的言語使用 > ◇戦争と祈り > ・小泉義之 兵士ウィトゲンシュタイン――言語の省察 > ・田中祐理子 同時代人たちの「世界」――ウィトゲンシュタインとアラン > ・鈴木祐丞 ウィトゲンシュタインの「宗教的観点」――『論考』とトルストイ、『探究』とキェルケゴール > ◇哲学者とその弟子 > ・G・E・M・アンスコム 吉田 廉+京念屋隆史[訳] ウィトゲンシュタインは誰のための哲学者か > ・吉田 廉 我々はみなどこか愚かである――アンスコムとウィトゲンシュタイン > ◇ことばとかたち > ・山田圭一 見ることの日常性と非日常性――アスペクト論の展開と誤解と新たな展開可能性 > ・谷田雄毅 ポイント(Witz)とアスペクト(Aspekt)――言語ゲームの意味を問うとはどのようなことか > ◇心と他者 > ・菅崎香乃 『哲学探究』第二部は何を目指したのか――草稿から推測する > ・鈴木崇志 自分に向けて話すこと、他者に向けて話すこと――ウィトゲンシュタインとフッサール > ◇おとなと子ども > ・齋藤直子+P・スタンディッシュ 正しく目を閉じること――ウィトゲンシュタインとおとなの教育 > ・杉田浩崇 ウィトゲンシュタインと子ども――言語ゲームの習得/刷新モデルを超えて、その機微へ > ◇懐疑と治療 > ・野上志学 蝶番認識論、とりわけそのウィトゲンシュタイン的反懐疑論について > ・白川晋太郎 なぜ懐疑論者は懐疑論者でないのか?――ブランダムの推論主義を「治療」に活用 > ******* > 先ほどちょっとだけ開いてみたんですが、 > >・吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年 > > は『論理哲学論考』の「解釈」史がまとめてあって、お得(*‘∀‘) > それにしても、執筆者の顔ぶれをみると、飯田隆とか野家啓一はともかく、永井均とか野矢茂樹は出てこないんですね(´;ω;`)ウゥゥ
100年経っても未だ結論の出ていない書籍なんでしょうね。 永井氏や野矢氏が主題にしているような哲学はまだまだマイナーというかインディーだと思います。
西洋哲学を批判的に述べれば有神論(特に一神教)の影響で自己探究をおざなりにしてきたせいだと思います。 インドを起点とした東洋哲学の主題は自己探究ですからこの違いは大きいですね。 西洋哲学は自己探究においては開発途上国みたいなものです。
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