| うましかさん、こんにちは♪(o^^o)
■No19945 > 思いつきで落書き! ぜんぜん違うかもしれないけど(゚Д゚;) > > > > (*‘∀‘) → ● | 〇 物自体 > 経験的 > ↑ (/・ω・)/超越論的 <
えー、なになにですかー!?!?!
わからないけど、御子善之泉で見た図を思い出したので、図と共にある該当箇所を読み直しました。 引用しますね。
(御子柴善之先生の解説文の引用) 『なお、前章でも見たように「超越的」とよく似た形容詞に「超越論的」がある。 ここでその相違を再確認しておこう。
私たちの議論の出発点は「経験」である。私たちの認識はつねに経験とともに始まるからである。 経験とは経験的認識であり、それには内容として知覚が含まれている。 この知覚はつねに経験的である。
さて、そうした経験において、それとともにあるア・プリオリな認識の可能性を論じる水準が「超越論的(transzendental)」という形容詞で表示される議論の水準である。 このような認識の可能性の問題は認識主観にかかわる問題であるから、「超越論的」とは、認識主観と客観の関係において、主観の側に注意を向けて用いられる用語である。 他方、超越論的な議論の水準において私たちは、経験の現実性ではなく可能性を論じるがゆえに、経験的な現実内容に縛られない。 そこには、経験不可能なことをも視野に入れて〈考える〉可能性が開いている。 だからこそ、やがて「超越論的理念」が論じられることになる。 そうした超越論的な水準で考えた、経験不可能な客観について、それを客観的にしかし独断論的に語る振舞いが「超越的(transzendent)」である。
かんたんにまとめるなら、 「超越論的」は「経験的」の対義語であり、 「超越的」は「内在的」の対義語であり、 「内在的」と「経験的」が領域としては重なり合うのに対し、 「超越論的」と「超越的」は重なり合わないのである。』 『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』御子柴善之先生著、p182.183より引用終了。
pipitの感想 全然違うかもだけど、、、
【↑(/・ω・)/超越論的 】 沼くんの居る位置が、物自体寄りなのは、
御子柴先生の > 他方、超越論的な議論の水準において私たちは、経験の現実性ではなく可能性を論じるがゆえに、経験的な現実内容に縛られない。 そこには、経験不可能なことをも視野に入れて〈考える〉可能性が開いている。<
という文章に重なってpipitには思われました。
改めて読み直すと > 「超越論的」は「経験的」の対義語であり、< とありますね!
そうかぁ、
(カントの文章)中山元先生訳(『純粋理性批判1』p57.中山先生独自番号029)の引用。 『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』 第二版序論B25あたり
超越論的って、やっぱり、【アプリオリ】についての議論ということになるのかなー (そのアプリオリが経験につながってる、、、?)
んー、、、沼ーーー (/・Ω・)/
うましかさん、感謝です!!(^人^)
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