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No20113 の記事


■20113 / )  Re[8]: 底なし沼探査メモ(;´・ω・)3
□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 18:12:11)
    うましかさん、パニチェさん、こんにちはー
    (^ω^)

    話題の永井均さんで、もしかしたら珍しいかも?と思うpipitが持ってる対談本から、我と他者についての箇所の一部を引用しますね。

    対談には相手がいるので、遠慮して?発言されてることもあるかもしれないけど、
    引用しますね。
    『マインドフルネス最前線』(サンガ新書)という本で、香山リカさんがいろいろな立場の方と対談をしてる本です。

    抜粋引用する箇所は、全て永井均さんの発言部分です。

    引用開始
    『それと、また別の話ですが、現在の日本語の「自我」という言葉は、ラテン語の「Ego」とかドイツ語の「das Ich」の訳語でしょうけど、第一人称でかつ主格であるというポイントをとらえきれていない、ということも、ついでにちょっと言っておきたい。
    人称と格の組み合わせをわざと固定して、その固定性自体を名詞化して、対象として、ということはつまり主格以外の格として、扱えるようにしているわけですが、その格を固定しているというポイントが理解されない。
    日本語の「私」にはそもそも格がないのでね。
    「自我」では、一人称を三人称化しているだけではなく、主格性を対格化してもいるというポイントが見えてこないんです。
    これは人間的煩悩の構造を理解するのにも重要なことなんですけどね。』
    (p81)

    『自我を客体としてとらえることができると、自分と他人を対等に存在する二つのもののあいだの関係としてもとらえることができるようになるじゃないですか。
    本当は対等じゃないんですよ。
    自分のほうは自分だから世界そのもので、相手はその世界の中に登場する一項目にすぎないんだから。
    しかし対等にもとらえられて、そっちが本当のあり方だともいえる。
    この「も」が問題で、つまり矛盾した二つの世界把握の仕方が共存してしまう。
    片方なら問題ないじゃないですか。
    対等なほうだけでいいなら、そういう事実があります。ってだけだし、
    逆に、私が世界そのものなら、そもそも他者との対比が成り立たないですから。
    しかし、我々は二重になった矛盾した世界を生きているし、二重になった矛盾した本質を持っているわけですよ。
    その矛盾こそが問題の根源だと思います。』
    (p83)

    以上、抜粋引用でしたー
    おつかれさまです♪
    (^_^)


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