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No18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168 の記事


■18802 / )  超越論的感性論 第三項:W−1
□投稿者/ うましか -(2021/11/13(Sat) 22:03:40)
    2021/11/14(Sun) 11:11:23 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第一節 空間について 〔Von den Raume〕 
     第三項 空間概念の超越論的論究 〔§3 Transzendentale Eroerterung des Begriffs vom Raume〕

    ◇ 私は超越論的論究≠ニいうことを、他のア・プリオリな綜合的諸認識の可能性がそこから洞察されうる原理としての或る概念の説明と理解する。

    ◇この目的〔Absicht〕のために必要なのは、1) 現実に、そうした諸認識が、その与えられた概念から出てくるということ 2) これらの諸認識は、この概念の与えられた説明様式を前提してのみ可能であるこということである。


    † 原佑訳上巻、p.153参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.18802
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802

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■19157 / )  超越論的感性論 第三項:W−2
□投稿者/ うましか -(2021/11/20(Sat) 18:35:52)
    2021/11/20(Sat) 18:38:11 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    ≪純粋理性批判を読んでみる。30≫、おじゃまします!(/・ω・)/

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論
    第一節 空間について
    第三項 空間概念の超越論的論究

    ◆ 私は超越論的論究≠ニいうことを、他のア・プリオリな綜合的諸認識の可能性がそこから洞察されうる原理としての或る概念の説明と理解する。このために必要なのは、1) 現実に、そうした諸認識が、その与えられた概念から出てくるということ 2) これらの諸認識は、この概念の与えられた説明様式を前提してのみ可能であるということである。

     ※1 「原理としての概念 (前提) → ア・プリオリな綜合的認識」を可能とするような、その概念の説明様式(超越論的〜)

    --- No.18802からの続き---

    ◇ 幾何学は空間の諸固有性を綜合的にしかもア・プリオリに規定する一つの学である。空間についてのそのような認識が可能であるためには、いったい空間の表象はいかなるものでなければならないのであろうか?

    ◇空間は根源的に直観でなければならない。なぜなら単なる概念からはその概念を越えて出ていくいかなる命題も引きだされ得ないが、それでもこのことが幾何学においては行われるからである。(序論V 〔*1〕)

     *1 原佑訳上巻、p.107〜 第二版序論「V 理性のすべての理論的学のうちにはア・プリオリな綜合的判断が原理として含まれている」

    ◇しかし、この直観は、ア・プリオリに、言いかえれば対象のあらゆる知覚に先立って私たちの内に見いだされなければならない。したがって純粋な直観でなければならず、経験的な直観であってはならない。

     ※1 根源的な直観としての「空間」
     ※2 この直観=空間は、対象のあらゆる知覚に先立ち、ア・プリオリに私たちの内に見いだされなければならない。したがってこの空間は純粋な直観である。

    ◇なぜなら幾何学的な諸命題はことごとく確然的であり、言いかえればそれらの諸命題の必然性の意識と結びついているからである。例えば、「空間は三次元のみを持っている〔der Raum hat nur drei Abmessungen〕」という命題がそうである。だが、このような諸命題は経験的な判断ないしは経験判断〔empirische oder Erfahrungsurteile〕ではあり得ず、またこれらの判断から推理され得もしない。(序論U〔*2〕)

     *2 原佑訳上巻、p.82〜 第二版序論「U私たちは或る種のア・プリオリな認識を所有しており、だから普通の悟性ですらそうした認識をけっして欠いてはいない」


    † 原佑訳上巻、p.153〜p.154参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.18802、W−2 No.19157
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157

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■19216 / )  超越論的感性論 第三項:W−3
□投稿者/ うましか -(2021/11/21(Sun) 17:48:21)
    2021/11/21(Sun) 17:49:27 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(/・ω・)/

    *******

    ◆幾何学は空間の諸固有性を綜合的にしかもア・プリオリに規定する一つの学である。空間についてのそのような認識が可能であるためには、いったい空間の表象はいかなるものでなければならないのであろうか?空間は根源的に直観でなければならない。なぜなら単なる概念からはその概念を越えて出ていくいかなる命題も引きだされ得ないが、それでもこのことが幾何学においては行われるからである(序論V)。しかし、この直観は、ア・プリオリに、言いかえれば対象のあらゆる知覚に先立って私たちの内に見いだされなければならない。したがって純粋な直観でなければならず、経験的な直観であってはならない。なぜなら幾何学的な諸命題はことごとく確然的であり、言いかえればそれらの諸命題の必然性の意識と結びついているからである。例えば、「空間は三次元のみを持っている」という命題がそうである。だが、このような諸命題は経験的な判断、ないしは経験判断ではあり得ず、またこれらの判断から推理され得もしない(序論U)。

    --- No.19157からの続き---

    ◇ ところで、客観自身〔Objekten selbst〕に先行し、だから客観の概念がそこではア・プリオリに規定され得るような或る外的直観〔aussere Anschauung〕は、いかにして心〔Gemuete〕に内在し〔beiwohnen*1〕得るのであろうか?明らかにこの外的直観が客観によって触発され、だからこのことによって客観の直接的な表象〔unmittelbare Vorstellung〕≠、言いかえれば直観≠得る主観の形式的な性質として、単にこの主観の内にその座〔Sitz〕を占める限りにおいて、それゆえ外的な感官一般の形式としてのみその座をしめる限りにおいて以外ではあり得ない。

     *1 beiwohnen か bewohnen か? 原典ではbei−だが、和訳、英訳ではbe-のニュアンス(内在する、inhabit、dwell in、exist in等)で訳しているようですが(;´・ω・) ちなみに原典にbewohnenは使用されておらず、他の箇所(例:原佑訳上巻p.128)でのbeiwohnen についても原佑訳では「内在している」と訳されています。

    ◇ それゆえ、私たちの説明〔Erklaerung〕だけがア・プリオリな綜合的認識としての幾何学の可能性≠明白ならしめるのである。このことをなし得ないいずれの説明様式〔Erklaerungsart〕も、たとえ外見上は私たちの説明といくらか類似しているにせよ、この特徴で私たちの説明から最も確実に区分され得る。


    † 原佑訳上巻、p.154参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216

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■19542 / )  超越論的感性論 第三項:W−4
□投稿者/ うましか -(2021/11/29(Mon) 18:24:42)
    2021/11/29(Mon) 18:25:28 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    *******

    ◆ ところで、客観自身に先行し、だから客観の概念がそこではア・プリオリに規定され得るような或る外的直観は、いかにして心に居合わせる〔beiwohnen〕ことができるのであろうか?明らかにこの外的直観が客観によって触発され、だからこのことによって客観の直接的な表象≠、言いかえれば直観≠得る主観の形式的な性質として、単にこの主観の内にその座を占める限りにおいて、それゆえ外的な感官一般の形式としてのみその座をしめる限りにおいて以外ではあり得ない。

    ◆ それゆえ、私たちの説明だけがア・プリオリな綜合的認識としての幾何学の可能性≠明白ならしめるのである。このことをなし得ないいずれの説明様式も、たとえ外見上は私たちの説明といくらか類似しているにせよ、この特徴で私たちの説明から最も確実に区分され得る。

    --- No. 19216からの続き---

    ◇前述の諸概念からの結論

    ◇ a) 空間が示して見せるのは、何らかの諸物自体〔Dinge an sich〕の性質〔Eigenschaft〕、或いはそれらの相互関係における諸物自体では全然ない。
    言いかえれば、対象自身に付着していて、だから直観のあらゆる主観的条件〔subjektiven Bedingungen〕が捨象されても残るような、諸物自体の規定では全然ない。

    ◇なぜなら、絶対的な〔absolute〕規定も相対的な〔relative〕規定も、その規定が帰属すべき〔zukommen〕物の現存在〔Dasein *1 der Dinge〕に先立ち〔vor〕、したがってア・プリオリには、直観され〔angeschaut〕得ないからである。

     *1 Dasein は、手持ちの辞書によれば、現にある(いる)こと、居合わせることとあります(;´・ω・)

    ◇ b) 空間は、単なる外的な感官の全ての現象の形式〔nur die Form aller Erscheinungen ausserer Sinne〕、言いかえれば、私たちにはそのもとでのみ外的直観が可能である感性〔Sinnlichkeit〕の主観的条件以外の何ものでもない。


    † 原佑訳上巻、p.154〜p.155参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−4 No.19542
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542

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■19668 / )  超越論的感性論 第三項:W−5
□投稿者/ うましか -(2021/12/04(Sat) 17:55:55)
    2021/12/04(Sat) 17:56:59 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    私の作業はとても「読解」なんて言える代物ではありませんよー(´;ω;`)ウッ…

    今日も原佑訳の文に??、原典をみて↓( ノД`)↑(# ゚Д゚)、最後に全ては自分の力不足故と悲しみの淵に沈みました。



    轟沈沼〜(/・ω・)/

    *******

    ●前述の諸概念からの結論
    ◆ a) 空間が示して見せるのは、何らかの諸物自体〔Dinge an sich〕の性質、或いはそれらの相互関係における諸物自体では全然ない。言いかえれば、対象自身に付着していて直観のあらゆる主観的条件が捨象されても残るような、諸物自体の規定では全然ない。なぜなら、絶対的な規定も相対的な規定も、その規定が帰属すべき物の現存在に先立ち、したがってア・プリオリには直観され得ないからである。

    --- No.19542からの続き---

    ◇ b) 空間は、単なる外的な感官の全ての現象の形式、言いかえれば、私たちにはそのもとでのみ外的直観が可能であるような感性の主観的条件以外の何ものでもない。

    ◇ ところで、対象によって触発されるという主観の受容性は、必然的にこの客観のすべての直観に先行する。
    それゆえ、いかにして全ての現象のこの空間という形式が、全ての現実的な知覚に先立ち、したがってア・プリオリに心の内に与えられるのか、
    また、いかにしてこの形式が、全ての諸現象がそこで規定されざるを得ない一つの純粋な直観として、それらの諸対象の諸関係の諸原理を、全ての経験に先立ち含み得るのか
    が理解できるのである。

    ◇したがって私たちは、人間の立場からのみ、空間とか拡がりのあるもの等について語ることができる。

    ◇私たちが、その〔主観的条件の〕下でのみ、対象によって触発されるであろう外的直観を得ることができるという、そのような主観的条件から離れるならば、空間についての表象は全く意味が無い〔*1〕。

     *1 原典と照らしあわせ文意がよくわからなかったため、石川文康訳【上】p.82他を参考にした。



    † 原佑訳上巻、p.155〜p.156参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−4 No.19542、W−5 No.19668
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668

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■19682 / )  超越論的感性論 第三項:W−6
□投稿者/ うましか -(2021/12/05(Sun) 10:44:15)
    2021/12/05(Sun) 10:45:12 編集(投稿者)

    pipitさん、おはようございますー

    今日も朝から(/・ω・)/溺れております。

    *******

    ◆ b) 空間は、単なる外的な感官の全ての現象の形式、言いかえれば、私たちにはそのもとでのみ外的直観が可能であるような感性の主観的条件以外の何ものでもない。ところで、対象によって触発されるという主観の受容性は、必然的にこの客観の全ての直観に先行する。それゆえ、いかにして全ての現象のこの空間という形式が、全ての現実的な知覚に先立ち、したがってア・プリオリに心の内に与えられるのか、また、いかにしてこの形式が、全ての諸現象がそこで規定されざるを得ない一つの純粋な直観として、それらの諸対象の諸関係の諸原理を、全ての経験に先立ち含み得るのかが理解できるのである。

    --- No.19668からの続き---

    ◆したがって私たちは、人間の立場からのみ、空間とか拡がりのあるもの等について語ることができる。私たちが、その〔主観的条件の〕下でのみ、対象によって触発されるだろう外的直観を得ることができるという、そのような主観的条件を捨て去るならば、空間についての表象は全く無意味となる。

    ◇空間というこの述語〔Praedikat〕は、諸物が私たちに現象するかぎりにおいてのみ、言いかえれば、諸物が感性の対象であるかぎりにおいてのみ、それらの諸物に付加される。

     ※1 「空間というこの述語」(;´・ω・)? "Sは空間である。"みたいな?(・・;)

    ◇私たちが感性と名づけるこの受容性の恒常不変の形式は、諸対象がそこで外なるものとして直観される全ての関係の一つの必然的条件であり、これらの諸対象が捨象されるときには、一つの純粋な直観であり、この純粋な直観に空間という名称が使われるのである。

    ◇私たちは感性の特殊な諸条件を、事象の可能性の諸条件にすることはできず、事象の現象の可能性の諸条件にすることができるに過ぎないので、私たちはおそらくこういうことができる。

    ◇空間は、私たちに外的に現象し得る全ての物を包括し〔befasse〕はするが、たとえ物自体が直観されるにしても、直観されないにしても、或いはまたいかなる主観によって直観されるとしても、全ての物自体を包括しはしない、と。

    ◇なぜなら、私たちは、私たち以外の思考する存在者〔Wesen〕の直観については、私たちの直観を制限し〔einschraenken〕、私たちにとって普遍的に妥当するのと同じ諸条件に、はたしてそれらの存在者が拘束されている〔gebunden〕かどうかを全然判断することができないからである。

     ※2 「私たちは、私たち以外の思考する存在者〔Wesen〕の直観については、」… 私たち以外の存在者って何だろう?(;゚Д゚)?!


    † 原佑訳上巻、p.156参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682

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■19817 / )  超越論的感性論 第三項:W−7
□投稿者/ うましか -(2021/12/11(Sat) 09:24:02)
    2021/12/11(Sat) 09:25:15 編集(投稿者)

    pipitさん、おはようございますー

    No.19814 (pipitさん)

    >カントもそうだけど、どなたでも、やっぱりその時代においてのいろんな影響を含んでのその方になってるのかもなーと思いました。

    そうですねー、私もそうおもいます(・∀・)

    >関連して思い出したカント関連の動画
    https://youtu.be/nR8sxOq_g9o

    これはなかなかベンキョーになる動画ですね!
    いつもためになる情報をありがとうございますm(__)m

    あと、関西弁の二人称?としての「じぶん」の使用について。
    コレおもしろいですねー(・∀・) こんなサイトみつけました。

    https://keicob.com/kansaiben-jibun/

    「あなた」をじぶんとしては≠ニ置き換えるとよいとありました。


    *******

    ◆したがって私たちは、人間の立場からのみ、空間とか拡がりのあるもの等について語ることができる。私たちが、その〔主観的条件の〕下でのみ、対象によって触発されるだろう外的直観を得ることができるという、そのような主観的条件を捨て去るならば、空間についての表象は全く無意味となる。空間というこの述語〔Praedikat〕は、諸物が私たちに現象するかぎりにおいてのみ、言いかえれば、諸物が感性の対象であるかぎりにおいてのみ、それらの諸物に付加される。私たちが感性と名づけるこの受容性の恒常不変の形式は、諸対象がそこで外なるものとして直観される全ての関係の一つの必然的条件であり、これらの諸対象が捨象されるときには、一つの純粋な直観であり、この純粋な直観に空間という名称が使われるのである。私たちは感性の特殊な諸条件を、事象の可能性の諸条件にすることはできず、事象の現象の可能性の諸条件にすることができるに過ぎないので、私たちはおそらくこういうことができる。空間は、私たちに外的に現象し得る全ての物を包括しはするが、たとえ物自体が直観されるにしても、直観されないにしても、或いはまたいかなる主観によって直観されるとしても、全ての物自体を包括しはしない、と。なぜなら、私たちは、私たち以外の思考する存在者の直観については、私たちの直観を制限し、私たちにとって普遍的に妥当するのと同じ諸条件に、はたしてそれらの存在者が拘束されているかどうかを全然判断することができないからである。

    --- No.19682 からの続き---

    ◇私たちが判断のこの制限を主語の概念に付加するなら、そのときにはその判断は無条件的に妥当する。「全ての諸物は空間において並存している〔Alle Dinge sind neben einander im Raum〕」という命題は、これらの諸物が私たちの感性的直観の対象と理解されるという制限〔Einschraenkung〕のもとでのみ妥当する。

    ◇私たちがこの場合、この条件をその概念に付加して、「全ての諸物は、外的現象として、空間において並存している」と言うなら、この規則は普遍的に制限なしに妥当する。したがって私たちの論究が教えるのは、
    空間は、外的に対象として私たちにあらわれうる全てのもの関しては、実在性〔Realitaet〕(言いかえれば、客観的な妥当性〔die objektive Gueltigkeit 〕)をもつが、
    同時に空間は、理性によってそれ自体において考究されるときの、言いかえれば、私たちの感性の性質を顧慮することなしに扱われるときの諸物に関しては、観念性〔Idealitaet〕≠もつということである。

    ◇それゆえ私たちは、空間の経験的な実在性〔empirische Realitaet〕(全ての可能的な外的経験〔aller moeglichen ausseren Erfahrung〕に関しての)を主張するが、
    もっとも同時に、
    空間の超越論的な観念性〔transzendentale Idealitaet〕≠も、
    言いかえれば、私たちが全ての経験の可能性の条件を捨て去り、だから空間を諸物自体そのもの〔Dinge an sich selbst〕の根底にある或るものとして想定するやいなや、空間は何ものでもなくなるということをも、
    主張するのである。


    † 原佑訳上巻、p.156〜p.157参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−7 No.19817
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817

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■20105 / )  超越論的感性論 第三項:W−8
□投稿者/ うましか -(2021/12/25(Sat) 12:31:22)
    2021/12/25(Sat) 12:32:27 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    すこし時間ができたので、ひさしぶりの沼浴ですー(*‘∀‘)

    *******

    ◆{No.19817 「したがって…」からの続き}私たちが判断のこの制限を主語の概念に付加するなら、そのときにはその判断は無条件的に妥当する。「全ての諸物は空間において並存している〔Alle Dinge sind neben einander im Raum〕」という命題は、これらの諸物が私たちの感性的直観の対象と理解されるという制限〔Einschraenkung〕のもとでのみ妥当する。この場合、私たちがこの条件をその概念に付加して、「全ての諸物は、外的現象として、空間において並存している」と言うなら、この規則は普遍的に制限なしに妥当する。したがって私たちの論究が教えるのは、空間は、外的に対象として私たちにあらわれうる全てのもの関しては、実在性〔Realitaet〕(言いかえれば、客観的な妥当性)をもつが、同時に、空間は、理性によってそれ自体において考究されるときの、言いかえれば、私たちの感性の性質を顧慮することなしに扱われるときの諸物に関しては、観念性〔Idealitaet〕≠もつということである。それゆえ私たちは、空間の経験的な実在性〔empirische Realitaet〕(全ての可能的な外的経験〔aller moeglichen ausseren Erfahrung〕に関しての)を主張するが、もっとも、同時に、空間の超越論的な観念性〔transzendentale Idealitaet〕≠も、言いかえれば、私たちが全ての経験の可能性の条件を捨て去り、だから空間を諸物自体そのもの〔Dinge an sich selbst〕の根底にある或るものとして想定するやいなや、空間は何ものでもなくなるということをも、主張するのである。

    --- No.19817 からの続き---

    ◇しかしこの空間以外には、ア・プリオリに客観的と呼ばれ得るでもあろうような、主観的な、しかし何か外的なもの≠ニ連関づけられたいかなる他の表象もない。

     ※中山元訳1、p.91では、「外的なものにかかわる主観的な像[=表象]のうちで、アプリオリに客観的なものと主張できるのは、空間のほかには何もない。」と訳される。

    ◇{以下は第一版のみ →}だから、すべての外的現象のこの主観的条件はいかなる他の表象とも比較されえない。酒の美味は、その酒の客観的な諸規定の一つではなく、したがって現象とすらみなされた客観の諸規定の一つではなく、その酒を味わう主観がもつ感官の特殊な性質に属する。

    ◇物体の直観にはその諸性質が結びついているが、いろいろな色は物体のそうした諸性質ではなく、光によって或る仕方で触発される視覚の感官の変様でしかない。これに反して空間は、外的な諸客観の条件として、必然的にこれらの外的な諸客観の現象ないしは直観に属している。

    ◇味や色は、諸対象がそのものでのみ私たちにとって感官の客観となり得る必然的な条件では全然ない。それらは、特殊な有機的組織の偶然的に付加された結果としてのみ、現象として結合しているに過ぎない。

    ◇だからそれらは、いかなるア・プリオリな表象でもなく感覚に根拠付けられているのであり、しかもそのうえ美味は感覚の結果としての感情(快と不快の)にすら根拠付けられている。また誰一人としてア・プリオリには、色の表象をも、何らかの味の表象をも、もつことはできない。{以上は第一版のみ → 続く}



    † 原佑訳上巻、p.157〜p.158参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−7 No.19817、W−8 No.20105
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105

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■20168 / )  超越論的感性論 第三項:W−9
□投稿者/ うましか -(2021/12/31(Fri) 00:16:18)
    2021/12/31(Fri) 00:17:30 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー
    今年も残すところ今日一日となりました。

    pipitさんのカント沼のおかげで、ようやくカントを読みはじめることができました。ありがとうございましたm(__)m

    私の不味い投稿を読み込んで返信してくださる、管理人のパニチェさん、おくたがわさんにも感謝ですm(__)m

    皆さん、よいお年を! (/・ω・)/


    *******

    ◇しかしこの空間以外には、ア・プリオリに客観的と呼ばれ得るでもあろうような、主観的な、しかし何か外的なもの≠ニ連関づけられたいかなる他の表象もない。

    ◇{以降、第一版のみ →}だから、すべての外的現象のこの主観的条件はいかなる他の表象とも比較されえない。酒の美味は、その酒の客観的な諸規定の一つではなく、したがって現象とすらみなされた客観の諸規定の一つではなく、その酒を味わう主観がもつ感官の特殊な性質に属する。物体の直観にはその諸性質が結びついているが、いろいろな色は物体のそうした諸性質ではなく、光によって或る仕方で触発される視覚の感官の変様でしかない。これに反して空間は、外的な諸客観の条件として、必然的にこれらの外的な諸客観の現象ないしは直観に属している。味や色は、諸対象がそのものでのみ私たちにとって感官の客観となり得る必然的な条件では全然ない。それらは、特殊な有機的組織の偶然的に付加された結果としてのみ、現象として結合しているに過ぎない。だからそれらは、いかなるア・プリオリな表象でもなく感覚に根拠付けられているのであり、しかもそのうえ美味は感覚の結果としての感情(快と不快の)にすら根拠付けられている。また誰一人としてア・プリオリには、色の表象をも、何らかの味の表象をも、もつことはできない。{→ 続く}

    --- No. 20105 からの続き---

    ◇しかし空間は直観の純粋な形式にのみ関わり、それゆえ、いかなる感覚(なんらの経験的なもの)をも、それ自身のうちに全然含んでおらず、だから空間の全ての様式と規定は、形態ならびに関係の概念が成立すべきであるときにはア・プリオリにすら表象され得るし、また表象され得なければならない。空間を通じてのみ、諸物が私たちにとって外的な対象であるということが可能なのである。{以上、第一版のみ }

    ◇〔以降、第二版のみ→〕なぜなら、人は、空間以外のいかなる表象からも、空間における直観からのようにはア・プリオリな諸綜合的命題を導き出し得ないからである(第三項)。だからそうした表象には、精確に言うと、いかなる観念性も全然帰属しないのであって、たとえそうした表象が、たとえば、色、音、温かさの感覚をつうじての、視覚、聴覚、触覚という感官様式の主観的性質にのみ属するという点では、空間の表象と一致するにせよ、そうであり、しかも、色、音、温かさは、たんに感覚であって直観ではないので、それ自体ではいかなる客観をも、少なくともア・プリオリには認識せしめはしないのである。〔以上、第二版のみ〕


    † 原佑訳上巻、p.158〜p.159参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168

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