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■12672 / inTopicNo.73)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 16:46:13)
    こんばんは、質問に答えてくれてありがとう!!

    No12668に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■12644、pipitさま
    >
    > >悪魔ちゃんは形而上、と、形而上的なもの、とは区別する?<
    > こう聞かれると、うん、区別することになるかな。「形而上」は〈神〉ってなるのかな。
    > わたしのばあい“概念”を先にもってこようとしてるなかで(それに名前をつけるのは後でっていうこと)、わたしの概念からすると、それは「神」であるってしちゃうとちょっと違う感じ。だからわたしの概念に近いのは〈神的なもの〉。前に書いたと思うけど、「超越的」と「超越論的」の、前者は〈神的〉後者は〈神のような論的〉っていうのとちょっと似てる。こういうのって〈神対人間〉っていう構図が前提となっている気がするし、わたしのばあいこういうのは描いてない。<

    そうなんやー、そういうふうに考えてるんやね!
    教えてくれてありがとう

    > 形而上学も現象学絡みで、いろいろ調べて見たなかでのいまのところのまとめを書いて見ます。相互主観的なわたしの、ね。
    >
    > 〈形而下的なもの〉
    > およそこの世のありとあらゆるもの。
    > 〈この世〉?これに対して〈形而上的なもの〉は〈あの世〉ってなるのかな?ん〜んでもこういう言い方ってわたしにとっては、生きてる世界と死後の世界とか、現世と来世っていうイメージだから、〈形而下的なもの〉を、見えるものとしての〈この世界〉ってひとまずしてる。
    >
    > 〈形而上的なもの〉
    > 形而下の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべて統一し支配しているようなもの。
    > 人間の感性的経験では知りえないもの。経験的現象の奥にあるもの。
    > このようなものが存在するってして、神・霊魂・永遠の世界。
    > 簡単に、見えないものとして〈神的なもの〉ってひとまずしてる。
    > もっとも「神」という語の概念が人それぞれだろうから問題あるけどね。
    >
    > わたしの、いまのところこんな感じので〜す。<

    そうかぁ
    すべての原因、すべての根本、みたいなかんじなのかなぁと思ったよ。


    > だから「形而上学」っていうのは、わたしのばあい、〈神的なものについての学〉ってなる。
    >
    > わたし「形而上学」を「形而上」と「学」に分けて見て、でわたし思ったのね。カントってこれまでの「形而上諸学」の〈形而上的なもの〉を批判しようとしたんじゃなくて、これまでの“「学」のやりかた”の方を批判したんじゃないかって。<

    そうだね、最後の行、わたしも悪魔ちゃんと同じ意見だよ。

    なるほどー。

    また、後で、カントの文章探してみるよ!
    いったん離れるねー
    おつかれさま〜(^o^)/

引用返信/返信 削除キー/
■12670 / inTopicNo.74)  Re[19]: pipitさんへ プロレゴーメナ
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 16:33:45)
    No12650に返信(うましかさんの記事)
    > そういえば『純粋理性批判』(初版)の後にカントが著した『プロレゴーメナ』に興味がわいてきました。
    >
    > https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html
    >
    >
    > タイトルは、
    >
    > "Prolegomena zu einer jeden kuenftigen Metaphysik die als Wissenschaft wird auftreten koennen"
    >
    >
    > pipitさんがNo.12586であげた御子柴『カント哲学の核心』p.22では、
    >
    > 『学問として現れ得るだろう、将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴーメナ』
    >
    > と訳されます。
    >
    > Meta-physik (形而上学)については、『カント哲学の核心』p.24〜p.27の御子柴の説明がわりとわかりすいかなー<

    うましかさん、ありがとうございます!

    おお!読み直しましたが、この記述内容、思い出せてませんでした(汗)
    とても参考になります、教えてもらってありがとうございます!


引用返信/返信 削除キー/
■12669 / inTopicNo.75)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 16:28:22)
    うましかさん、こんばんは(^o^)/

    No12647

    > じつは、、、本日私はみずからの疑問を自分なりに解決したのです。
    >
    > 原佑訳の凡例を確認し、本日とどいた天野貞祐訳(一)の解説を読むことによって。<

    うましかさんは、ひらめきがよくあるのかもしれませんね。



    > けれども、御子柴善之『シリーズ◆世界の思想 カント 純粋理性批判』に書いてあったのですね! この本、私もってるんですが、まだ読まないと決めて温めていました(´;ω;`)ウッ… <

    めっちゃオススメですよ!と言っても、わたしもまだ、演繹論の部分をちょこちょこ読んでるくらいなんですけど(^^;


    > それよりも、今夜眠気が吹っ飛んだのは、カント自身が『純粋理性批判』(第二版)で「項」について言及していること。
    >
    >
    > これにはまいりました。
    > 教えてくださり、ありがとうございます<

    いいなぁ、わたしはその箇所読んでも、眠気が吹っ飛ぶ衝撃は受けなかったのですが、
    うましかさんには、その衝撃が来たのでしょうね。
    想像なんですが、!!!!となる瞬間ってあって、それって、めっちゃ、!!!!ですよね〜(なんちゅー表現力(~_~;))
    理解が差し込まれる、というか
    ひらめき、なのかなぁ
    人それぞれのタイミングで、人それぞれにとっての意義で、それぞれの縁で、閃くのかなぁと想像してます。
    眠気吹っ飛ぶ衝撃来て、よかったですね(#^.^#)


    > はやくカント沼でバタ足できるようにがんばりまーす!<

    もう全然泳ぎだしてるんじゃないですかね(^_^)
    この前思ってたんですけど、私たちの理解が変容することによって、
    泥沼(に見えたもの)が、透き通った美しい湖に変わるといいなぁ、って。

    お互い、それぞれに有意義な学びとなりますように。

    ありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■12668 / inTopicNo.76)  Re[19]: 形而上学的なもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/15(Sat) 16:26:13)
    ■12644、pipitさま

    >悪魔ちゃんは形而上、と、形而上的なもの、とは区別する?<
    こう聞かれると、うん、区別することになるかな。「形而上」は〈神〉ってなるのかな。
    わたしのばあい“概念”を先にもってこようとしてるなかで(それに名前をつけるのは後でっていうこと)、わたしの概念からすると、それは「神」であるってしちゃうとちょっと違う感じ。だからわたしの概念に近いのは〈神的なもの〉。前に書いたと思うけど、「超越的」と「超越論的」の、前者は〈神的〉後者は〈神のような論的〉っていうのとちょっと似てる。こういうのって〈神対人間〉っていう構図が前提となっている気がするし、わたしのばあいこういうのは描いてない。

    形而上学も現象学絡みで、いろいろ調べて見たなかでのいまのところのまとめを書いて見ます。相互主観的なわたしの、ね。

    〈形而下的なもの〉
    およそこの世のありとあらゆるもの。
    〈この世〉?これに対して〈形而上的なもの〉は〈あの世〉ってなるのかな?ん〜んでもこういう言い方ってわたしにとっては、生きてる世界と死後の世界とか、現世と来世っていうイメージだから、〈形而下的なもの〉を、見えるものとしての〈この世界〉ってひとまずしてる。

    〈形而上的なもの〉
    形而下の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべて統一し支配しているようなもの。
    人間の感性的経験では知りえないもの。経験的現象の奥にあるもの。
    このようなものが存在するってして、神・霊魂・永遠の世界。
    簡単に、見えないものとして〈神的なもの〉ってひとまずしてる。
    もっとも「神」という語の概念が人それぞれだろうから問題あるけどね。

    わたしの、いまのところこんな感じので〜す。

    だから「形而上学」っていうのは、わたしのばあい、〈神的なものについての学〉ってなる。

    わたし「形而上学」を「形而上」と「学」に分けて見て、でわたし思ったのね。カントってこれまでの「形而上諸学」の〈形而上的なもの〉を批判しようとしたんじゃなくて、これまでの“「学」のやりかた”の方を批判したんじゃないかって。

    あ、ちょとお喋り過ぎちゃっかも。





引用返信/返信 削除キー/
■12650 / inTopicNo.77)  pipitさんへ プロレゴーメナ
□投稿者/ うましか -(2021/05/15(Sat) 02:34:46)
    そういえば『純粋理性批判』(初版)の後にカントが著した『プロレゴーメナ』に興味がわいてきました。

    https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html


    タイトルは、

    "Prolegomena zu einer jeden kuenftigen Metaphysik die als Wissenschaft wird auftreten koennen"


    pipitさんがNo.12586であげた御子柴『カント哲学の核心』p.22では、

    『学問として現れ得るだろう、将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴーメナ』

    と訳されます。

    Meta-physik (形而上学)については、『カント哲学の核心』p.24〜p.27の御子柴の説明がわりとわかりすいかなー
引用返信/返信 削除キー/
■12647 / inTopicNo.78)  Re[14]: うましかさんへ §について
□投稿者/ うましか -(2021/05/15(Sat) 01:42:38)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    今夜は、pipitさんに脱帽です!

    *******

    >>そういえばNo.12554において、私は「形而上学的な根拠づけ(演繹)」という言葉は、第一版(初版)では出てこないと書きました。そのときもうひとつ気になったことなのですが、第一版の「純粋悟性概念の演繹」ではそもそも第〇項(§〇)とされていないのです(原佑訳上巻、p.249〜参照)。もしかしたら、§〇で分ける方法というのは、第二版のときに新たに導入したものかなとおもいました。<

    >その通りみたいです。
    御子柴善之先生の『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、p105に、
    『(1)『純粋理性批判』には「超越論的感性論」から「超越論的分析論」の途中まで、§1から§27までの区分がありますが、これは第二版で挿入されたものです。初版にこのような区分はありませんでした。』
    と載っていました。

    >この項目分けをやめる時のカントによる文章が、中山先生訳本の第二巻p178に載っています。
    >また、この項目分けについて、中山先生が奇妙に思われる点を、第一巻p253の、訳注(17)で書かれています。


    *******

    じつは、、、本日私はみずからの疑問を自分なりに解決したのです。

    原佑訳の凡例を確認し、本日とどいた天野貞祐訳(一)の解説を読むことによって。

    けれども、御子柴善之『シリーズ◆世界の思想 カント 純粋理性批判』に書いてあったのですね! この本、私もってるんですが、まだ読まないと決めて温めていました(´;ω;`)ウッ… しかもp.85の註(1)という分かりづらさ。

    pipitさんの読み込みはていねいですね(私がおおざっぱなだけかな^^;)

    それよりも、今夜眠気が吹っ飛んだのは、カント自身が『純粋理性批判』(第二版)で「項」について言及していること。



    これにはまいりました。
    教えてくださり、ありがとうございます!


    はやくカント沼でバタ足できるようにがんばりまーす!

    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/
■12646 / inTopicNo.79)  うましかさんへ §について
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 00:14:09)
    うましかさん、こんばんは〜(^_^)

    No12617
    > 「“形而上学的“演繹」といわれた箇所が具体的にどこに該当するのかという問いについては、中山が§10の一部(※中山元訳2、p.66〜p.73、中山による通し番号では【109】〜【115】に該当)と考えているのに対して、pipitさんのご指摘によれば、御子柴はもう少し広い範囲(※中山による通し番号で【103】〜【119】に該当)を想定しているということですよね。
    >
    > ちょっと気になったのは、御子柴は「形而上学的演繹」の箇所を「特に、§9、§10」(御子柴、p.37)と書いているので、§9、§10に限らず、もう少し広くとらえているのではないかとおもいました。<

    ほんとですね、特に、ということは、その他も考慮に入ってそうな表現ですね。


    > カントが「形而上学的な根拠づけ」と名づけたくなかったなんて話しもとびだしてビックリ…(中山元訳2、p.410参照)<

    わ〜、その文章は見落としてました(゚Д゚)
    注かぁ、うましかさんは見逃さないですね〜
    どんな記述か読みたいけど、立て込みすぎてて手が出せないかな(^^;

    > そういえばNo.12554において、私は「形而上学的な根拠づけ(演繹)」という言葉は、第一版(初版)では出てこないと書きました。そのときもうひとつ気になったことなのですが、第一版の「純粋悟性概念の演繹」ではそもそも第〇項(§〇)とされていないのです(原佑訳上巻、p.249〜参照)。もしかしたら、§〇で分ける方法というのは、第二版のときに新たに導入したものかなとおもいました。<

    その通りみたいです。
    御子柴善之先生の『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、p105に、
    『(1)『純粋理性批判』には「超越論的感性論」から「超越論的分析論」の途中まで、§1から§27までの区分がありますが、これは第二版で挿入されたものです。初版にこのような区分はありませんでした。』
    と載っていました。

    この項目分けをやめる時のカントによる文章が、中山先生訳本の第二巻p178に載っています。
    また、この項目分けについて、中山先生が奇妙に思われる点を、第一巻p253の、訳注(17)で書かれています。

    好き勝手な想像なんですけど、初版を出版した時に、理解してもらえてないのにめちゃめちゃ批判されたりしたので、他人に説明しやすいようにとか、わかりやすくなるように、とか考えた、カント先生なりの努力なのかなぁと妄想しました。

    書き込みありがとうございます(^o^)/



引用返信/返信 削除キー/
■12644 / inTopicNo.80)  Re[17]: 形而上的なもの
□投稿者/ pipit -(2021/05/14(Fri) 22:16:03)
    No12635に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■12622、pipitさま
    >
    > ありがとございま〜す。
    >
    > >こちらはかまわないから気軽に書き込んでね<
    > おことばに甘えて、
    >
    > わたしね、〈形而上的なもの〉と「形而上学」は区別して見てます。
    > 〈形而上的なもの〉に関する「学」が「形而上学」ね。
    > 上があるんだから下もあるはず、で〈形而下的なもの〉。
    >
    > でね、カントさんは〈形而上的なもの〉について、なんか言ってる?
    > 気が向けば、でいいよ。<

    こんばんは!
    りょうかい〜(^o^)/

    調べて何か書ければ書こうと思うのだけど、その前に、
    悪魔ちゃんは形而上、と、形而上的なもの、とは区別する?
    それぞれ、どんな事柄と考えているのか聞いてもいいかな?

引用返信/返信 削除キー/
■12635 / inTopicNo.81)  Re[16]: 形而上的なもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/14(Fri) 19:09:25)
    ■12622、pipitさま

    ありがとございま〜す。

    >こちらはかまわないから気軽に書き込んでね<
    おことばに甘えて、

    わたしね、〈形而上的なもの〉と「形而上学」は区別して見てます。
    〈形而上的なもの〉に関する「学」が「形而上学」ね。
    上があるんだから下もあるはず、で〈形而下的なもの〉。

    でね、カントさんは〈形而上的なもの〉について、なんか言ってる?
    気が向けば、でいいよ。


引用返信/返信 削除キー/
■12623 / inTopicNo.82)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/05/14(Fri) 10:41:16)
    No.12622
    > この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』
    (引用終了)<

    この闘争、は、自分 対 他人
    だけでなく、
    自分1人の中でも闘争や葛藤になることもあるかもしれないなぁと思いました。

    悪魔ちゃんの『演繹』についての質問は、また後ほど〜

    うましかさんも、すごくおもしろそうな内容のコメントをありがとうございます!
    読み込むの楽しみ〜(*^o^*)

    とりあえず用事してきまーす♪


引用返信/返信 削除キー/
■12622 / inTopicNo.83)  悪魔ちゃんへ 形而上学
□投稿者/ pipit -(2021/05/14(Fri) 10:28:34)
    No12596に返信
    悪魔ちゃん、こんばんは!
    簡単に考えてたら、いざ探そうとすると、私には超巨大な質問だったよ。(^◇^;)

    文脈によって、いろんな使われ方がしてそうなんだけど、
    とりあえず、【初版の序文】の冒頭のまとまりが、『この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』(中山元先生訳)という言葉でまとめられる箇所となってるので、そこを引用するね。
    初版の序文の冒頭だから、しょっぱな中のしょっぱなだね!

    ================

    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p199と200より引用。

    (引用開始)
    『人間の理性のある種の認識には、特別な宿命のようなものがある。
    理性は拒むことのできない問いに悩まされ続けているのである。
    この問いは、理性の本性そのものから課された問いでありながら、理性はそれに答えることができない。
    それが人間の理性のすべての能力を超えた問いだからである。

     この苦境に陥ったのは、理性の責任ではない。
    理性が手始めに利用する原則は、経験において十分に確証されているものである。
    そして理性はこの原則を使用しながら、ますます高みに上昇し(高みに上昇することは、理性の本性なのである)、遠くかけ離れた条件にまで到達するのである。

     しかしこのような形では問いそのものがなくなることはないので、人間の理性は自分の仕事に終わりがないことに気づく。
    そこで理性は、ありうるすべての経験的な使用を超越してはいるが、それでいて人間の常識的な理性でも了解することができるため、それほど疑わしいと思われないような原則に逃避する必要があると感じるのである。

     しかし理性はそのために曖昧さと矛盾のうちに陥ることになる。
    理性はどこかに誤謬がひそんでいるに違いないと推定することはできるのだが、それを発見することはできない。
    理性が使用している原則が、すべての経験の境界の外に出ているために、経験という〈試金石〉をもはや認めなくなるからである。

    この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』
    (引用終了)

    ================

    pipitの感想
    わたしはなんで存在してるんかなあ?
    神様がいるんかなあ?
    宇宙ってどうなってるんかなあ?
    端っこあるんかなあ?
    などの、理性の問いに答えるため、
    理性自身が考える原則(仮説)は、自己の経験の境界をでてることが一般的であり、そこでは科学原則(仮説)のように実験して確かめるという試金石が存在しないことも一般的である。
    だから、仮説だらけになって、だれが正しいのか(試金石もないのに)、の、闘争が生じる。
    それが、カントがその時代に経験してた、『形而上学』という領域だったのかな?
    と思いました。

    ※※※※※※※※

    とりあえず、『形而上学』について、たくさんある記述の中の一つを引用しました。
    いつでも、どんなことでも、聞いてくれるのは、こちらはかまわないから気軽に書き込んでね(^_^)(答えたくなーい、答えられなーい、だったら、答えないから安心してね!)

    悪魔ちゃんは、カントに関する解説などより、カント本人の文章が一番わかりやすい、みたいなことを書いてくれたね。
    悪魔ちゃんに答えるために引用した記事を読み返すと、(あら?カントの文章、もしかしてわかりやすい???)って私もそんな気になるよ。
    普段めちゃめちゃ苦労してるんだけどね。

    わたし、を、軸にするとわかりやすくなるのかな。
    わからんけど、、、不思議。

    ありがとうです!
引用返信/返信 削除キー/
■12617 / inTopicNo.84)  pipitさんへ 形而上学的演繹の箇所等
□投稿者/ うましか -(2021/05/13(Thu) 21:17:45)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    御子柴善之『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』(NHKブックス)、私も持っていました〜 \(^^)/

    それにしてもpipitさんの引き出しはすごいですね!

    *******

    >御子柴善之先生は、形而上学的演繹に該当する箇所を、
    >中山元先生よりもう少し広くとって考えられているようです。
    >『「形而上学的演繹」(B159に見られる表現)と呼ばれる箇所(特に§9と§10)』と書かれており
    → No.12586

    ありがとうございます!
    毎回とても参考になりますm(__)m

    「“形而上学的“演繹」といわれた箇所が具体的にどこに該当するのかという問いについては、中山が§10の一部(※中山元訳2、p.66〜p.73、中山による通し番号では【109】〜【115】に該当)と考えているのに対して、pipitさんのご指摘によれば、御子柴はもう少し広い範囲(※中山による通し番号で【103】〜【119】に該当)を想定しているということですよね。

    ちょっと気になったのは、御子柴は「形而上学的演繹」の箇所を「特に、§9、§10」(御子柴、p.37)と書いているので、§9、§10に限らず、もう少し広くとらえているのではないかとおもいました。pipitさんもこうおっしゃっていたように、

    >体裁の整え方、変更箇所などについて、各研究者によって、実に様々な解釈があるようです。
    No.12559

    このあたりも、専門家、研究者間で相違があるのかもしれませんね!
    どんな解釈があるのかは、今後の楽しみに残しておきます(^^)
    カントが「形而上学的な根拠づけ」と名づけたくなかったなんて話しもとびだしてビックリ…(中山元訳2、p.410参照)


    そういえばNo.12554において、私は「形而上学的な根拠づけ(演繹)」という言葉は、第一版(初版)では出てこないと書きました。そのときもうひとつ気になったことなのですが、第一版の「純粋悟性概念の演繹」ではそもそも第〇項(§〇)とされていないのです(原佑訳上巻、p.249〜参照)。もしかしたら、§〇で分ける方法というのは、第二版のときに新たに導入したものかなとおもいました。

    ささいなことですが^^;


    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/

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